第二章 小さな「ありがとう」が、放課後まで胸に残った。
朝の教室には、まだ少し、眠気を引きずったような空気が漂っていた。窓の外では、昨日と変わらず、桜の花びらが、風に乗って舞っている。けれど、その数は、少しずつ、減り始めているようだった。春という季節は、こんなにも、足早に過ぎていくものなのかと、惺は、ぼんやりと、そんなことを考えていた。
教室の窓際、朝日が差し込む席に座ると、机の木目の上に、淡い光の模様が浮かび上がる。惺は、その光を、指先でなぞりながら、昨日の出来事を、もう一度、思い返していた。生徒手帳を届けたときの、あの小さな声。「ありがとう、ございます」。その響きが、まだ、耳の奥に、こびりついたまま、離れてくれなかった。
授業中も、休み時間も、給食の時間も。誰かに話しかけられても上の空で返事をしてしまい、二時間目の数学では先生に名前を呼ばれるまで気づかなかったくらいだ。
「坂本、聞いてるか」
「あ、はい、すみません」
慌てて答えると、周りの何人かがくすくすと笑った。惺は頭を掻きながら席に座り直した。別に、何か特別なことが起きたわけではない。ただ、昨日の放課後、白灯文庫で聞いた小さな「ありがとう」が、頭の隅にずっと居座っているだけだった。
灯凪高校の図書室には、正式な名前がある。白灯文庫。誰が呼び始めたのか分からないけれど、いつの間にかその呼び名が定着していたらしい。窓から差し込む西日が、まるで白い灯りのように本棚を照らすからだと、後で一澄が教えてくれた。
購買部の前には、いつものように、長い行列ができていた。焼きそばパンや、クリームパンを求めて、生徒たちが、押し合いへし合い、列を作っている。惺は、その喧騒の中を、なんとかすり抜けて、目当てのパンを手に入れた。
購買の窓から差し込む日差しは、もう、すっかり初夏の気配を帯び始めていた。生徒たちの笑い声、廊下を走る足音、遠くから聞こえる、運動部の掛け声。四月の学校という場所は、いつも、こんなにも、賑やかで、活気に満ちている。それなのに、惺の頭の中には、ただ一人の、静かな相手のことだけが、繰り返し、浮かび続けていた。
「お前さ、まだ引きずってんの? 昨日の生徒手帳のこと」
昼休み、購買のパンを頬張りながら、一澄がにやにやしながら聞いてきた。惺は牛乳パックのストローを咥えたまま、少し口ごもる。
「引きずってるってほどじゃ、ないけど」
「顔に書いてあるって。珍しいよな、お前がそんな顔すんの」
「どんな顔だよ」
「気になって仕方ない、みたいな顔」
図星を突かれた気がして、惺は何も言い返せなかった。一澄は昔から、こういうところで妙に鋭い。小学校からの付き合いだから、隠し事をしても大抵は見抜かれてしまう。
「別に、そんな大したことじゃないよ。生徒手帳を届けただけだ。それに、お礼を言われただけだし」
「お礼を言われただけ、ね」
一澄はわざとらしく繰り返して、笑った。惺はそれ以上何も言わず、パンの残りを口に押し込んだ。
けれど、実際のところ、あの「ありがとう」は、想像していたよりもずっと重たく胸に残っていた。声そのものは、本当に小さかった。風が吹けば消えてしまいそうなくらいの、控えめな声。それなのに、なぜか耳の奥から離れてくれない。
放課後、惺は部活の朝練の疲れもあって、まっすぐ帰るつもりだった。自転車置き場に向かう途中、ふと三階の窓を見上げた。西日が反射して、白灯文庫の窓がオレンジ色に染まっている。
昨日、あの窓の向こうに、彼女がいた。
惺は自分でも驚くくらい自然に、階段を上り始めていた。特に用事があるわけではない。生徒手帳はもう返し終えているし、話すべきことも思いつかない。それでも、足はひとりでに三階へと向かっていた。
階段を上るたびに、廊下の喧騒は、少しずつ、遠ざかっていった。三階に差し掛かる頃には、まるで、別の建物に迷い込んだかのような、静けさが、惺を包み込んだ。窓の外には、校庭で部活動に励む生徒たちの姿が、小さく見える。その光景を、惺は、少しの間、立ち止まって、眺めていた。
白灯文庫の扉に手をかけると、ひんやりとした金属の感触が、指先に伝わってきた。扉を開けると、いつもと変わらない、紙とインクの匂いが、惺を迎え入れる。静かな空調の音、遠くのページをめくる音。数人の生徒が思い思いの席で本を開いている。窓から差し込む西日は、昨日よりも、わずかに、傾きが深くなっているように感じられた。季節は、確かに、少しずつ、進んでいる。
