第八章 花火の音より大きく、胸は騒いでいた。
花火は夜空より、人の横顔を照らしている。
八月最後の週末が近づくにつれて、灯凪町の商店街には、祭りの準備が、着々と、進められていた。提灯が、通りの至る所に、飾り付けられ、屋台の骨組みが、次々と、組み立てられていく。町全体が、夏の終わりを、盛大に、祝おうとしているかのような、賑やかな活気に、包まれ始めていた。町の中心を流れる川沿いに屋台が並び、夜には花火が打ち上げられる。灯凪町の住民にとって、この祭りは、夏の終わりを告げる、大切な行事になっていた。
「今年も行くだろ、祭り」
一澄が、当然のように惺を誘ってきたのは、祭りの数日前のことだった。惺は毎年、一澄たちと連れ立って祭りに参加していたけれど、今年は少し違う思いがあった。
「望乃莉も、誘ってみようかな」
惺がぽつりと呟くと、一澄はにやりと笑った。
「おお、いいじゃん。誘えよ」
背中を押されるように、惺は翌朝の交差点で、勇気を出して尋ねてみた。
「望乃莉、今度の土曜、祭りあるんだけど。もしよかったら、一緒に行かない?」
望乃莉は、一瞬驚いたような表情を見せてから、小さく頷いた。
「はい、行きたいです」
その返事に、惺は飛び上がりたいような気持ちを、なんとか抑え込んだ。惺は、夏祭りの準備の様子を、通学路の途中で、目にするたびに、望乃莉と一緒に行く祭りのことを、心待ちにするようになっていた。
祭り当日、惺は約束の場所で、いつもより早く到着して、望乃莉を待っていた。夕暮れの空は、少しずつ、その色を、橙色から、深い紫へと、変化させていた。遠くから、祭り囃子の音色が、風に乗って、微かに、聞こえてくる。その音は、次第に、その音量を、増していった。
「お待たせしました」
望乃莉が現れたとき、惺は思わず言葉を失ってしまった。彼女は、淡い水色の浴衣を着ていた。髪をいつもと違う編み込みにまとめていて、普段の彼女とは、また違った雰囲気があった。夕暮れの柔らかな光が、彼女の姿を、優しく、包み込んでいた。惺は、その光景に、しばらくの間、見惚れてしまい、言葉を失っていた。
「その、似合ってる。すごく」
惺がやっとのことで絞り出した言葉に、望乃莉は頬を赤らめた。
「ありがとう、ございます。惺くんも、浴衣、似合ってます」
惺も、母親に勧められて、久しぶりに浴衣を着てきていた。慣れない着心地に、少し落ち着かない気持ちだったけれど、望乃莉のその一言で、着てきてよかったと心から思えた。
二人は、一澄たちとも合流しながら、祭りの屋台を巡った。祭り会場の屋台通りには、たこ焼きの、香ばしい匂いや、綿菓子の、甘い香りが、辺り一帯に、漂っていた。提灯の柔らかな灯りが、次第に暗くなっていく空の下で、いっそう、その暖かな輝きを、増している。
惺と望乃莉は、その賑やかな喧騒の中を、並んで、歩いていった。子供たちの、はしゃぐ声や、屋台の店主たちの、威勢の良い呼び込みの声が、絶えることなく、二人の周りを、包み込んでいた。
他愛のない時間を、他愛のない会話を交わしながら過ごした。けれど、惺の意識は、常に隣にいる望乃莉に向けられていた。
「花火、そろそろ始まるみたいだよ」
一澄が、時計を確認しながら言った。周りの人々が、次第に川沿いの土手の方へ移動し始めている。一澄たちは、他の友人グループと合流するとかで、先に行ってしまった。
「私たちも、行きましょうか」
望乃莉が、惺の方を向いて言った。惺は頷いて、彼女と一緒に、土手の方へ歩き出した。
土手にはすでに多くの人が集まっていて、良い場所を確保するのは難しそうだった。それでも、二人は、なんとか川に面した場所を見つけて、並んで腰を下ろした。
