しおりになる春、君をひらく季節。

第五章 勉強を教えるふりで、同じノートをのぞき込む。

 問題集より難しいのは、隣の人との距離だった。
 夏休みも中盤に差しかかった頃、灯凪高校では、夏期講習が始まっていた。二年生にとっては、来年の受験を見据えた、初めての本格的な講習だった。惺も、部活の合間を縫って、講習に参加していた。
 講習が終わった後、白灯文庫は、自習をする生徒たちで、いつもより賑わっていた。夏期講習を終えた生徒たちが、次々と、涼を求めるように、図書室へと、足を運んでくる。冷房の効いた空気は、真夏の暑さの中では、格別な、心地よさを、感じさせてくれた。
 窓の外には、入道雲が、もくもくと、大きく、その姿を、膨らませている。蝉の声は、窓を隔てていても、絶えることなく、図書室の中まで、微かに、届いていた。
 惺は、講習で出された数学の課題に苦戦していた。もともと得意な科目ではない。特に、今回の範囲は、応用問題が多く、教科書を何度読み返しても、いまいち理解が追いつかなかった。
 「うーん……」
 惺が、ノートと睨めっこする、その机の上には、冷房の風が、時折、涼やかに、吹きつけてきていた。窓際の席に座る生徒たちの、シャープペンシルを走らせる音が、静かな図書室の中に、規則正しく、響いている。
 惺は、その音に混じりながら、数学の応用問題と、悪戦苦闘していた。窓の外の、真夏の強い日差しとは対照的に、図書室の中は、涼しく、落ち着いた空気に、包まれていた。隣の席から、望乃莉が声をかけてきた。
 「大丈夫、ですか?」
 「あ、いや、数学が全然分からなくて」
 惺が正直に答えると、望乃莉は少し考えるような表情を浮かべた。
 「見せてください。得意ってほどじゃないですけど、少しは分かるかもしれません」
 以前にも、一度、彼女に数学を教えてもらったことがあった。あのとき以来、望乃莉が数学が得意だということは、なんとなく知っていた。惺はノートを彼女の方に差し出した。
 「ありがとう、助かる」
 望乃莉が、惺のノートを覗き込む、その距離の近さに、惺の心臓は、いつも以上に、大きく、脈打っていた。彼女の丁寧な説明の声は、冷房の音に紛れることなく、はっきりと、惺の耳に、届いてくる。
 窓から差し込む、午後の光は、二人が座る机の上に、柔らかな、陰影を、作り出していた。その光の中で、望乃莉のシャープペンシルが、ノートの上を、滑らかに、動いていく様子を、惺は、じっと、見つめ続けていた。
 けれど、正直なところ、惺の意識の半分は、問題の内容よりも、隣にいる望乃莉の存在に向けられていた。ノートを覗き込むために、彼女の顔が、いつもよりずっと近くにあった。長い睫毛、集中したときの、少し眉をひそめる仕草。惺はそのすべてを、目に焼き付けるように見つめていた。
 「ここ、分かりますか?」
 望乃莉が、ふと惺の方を向いた。あまりにも顔が近くて、惺は思わず息を止めてしまった。
 「あ、う、うん。分かる」
 慌てて視線をノートに戻したけれど、心臓はまだ、激しく脈打っていた。望乃莉は、そんな惺の様子には気づかない様子で、また説明を続けた。
 「この公式を使うと、こう計算できて……」
 彼女がシャープペンシルでノートに数式を書き込んでいく。その手元を見つめながら、惺はふと、彼女の手が、思ったよりも小さいことに気づいた。細くて、白い指。ペンを持つ仕草すら、どこか丁寧で、彼女らしいと感じた。
 「望乃莉って、字、きれいだよね」
 惺が思わずそう言うと、望乃莉は少し照れたように手を止めた。
「そう、ですか? あんまり、言われたことないです」
「うん、すごく丁寧。読みやすい」
「ありがとう、ございます」
 望乃莉は、はにかむように微笑んだ。惺はその表情を見て、また胸が高鳴るのを感じた。この夏に入ってから、こういう瞬間が、確実に増えている気がした。彼女の些細な仕草や表情に、以前よりもずっと敏感に反応してしまう自分がいた。
 「じゃあ、続き、やりましょうか」
 望乃莉が、気を取り直したように言った。惺は頷いて、ノートに視線を戻した。二人は、しばらくの間、問題を解き進めていった。
 途中、望乃莉が、ふと自分のノートも取り出した。
 「私も、この単元、少し復習したいので、一緒にやってもいいですか」
 「うん、もちろん」
 二人が、それぞれのノートを、机の上に、並べて広げたとき、図書室の冷房が、ふと、その稼働音を、強めた。その微かな音の変化に、二人は、どちらからともなく、顔を見合わせて、小さく、笑った。
 窓の外では、蝉の声が、相変わらず、絶えることなく、響き続けている。それでも、図書室の中の、静かで、涼しい空気は、二人だけの、特別な時間を、優しく、包み込んでいるようだった。
 「ここ、私はこう解きました」
 望乃莉が、自分のノートを惺の方に差し出した。惺はそのノートを覗き込みながら、彼女の解き方を確認した。同じ問題でも、アプローチの仕方が少し違っていて、惺はそれが新鮮に感じられた。
 「望乃莉のやり方の方が、分かりやすいかも」
 「そう、ですか?惺くんのやり方も、面白いと思いますよ」
 そう言いながら、望乃莉は惺のノートを、じっと見つめていた。惺は、自分の字が、望乃莉ほど丁寧ではないことに、少し気恥ずかしさを感じた。
 「俺の字、汚いだろ」
 「いえ、力強くて、惺くんらしいと思います」
 その言葉に、惺は驚いて顔を上げた。望乃莉は、まっすぐに惺を見つめていた。彼女のその視線に、惺はまた、心臓が跳ねるのを感じた。
 「な、なんか、褒められると照れるな」
 惺が頭を掻きながら言うと、望乃莉は小さく笑った。
 「本当のこと、言っただけです」
 二人は、そのまま、しばらく問題を解き続けた。会話は少なかったけれど、同じ机で、同じ問題に向き合っている時間は、惺にとって、とても穏やかで、満たされた時間だった。
 窓の外では、夏の日差しが、依然として強く照りつけている。冷房の効いた図書室の中は、外の暑さが嘘のように涼しかったけれど、惺の胸の中は、むしろ、外の気温よりも熱を帯びているような気がした。
 「あ、この問題、分かった」
 惺が、ふと解き方に気づいて、声を上げた。望乃莉が、驚いたように惺のノートを覗き込んだ。
 「本当ですね。すごいです」
 彼女の顔が、また近づいた。惺は、その距離の近さに、思わずどきりとしてしまった。望乃莉自身は、特に意識していない様子だったけれど、惺にとっては、その一瞬一瞬が、忘れられない記憶として、心に刻まれていくようだった。
 同じページを見ているだけで、少しだけ近づけた気がした。