しおりになる春、君をひらく季節。

第七章 君の好きな小説を読み始めた夜がある。

 誰かを知りたくなると、その人の好きなものから開いてしまう。
 八月も後半に差しかかり、夏休みは残り少なくなっていた。惺の部活は、新チームでの練習試合が続いていて、忙しい毎日が続いていたけれど、それでも、白灯文庫での時間だけは、なんとか確保するようにしていた。
 灯凪高校の白灯文庫には、夏休み特有の、ゆったりとした午後の空気が、満ちていた。窓の外では、蝉の声が、相変わらず、絶えることなく、響いている。それでも、その鳴き声には、どこか、夏の終わりを予感させるような、わずかな翳りが、混じり始めているようだった。
 指先が触れたあの日から、惺と望乃莉の間には、以前とは違う、微妙な距離感が生まれていた。露骨に何かが変わったわけではない。それでも、二人とも、お互いを意識する瞬間が、明らかに増えていた。
 そんなある日、惺は望乃莉が返却棚に戻そうとしていた本の表紙を、初めてはっきりと見る機会があった。
 「これ、返すの?」
 惺が尋ねると、望乃莉は頷いた。
 「はい、読み終わったので」
 タイトルは『春をしおりにして』。惺はその名前を、頭の中に刻み込んだ。以前、公園で花びらを拾いながら聞いた「大切な人に想いを伝えられない人の話」というのが、この本のことだったのかもしれない。そう思うと、惺の中に、ある考えが浮かんだ。
 「その本、俺も読んでみていい?」
 望乃莉は、少し驚いたような表情を見せた。
 「惺くん、恋愛小説、読むんですか?」
 「あんまり読んだことないけど、望乃莉が好きなものなら、知りたいなって」
 正直な気持ちを口にすると、望乃莉は、頬をほんのり赤らめながら、小さく頷いた。
 「じゃあ、これ、貸します」
 彼女は、返却する前に、もう一度その本を手に取り、惺に差し出した。惺はそれを受け取りながら、なんだか特別なものを預かったような気持ちになった。
 窓から差し込む、午後の光が、本の表紙を、柔らかく、照らし出していた。『春をしおりにして』という、そのタイトルの文字を、惺は、しばらくの間、じっと、見つめていた。
 その夜、惺の部屋の窓の外では、夏の夜特有の、生ぬるい風が、時折、カーテンを、揺らしていた。遠くから、微かに、虫の声が、聞こえてくる。惺は、デスクライトの、柔らかな光の下で、その文庫本の、最初のページを、開いた。普段は、スポーツ雑誌や、部活動の戦術を扱った本くらいしか読まない惺にとって、恋愛小説を最初から最後まで読み通すのは、初めての経験だった。
 物語は、海辺の町を舞台に、幼馴染同士の男女が、お互いへの想いを、なかなか言葉にできずに過ごす日々を描いたものだった。主人公の少年は、想いを伝える代わりに、ヒロインの好きな桜の花びらを、毎年、こっそり集めて栞にしていた。
 読み進めるうちに、惺は、その物語の情景と、自分たちの現実とが、少しずつ重なっていくのを感じた。花びらの栞。伝えられない想い。言葉より先に、行動で示そうとする不器用さ。
 まるで、自分自身のことを書かれているような気がした。
 物語の世界に、少しずつ、引き込まれていくにつれて、惺は、時計の針が、深夜に近づいていることにも、気づかなくなっていった。窓の外の虫の声だけが、その静かな夜の時間を、そっと、彩っていた。
 物語の中盤、主人公が、ようやく勇気を出して、手作りの栞をヒロインに渡す場面があった。部屋の窓の外を、一陣の夜風が、通り抜けていった。カーテンが、微かに、揺れる音が、静まり返った部屋に、小さく、響く。惺惺は、そのページを、何度も、読みながら、机の引き出しの中に、しまわれたままの、あの花びらのしおりのことを、思い出していた。夜の静けさの中で、その記憶は、いっそう、鮮明に、惺の心の中に、浮かび上がってきた。
 物語の中の主人公は、その一歩を踏み出すことができたのに、自分はまだ、踏み出せずにいる。惺は、そのことに、少し情けなさを感じながらも、同時に、その主人公の勇気に、励まされるような気持ちにもなった。
 夜中の二時を過ぎた頃、惺はようやく最後のページにたどり着いた。物語は、劇的な展開を迎えるわけではなかった。それでも、静かで、優しい結末が、惺の胸に、じんわりと染み渡っていった。
 本を閉じた後、惺はしばらく、天井を見上げたまま、物語の余韻に浸っていた。望乃莉は、こんな物語を、どんな気持ちで読んでいたのだろう。彼女の心の中を、少しだけ覗けたような気がした。
 翌朝、待ち合わせの交差点の周りには、すでに、真夏の強い日差しが、照りつけ始めていた。街路樹の緑は、いっそう、その濃さを、増している。惺の興奮気味な声が、朝の静けさの中に、明るく、響いた。
 「昨日、あの本、一気に読んじゃった」
 望乃莉は、驚いたように目を見開いた。その表情を、朝日が、優しく、照らし出していた。二人の間には、その本を通して、確かな、心の繋がりが、生まれ始めているようだった。
 「本当ですか? 早いですね」
 「面白くて、止まらなかった。特に、主人公が栞を渡すシーン、すごく良かった」
 惺がそう言うと、望乃莉は少し照れたような表情を見せた。
 「私も、あのシーン、好きです。何度も、読み返しました」
 「望乃莉は、あの本の、どんなところが好きなの?」
 惺が尋ねると、望乃莉は少し考えるような表情を浮かべた。
 「言葉にできない気持ちを、行動で表現するところ、です。言葉だと、嘘っぽく聞こえてしまうこともあるけど、行動には、嘘がないから」
 その言葉は、惺の心に、深く響いた。まるで、望乃莉自身の生き方を、そのまま表しているような言葉だった。
 「望乃莉らしいね、その考え方」
 惺がそう言うと、望乃莉は、少し恥ずかしそうに視線を伏せた。
 「そう、ですか?」
 「うん。望乃莉も、いつも、言葉より先に、行動で示してくれるから」
 惺の言葉に、望乃莉は何かを考えるように、しばらく黙っていた。それから、小さな声で、こう言った。
 「惺くんも、同じだと思います」
 二人は、しばらくの間、お互いの顔を見つめ合っていた。朝の交差点、通勤通学の人々が行き交う中、二人だけが、少し違う時間の中にいるような、そんな不思議な感覚があった。
 その日から、惺は、望乃莉が好きな本を、少しずつ読むようになっていった。彼女が薦めてくれる本、彼女が以前読んでいた本。一冊、また一冊と、読み進めていく日々の中で、灯凪町の夏は、少しずつ、その終わりに、近づいていった。蝉の声は、変わらず、辺りに、響いていたけれど、時折、吹く風の中に、わずかな、涼しさが、混じるようになっていた。
 惺は、ページをめくるたびに、望乃莉という人の、心の奥深くへと、少しずつ、近づいていくような、そんな確かな実感を、抱き続けていた。
 言葉で聞くよりも、彼女が愛した物語を通して知る彼女の心の方が、ずっと深く、惺の胸に届いた。
 ページをめくるたび、少しだけ君の心に近づいている気がした。