「ここなら、よく見えそうだね」
「はい」
しばらくすると、最初の花火が、打ち上げられた。その瞬間、川面には、その色鮮やかな光が、くっきりと、反射していた。轟音と共に、夜空いっぱいに、大輪の花が、咲き誇る。その光は、望乃莉の横顔を、赤や、青や、金色に、次々と、染め上げていった。
周囲を埋め尽くす、観客たちの、感嘆の声。惺は、その声にも、花火の轟音にも、負けないほどの、大きな鼓動を、自分の胸の中に、感じ続けていた。
惺は、花火を見上げながら、時折、隣の望乃莉に視線を向けた。花火の光が、彼女の横顔を、色とりどりに照らしている。赤、青、金色。次々と変わる光の中で、彼女の表情は、これまで見た中で、いちばん無防備に見えた。
「きれい、ですね」
望乃莉が、夜空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「うん、きれいだ」
惺は、そう答えながらも、視線は花火よりも、彼女の横顔に向いていた。花火の音が、次々と夜空に響き渡る。けれど、惺の耳には、その音よりも、自分自身の心臓の音の方が、ずっと大きく聞こえていた。
好きだ。
その言葉が、惺の胸の中で、はっきりとした形を持ち始めていた。これまで、名前をつけることを躊躇っていた感情。それが今、目の前で花火に照らされる彼女の横顔を見つめながら、確かな輪郭を持って、惺の中に居座っていた。
大きな花火が、次々と打ち上げられていく。フィナーレに近づくにつれて、その数と迫力は、どんどん増していった。轟音とともに、夜空全体が、光と色に染まっていく。
その音に紛れて、惺は、思わず、心の中の言葉を、口に出しそうになった。
「望乃莉」
「はい?」
彼女が、こちらを向いた。花火の光が、彼女の瞳に映り込んで、きらきらと輝いている。惺は、その瞳を見つめながら、言葉に詰まった。
好きだ、と言おうとした。けれど、いざその瞬間になると、これまでのように、言葉が喉の奥で止まってしまった。
「あ、いや……花火、きれいだなって」
結局、また、本音を飲み込んでしまった。望乃莉は、少し不思議そうな表情を見せたけれど、それ以上は何も聞かず、また花火に視線を戻した。
「そうですね、本当に」
惺は、自分の情けなさに、心の中でため息をついた。せっかくの機会だったのに、また逃してしまった。それでも、今この瞬間、隣に望乃莉がいて、同じ花火を見上げているという事実だけで、胸がいっぱいになっていた。
フィナーレの大輪の花火が、夜空いっぱいに咲き誇った。会場全体から、割れんばかりの、大きな拍手と、歓声が、沸き起こった。惺は、その光景を見つめながら、望乃莉の手が、自分の手のすぐ近くにあることに気づいた。
触れそうで、触れない距離。惺は、少しだけ、その手に自分の手を重ねてみたいという衝動に駆られたけれど、結局、その勇気は出せなかった。
花火が終わり、周囲の人々が、少しずつ帰り支度を始めた。花火の音の余韻が、まだ、耳に残る中、惺と望乃莉も、立ち上がって、ゆっくりと土手を降り始めた。
「今日は、誘ってくれて、ありがとうございました」
望乃莉が、そう言って、微笑んだ。惺は、その笑顔を見つめながら、まだ胸の高鳴りが収まらないのを感じていた。
「俺こそ、来てくれて、ありがとう」
帰り道、祭りの後の、静かになった通りには、屋台の後片付けをする、店主たちの姿だけが、ぽつぽつと、見受けられた。提灯の灯りが、一つ、また一つと、消えていく。夜道を、二人は並んで歩いた。祭りの余韻と、まだ言えなかった想いが、惺の胸の中で、複雑に絡み合っていた。
「好き」は、花火より大きな音を立てて胸の中で弾けた。