窓際の席に、彼女はいなかった。
惺は少し拍子抜けしたような気持ちで、その空いた席を見つめた。当たり前だ。毎日同じ時間に同じ場所にいるとは限らない。それなのに、どこかで期待していた自分に気づいて、少し恥ずかしくなった。
「探し物?」
背後から声をかけられて、惺は振り返った。図書委員らしい腕章をつけた女子生徒が、カウンターの向こうから顔を覗かせている。
「あ、いや……別に」
「夜久さんなら、今日は部活動の見学に行ってるはずだよ。美術部の」
名前を出された途端、惺は動揺を隠せなかった。
「な、なんで分かるんですか」
「昨日、生徒手帳を届けてくれた人でしょう。夜久さん、珍しく話してたから覚えてる。無口な人だけど、あなたのことはちゃんと話してたよ」
惺は言葉に詰まった。話していた、というその一言が、想像以上に嬉しく響いてしまったからだ。何を話していたのか、聞きたい気持ちと、聞くのが怖い気持ちが同時に湧き上がる。
「そう、なんですね」
結局、それだけしか言えなかった。図書委員の生徒は、それ以上何も言わずに、また作業に戻っていった。惺は少しの間、窓際の空いた席を見つめてから、白灯文庫を後にした。
惺は、廊下を歩いた。三階から二階へと続く階段の踊り場からは、中庭の様子が、よく見渡せた。新緑を纏い始めた木々の間を、生徒たちが、部活動の道具を抱えて、行き交っている。
美術室のある棟へと近づくにつれて、絵の具特有の、油とテレビン油が混じったような、独特の匂いが、廊下に漂い始めた。扉の隙間から漏れる、生徒たちの話し声や、キャンバスに筆を走らせる、微かな音。惺は、その匂いと音に導かれるように、美術室の前へと、足を進めていった。
中を覗くつもりはなかったのに、開けっぱなしのドアから、絵の具の匂いと話し声が漏れてきていた。何人かの新入生や見学者が、キャンバスを覗き込んでいる。
その中に、彼女の姿があった。
夜久望乃莉は、他の生徒から少し離れた場所で、静かに一枚の絵を眺めていた。誰かと話すわけでもなく、ただじっと、絵の中の何かを見つめている。その横顔は、白灯文庫で本を読んでいたときと同じくらい、静かだった。
惺は立ち止まって、その様子をしばらく見ていた。声をかけるつもりはなかった。ただ、なんとなく、彼女がどんな表情をしているのか確かめたかっただけだ。
やがて、彼女がふと視線を上げた。窓の外を見るような仕草の途中で、その視線が惺の方向を通り過ぎた。
一瞬、目が合った気がした。
けれど、彼女はすぐに視線を絵に戻してしまった。気づかれなかったのか、それとも気づかないふりをされたのか、惺には分からなかった。少しの気まずさを感じて、惺はその場を離れることにした。
自転車を漕ぎながら、惺は昼間の一澄の言葉を思い出していた。「気になって仕方ない、みたいな顔」。あのときは否定したけれど、今なら少しだけ分かる気がした。
夜久望乃莉という人のことを、惺はまだほとんど知らない。名前と、無口だということと、白灯文庫が好きらしいということ。それだけだ。それなのに、たった一日で、頭の中に彼女の居場所ができてしまっていた。
夕方の灯凪町は、潮風がいつもより強く吹いていた。
自転車を漕ぎながら、惺は、海沿いの道を選んで、帰路についた。波の音が遠くから響いてくる。
夕暮れの灯凪町は、昼間の賑わいが嘘のように、静かな表情を見せ始めている。潮の匂いを含んだ風が、頬を撫でていく感触は、どこか、心を落ち着かせてくれるようだった。
漁港の方角からは、船の帰りを告げる、汽笛の音が、微かに聞こえてくる。惺は、その音に耳を澄ませながら、もう一度、あの小さな声を思い出した。
「ありがとう、ございます」
短い言葉だった。特別な意味なんて、何もないはずだった。それでも、その声は、今日一日を通して、他のどんな会話よりも長く惺の中に残り続けていた。
先生に叱られた声も、一澄にからかわれた言葉も、購買のおばさんの元気な挨拶も、今日交わした会話の中では、あの一言に敵わなかった。
たった一言なのに、その日一番長く残った音になった。
空の色は、次第に、橙色から、深い紫へと、移り変わっていく。灯凪町の一日が、また一つ、静かに、幕を閉じようとしていた。
