しおりになる春、君をひらく季節。

第六章 指先が触れて、夏が一度止まった。

 紙を渡そうとしただけだった。

 白灯文庫の窓の外では、夕立の気配を残した、灰色の雲が、少しずつ、その厚みを、増していた。冷房の効いた白灯文庫の中は、それでも、変わらず、涼しく、落ち着いた空気に、満ちている。惺は、望乃莉が、鞄からプリントを取り出す、その一連の動作を、静かに、見守っていた。
 窓ガラスの向こうから、遠くの雷鳴に似た音が、微かに、聞こえてくる。その音に紛れるように、二人の間には、これまでにない、特別な緊張感が、静かに、漂い始めていた。
 数学の問題を解き終えた後、望乃莉は鞄から一枚のプリントを取り出した。
 「これ、夏期講習の追加問題です。先生から、希望者だけにって配られたんですけど、惺くんも、やってみますか?」
 「え、いいの?」
 「はい。もう一部、余分にもらっていたので」
望乃莉は、そのプリントを惺の方へ差し出した。惺は手を伸ばして、それを受け取ろうとした。
その瞬間、二人の指先が、ほんの一瞬、触れ合った。白灯文庫の空調が、微かに、その音を、変化させたような、そんな錯覚を、惺は、覚えていた。時間の流れが、まるで、その一瞬だけ、緩やかになったかのようだった。
 紙の端を挟むように、望乃莉の指と惺の指が、重なった。時間にすれば、ほんの一秒にも満たない、些細な接触だった。それなのに、その一瞬、惺の中で、何かが止まったような感覚があった。
 望乃莉も、同じように感じたのだろうか。彼女の手が、一瞬、びくりと動いた。プリントを渡す動作は、そのまま自然に終わったけれど、二人とも、しばらくの間、言葉を発することができずにいた。
 窓の外の雲は、少しずつ、その色を、濃くしている。それでも、白灯文庫の中の、二人だけの空間には、その天候の変化とは、無関係な、静かな熱が、確かに、生まれていた。
 「あ……ありがとう」
 先に口を開いたのは、惺だった。声が、少し上ずっているのが、自分でも分かった。
 「いえ、こちらこそ」
 望乃莉も、いつもより早口で答えた。彼女の頬が、うっすらと赤くなっているのが、惺の目には、はっきりと見えた。
 二人は、それぞれ渡された、あるいは渡したプリントに視線を落とした。けれど、惺の意識は、まったくその内容に向いていなかった。触れた指先の感触が、まだ、はっきりと残っている。柔らかくて、少し冷たくて、それでいて、確かに温かさを感じるような、不思議な感触だった。
 白灯文庫の中は、相変わらず静かだった。冷房の微かな運転音、遠くのページをめくる音、そして、惺自身の、いつもより速い心臓の音。そのすべてが、妙にくっきりと、惺の耳に届いていた。
 望乃莉は、プリントに視線を落としたまま、しばらく動かなかった。惺も同じように、手元のプリントを見つめていたけれど、文字は一つも頭に入ってこなかった。
 「あの」
 しばらくして、望乃莉が、小さな声で言った。惺は顔を上げた。
 「うん?」
 「今の、その……手、驚いて、すみません」
 「あ、いや、俺の方こそ。急に、触れちゃって」
 二人とも、何を謝っているのか、自分でもよく分かっていないような、そんな会話だった。それでも、その気まずさの中に、どこか甘い空気が混じっているのを、惺は感じ取っていた。
 「望乃莉、手、冷たいね」
 惺が、思わずそう言うと、望乃莉は、驚いたように自分の手を見つめた。
 「そう、ですか?冷房、効きすぎてるのかもしれません」
 「うん、俺もちょっと寒いくらい」
 そう言いながら、惺は、彼女の手の冷たさを、まだ自分の指先に感じていた。もう一度、触れてみたい。そんな考えが、頭の片隅をよぎった瞬間、惺は自分の思考に驚いて、慌てて首を振った。
 「どうかしましたか?」
 望乃莉が、不思議そうに惺を見た。惺は、頬が熱くなるのを感じながら、誤魔化すように答えた。
 「な、なんでもない。それより、この追加問題、一緒にやろうか」
 「はい」
 二人は、また問題に向き合い始めた。けれど、さっきまでのような、自然な集中は、なかなか戻ってこなかった。時折、シャープペンシルの先が触れ合いそうになるたびに、二人とも、無意識に手を引っ込めてしまう。その様子が、お互いにとって、少しおかしくもあり、同時に、どこかもどかしくもあった。
 「あ、ごめん」
 「いえ、こちらこそ」
 そんなやり取りを、何度か繰り返した後、望乃莉が、ふと小さく笑った。
 「私たち、なんだか、変ですね」
 「うん、確かに」
 惺もつられて笑った。その笑いが、二人の間にあった緊張を、少しだけ和らげてくれた気がした。
 「でも」
 望乃莉が、笑いながらも、少し真剣な声で続けた。
 「悪い気は、しないです」
 その一言に、惺は、また心臓が跳ねるのを感じた。望乃莉の言葉の意味を、深く考えずにはいられなかった。彼女もまた、さっきの一瞬の接触を、何か特別なものとして、受け止めてくれているのだろうか。
 「俺も」
 惺は、正直に答えた。それ以上の言葉は続けられなかったけれど、その短い返事の中に、惺なりの気持ちを、精一杯込めたつもりだった。
 望乃莉は、少しの間、惺の顔を見つめていた。何かを確かめるような、そんな視線だった。やがて、彼女は、また視線をプリントに戻した。
「続き、やりましょう」
 「うん」
 二人は、また問題に取り組み始めた。今度は、さっきよりも、少し落ち着いた様子だった。それでも、惺の中では、あの一瞬の感触が、いつまでも消えずに残り続けていた。
 窓の外では、夏の日差しが、相変わらず強く照りつけている。蝉の声が、遠くから響いてくる。白灯文庫の中の静けさとは対照的に、外の世界は、夏の熱気に満ち溢れていた。
 けれど、惺にとって、今この瞬間の熱は、外の気温とはまったく別のところにあった。指先から伝わった、あの一瞬の温もり。それは、これまで経験したことのない種類の熱だった。
 触れたのは指先だけなのに、心はずっと離れなかった。