花火は夜空より、人の横顔を照らしている。
八月最後の週末が近づくにつれて、灯凪町の商店街には、祭りの準備が、着々と、進められていた。提灯が、通りの至る所に、飾り付けられ、屋台の骨組みが、次々と、組み立てられていく。町全体が、夏の終わりを、盛大に、祝おうとしているかのような、賑やかな活気に、包まれ始めていた。町の中心を流れる川沿いに屋台が並び、夜には花火が打ち上げられる。灯凪町の住民にとって、この祭りは、夏の終わりを告げる、大切な行事になっていた。
「今年も行くだろ、祭り」
一澄が、当然のように惺を誘ってきたのは、祭りの数日前のことだった。惺は毎年、一澄たちと連れ立って祭りに参加していたけれど、今年は少し違う思いがあった。
「望乃莉も、誘ってみようかな」
惺がぽつりと呟くと、一澄はにやりと笑った。
「おお、いいじゃん。誘えよ」
背中を押されるように、惺は翌朝の交差点で、勇気を出して尋ねてみた。
「望乃莉、今度の土曜、祭りあるんだけど。もしよかったら、一緒に行かない?」
望乃莉は、一瞬驚いたような表情を見せてから、小さく頷いた。
「はい、行きたいです」
その返事に、惺は飛び上がりたいような気持ちを、なんとか抑え込んだ。惺は、夏祭りの準備の様子を、通学路の途中で、目にするたびに、望乃莉と一緒に行く祭りのことを、心待ちにするようになっていた。
祭り当日、惺は約束の場所で、いつもより早く到着して、望乃莉を待っていた。夕暮れの空は、少しずつ、その色を、橙色から、深い紫へと、変化させていた。遠くから、祭り囃子の音色が、風に乗って、微かに、聞こえてくる。その音は、次第に、その音量を、増していった。
「お待たせしました」
望乃莉が現れたとき、惺は思わず言葉を失ってしまった。彼女は、淡い水色の浴衣を着ていた。髪をいつもと違う編み込みにまとめていて、普段の彼女とは、また違った雰囲気があった。夕暮れの柔らかな光が、彼女の姿を、優しく、包み込んでいた。惺は、その光景に、しばらくの間、見惚れてしまい、言葉を失っていた。
「その、似合ってる。すごく」
惺がやっとのことで絞り出した言葉に、望乃莉は頬を赤らめた。
「ありがとう、ございます。惺くんも、浴衣、似合ってます」
惺も、母親に勧められて、久しぶりに浴衣を着てきていた。慣れない着心地に、少し落ち着かない気持ちだったけれど、望乃莉のその一言で、着てきてよかったと心から思えた。
二人は、一澄たちとも合流しながら、祭りの屋台を巡った。祭り会場の屋台通りには、たこ焼きの、香ばしい匂いや、綿菓子の、甘い香りが、辺り一帯に、漂っていた。提灯の柔らかな灯りが、次第に暗くなっていく空の下で、いっそう、その暖かな輝きを、増している。
惺と望乃莉は、その賑やかな喧騒の中を、並んで、歩いていった。子供たちの、はしゃぐ声や、屋台の店主たちの、威勢の良い呼び込みの声が、絶えることなく、二人の周りを、包み込んでいた。
他愛のない時間を、他愛のない会話を交わしながら過ごした。けれど、惺の意識は、常に隣にいる望乃莉に向けられていた。
「花火、そろそろ始まるみたいだよ」
一澄が、時計を確認しながら言った。周りの人々が、次第に川沿いの土手の方へ移動し始めている。一澄たちは、他の友人グループと合流するとかで、先に行ってしまった。
「私たちも、行きましょうか」
望乃莉が、惺の方を向いて言った。惺は頷いて、彼女と一緒に、土手の方へ歩き出した。
土手にはすでに多くの人が集まっていて、良い場所を確保するのは難しそうだった。それでも、二人は、なんとか川に面した場所を見つけて、並んで腰を下ろした。