朝の教室には、まだ少し、眠気を引きずったような空気が漂っていた。窓の外では、昨日と変わらず、桜の花びらが、風に乗って舞っている。けれど、その数は、少しずつ、減り始めているようだった。春という季節は、こんなにも、足早に過ぎていくものなのかと、惺は、ぼんやりと、そんなことを考えていた。
教室の窓際、朝日が差し込む席に座ると、机の木目の上に、淡い光の模様が浮かび上がる。惺は、その光を、指先でなぞりながら、昨日の出来事を、もう一度、思い返していた。生徒手帳を届けたときの、あの小さな声。「ありがとう、ございます」。その響きが、まだ、耳の奥に、こびりついたまま、離れてくれなかった。
授業中も、休み時間も、給食の時間も。誰かに話しかけられても上の空で返事をしてしまい、二時間目の数学では先生に名前を呼ばれるまで気づかなかったくらいだ。
「坂本、聞いてるか」
「あ、はい、すみません」
慌てて答えると、周りの何人かがくすくすと笑った。惺は頭を掻きながら席に座り直した。別に、何か特別なことが起きたわけではない。ただ、昨日の放課後、白灯文庫で聞いた小さな「ありがとう」が、頭の隅にずっと居座っているだけだった。
灯凪高校の図書室には、正式な名前がある。白灯文庫。誰が呼び始めたのか分からないけれど、いつの間にかその呼び名が定着していたらしい。窓から差し込む西日が、まるで白い灯りのように本棚を照らすからだと、後で一澄が教えてくれた。
購買部の前には、いつものように、長い行列ができていた。焼きそばパンや、クリームパンを求めて、生徒たちが、押し合いへし合い、列を作っている。惺は、その喧騒の中を、なんとかすり抜けて、目当てのパンを手に入れた。
購買の窓から差し込む日差しは、もう、すっかり初夏の気配を帯び始めていた。生徒たちの笑い声、廊下を走る足音、遠くから聞こえる、運動部の掛け声。四月の学校という場所は、いつも、こんなにも、賑やかで、活気に満ちている。それなのに、惺の頭の中には、ただ一人の、静かな相手のことだけが、繰り返し、浮かび続けていた。
「お前さ、まだ引きずってんの? 昨日の生徒手帳のこと」
昼休み、購買のパンを頬張りながら、一澄がにやにやしながら聞いてきた。惺は牛乳パックのストローを咥えたまま、少し口ごもる。
「引きずってるってほどじゃ、ないけど」
「顔に書いてあるって。珍しいよな、お前がそんな顔すんの」
「どんな顔だよ」
「気になって仕方ない、みたいな顔」
図星を突かれた気がして、惺は何も言い返せなかった。一澄は昔から、こういうところで妙に鋭い。小学校からの付き合いだから、隠し事をしても大抵は見抜かれてしまう。
「別に、そんな大したことじゃないよ。生徒手帳を届けただけだ。それに、お礼を言われただけだし」
「お礼を言われただけ、ね」
一澄はわざとらしく繰り返して、笑った。惺はそれ以上何も言わず、パンの残りを口に押し込んだ。
けれど、実際のところ、あの「ありがとう」は、想像していたよりもずっと重たく胸に残っていた。声そのものは、本当に小さかった。風が吹けば消えてしまいそうなくらいの、控えめな声。それなのに、なぜか耳の奥から離れてくれない。
放課後、惺は部活の朝練の疲れもあって、まっすぐ帰るつもりだった。自転車置き場に向かう途中、ふと三階の窓を見上げた。西日が反射して、白灯文庫の窓がオレンジ色に染まっている。
昨日、あの窓の向こうに、彼女がいた。
惺は自分でも驚くくらい自然に、階段を上り始めていた。特に用事があるわけではない。生徒手帳はもう返し終えているし、話すべきことも思いつかない。それでも、足はひとりでに三階へと向かっていた。
階段を上るたびに、廊下の喧騒は、少しずつ、遠ざかっていった。三階に差し掛かる頃には、まるで、別の建物に迷い込んだかのような、静けさが、惺を包み込んだ。窓の外には、校庭で部活動に励む生徒たちの姿が、小さく見える。その光景を、惺は、少しの間、立ち止まって、眺めていた。
白灯文庫の扉に手をかけると、ひんやりとした金属の感触が、指先に伝わってきた。扉を開けると、いつもと変わらない、紙とインクの匂いが、惺を迎え入れる。静かな空調の音、遠くのページをめくる音。数人の生徒が思い思いの席で本を開いている。窓から差し込む西日は、昨日よりも、わずかに、傾きが深くなっているように感じられた。季節は、確かに、少しずつ、進んでいる。