「ここなら、よく見えそうだね」
「はい」
しばらくすると、最初の花火が、打ち上げられた。その瞬間、川面には、その色鮮やかな光が、くっきりと、反射していた。轟音と共に、夜空いっぱいに、大輪の花が、咲き誇る。その光は、望乃莉の横顔を、赤や、青や、金色に、次々と、染め上げていった。
周囲を埋め尽くす、観客たちの、感嘆の声。惺は、その声にも、花火の轟音にも、負けないほどの、大きな鼓動を、自分の胸の中に、感じ続けていた。
惺は、花火を見上げながら、時折、隣の望乃莉に視線を向けた。花火の光が、彼女の横顔を、色とりどりに照らしている。赤、青、金色。次々と変わる光の中で、彼女の表情は、これまで見た中で、いちばん無防備に見えた。
「きれい、ですね」
望乃莉が、夜空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「うん、きれいだ」
惺は、そう答えながらも、視線は花火よりも、彼女の横顔に向いていた。花火の音が、次々と夜空に響き渡る。けれど、惺の耳には、その音よりも、自分自身の心臓の音の方が、ずっと大きく聞こえていた。
好きだ。
その言葉が、惺の胸の中で、はっきりとした形を持ち始めていた。これまで、名前をつけることを躊躇っていた感情。それが今、目の前で花火に照らされる彼女の横顔を見つめながら、確かな輪郭を持って、惺の中に居座っていた。
大きな花火が、次々と打ち上げられていく。フィナーレに近づくにつれて、その数と迫力は、どんどん増していった。轟音とともに、夜空全体が、光と色に染まっていく。
その音に紛れて、惺は、思わず、心の中の言葉を、口に出しそうになった。
「望乃莉」
「はい?」
彼女が、こちらを向いた。花火の光が、彼女の瞳に映り込んで、きらきらと輝いている。惺は、その瞳を見つめながら、言葉に詰まった。
好きだ、と言おうとした。けれど、いざその瞬間になると、これまでのように、言葉が喉の奥で止まってしまった。
「あ、いや……花火、きれいだなって」
結局、また、本音を飲み込んでしまった。望乃莉は、少し不思議そうな表情を見せたけれど、それ以上は何も聞かず、また花火に視線を戻した。
「そうですね、本当に」
惺は、自分の情けなさに、心の中でため息をついた。せっかくの機会だったのに、また逃してしまった。それでも、今この瞬間、隣に望乃莉がいて、同じ花火を見上げているという事実だけで、胸がいっぱいになっていた。
フィナーレの大輪の花火が、夜空いっぱいに咲き誇った。会場全体から、割れんばかりの、大きな拍手と、歓声が、沸き起こった。惺は、その光景を見つめながら、望乃莉の手が、自分の手のすぐ近くにあることに気づいた。
触れそうで、触れない距離。惺は、少しだけ、その手に自分の手を重ねてみたいという衝動に駆られたけれど、結局、その勇気は出せなかった。
花火が終わり、周囲の人々が、少しずつ帰り支度を始めた。花火の音の余韻が、まだ、耳に残る中、惺と望乃莉も、立ち上がって、ゆっくりと土手を降り始めた。
「今日は、誘ってくれて、ありがとうございました」
望乃莉が、そう言って、微笑んだ。惺は、その笑顔を見つめながら、まだ胸の高鳴りが収まらないのを感じていた。
「俺こそ、来てくれて、ありがとう」
帰り道、祭りの後の、静かになった通りには、屋台の後片付けをする、店主たちの姿だけが、ぽつぽつと、見受けられた。提灯の灯りが、一つ、また一つと、消えていく。夜道を、二人は並んで歩いた。祭りの余韻と、まだ言えなかった想いが、惺の胸の中で、複雑に絡み合っていた。
「好き」は、花火より大きな音を立てて胸の中で弾けた。