窓際の席に、彼女はいなかった。
惺は少し拍子抜けしたような気持ちで、その空いた席を見つめた。当たり前だ。毎日同じ時間に同じ場所にいるとは限らない。それなのに、どこかで期待していた自分に気づいて、少し恥ずかしくなった。
「探し物?」
背後から声をかけられて、惺は振り返った。図書委員らしい腕章をつけた女子生徒が、カウンターの向こうから顔を覗かせている。
「あ、いや……別に」
「夜久さんなら、今日は部活動の見学に行ってるはずだよ。美術部の」
名前を出された途端、惺は動揺を隠せなかった。
「な、なんで分かるんですか」
「昨日、生徒手帳を届けてくれた人でしょう。夜久さん、珍しく話してたから覚えてる。無口な人だけど、あなたのことはちゃんと話してたよ」
惺は言葉に詰まった。話していた、というその一言が、想像以上に嬉しく響いてしまったからだ。何を話していたのか、聞きたい気持ちと、聞くのが怖い気持ちが同時に湧き上がる。
「そう、なんですね」
結局、それだけしか言えなかった。図書委員の生徒は、それ以上何も言わずに、また作業に戻っていった。惺は少しの間、窓際の空いた席を見つめてから、白灯文庫を後にした。
惺は、廊下を歩いた。三階から二階へと続く階段の踊り場からは、中庭の様子が、よく見渡せた。新緑を纏い始めた木々の間を、生徒たちが、部活動の道具を抱えて、行き交っている。
美術室のある棟へと近づくにつれて、絵の具特有の、油とテレビン油が混じったような、独特の匂いが、廊下に漂い始めた。扉の隙間から漏れる、生徒たちの話し声や、キャンバスに筆を走らせる、微かな音。惺は、その匂いと音に導かれるように、美術室の前へと、足を進めていった。
中を覗くつもりはなかったのに、開けっぱなしのドアから、絵の具の匂いと話し声が漏れてきていた。何人かの新入生や見学者が、キャンバスを覗き込んでいる。
その中に、彼女の姿があった。
夜久望乃莉は、他の生徒から少し離れた場所で、静かに一枚の絵を眺めていた。誰かと話すわけでもなく、ただじっと、絵の中の何かを見つめている。その横顔は、白灯文庫で本を読んでいたときと同じくらい、静かだった。
惺は立ち止まって、その様子をしばらく見ていた。声をかけるつもりはなかった。ただ、なんとなく、彼女がどんな表情をしているのか確かめたかっただけだ。
やがて、彼女がふと視線を上げた。窓の外を見るような仕草の途中で、その視線が惺の方向を通り過ぎた。
一瞬、目が合った気がした。
けれど、彼女はすぐに視線を絵に戻してしまった。気づかれなかったのか、それとも気づかないふりをされたのか、惺には分からなかった。少しの気まずさを感じて、惺はその場を離れることにした。
自転車を漕ぎながら、惺は昼間の一澄の言葉を思い出していた。「気になって仕方ない、みたいな顔」。あのときは否定したけれど、今なら少しだけ分かる気がした。
夜久望乃莉という人のことを、惺はまだほとんど知らない。名前と、無口だということと、白灯文庫が好きらしいということ。それだけだ。それなのに、たった一日で、頭の中に彼女の居場所ができてしまっていた。
夕方の灯凪町は、潮風がいつもより強く吹いていた。
自転車を漕ぎながら、惺は、海沿いの道を選んで、帰路についた。波の音が遠くから響いてくる。
夕暮れの灯凪町は、昼間の賑わいが嘘のように、静かな表情を見せ始めている。潮の匂いを含んだ風が、頬を撫でていく感触は、どこか、心を落ち着かせてくれるようだった。
漁港の方角からは、船の帰りを告げる、汽笛の音が、微かに聞こえてくる。惺は、その音に耳を澄ませながら、もう一度、あの小さな声を思い出した。
「ありがとう、ございます」
短い言葉だった。特別な意味なんて、何もないはずだった。それでも、その声は、今日一日を通して、他のどんな会話よりも長く惺の中に残り続けていた。
先生に叱られた声も、一澄にからかわれた言葉も、購買のおばさんの元気な挨拶も、今日交わした会話の中では、あの一言に敵わなかった。
たった一言なのに、その日一番長く残った音になった。
空の色は、次第に、橙色から、深い紫へと、移り変わっていく。灯凪町の一日が、また一つ、静かに、幕を閉じようとしていた。
