しおりになる春、君をひらく季節。

第四章 渡り廊下の沈黙だけが、本音を知っていた。

 話さなくても、一緒に歩ける人がいる。
 八月に入った灯凪町高校の校舎には、夏休み中とは思えないほど、多くの生徒たちの姿が、見受けられた。校庭からは、部活動に励む生徒たちの、掛け声が、真夏の強い日差しの中、絶え間なく、響いている。蝉の声も、負けじと、辺り一帯を、包み込んでいた。
 惺は、朝練を終えたばかりの、汗ばんだ体のまま、渡り廊下へと、続く道を、歩いていった。夏休み特有の、どこか間延びしたような、けれど、確かな熱気を帯びた、校内の空気が、惺を、取り巻いていた。
 夏休みに入ってからも、望乃莉との関係は、途切れることなく続いていた。彼女は白灯文庫の当番として、夏休みの間も定期的に登校しているらしかった。図書室は夏休み中も開館していて、涼を求める生徒たちや、受験勉強に励む上級生たちで、それなりに賑わっていた。
 あの日、読書サークルの本間という男子生徒と楽しそうに話す望乃莉を見てから、惺の中には、まだ言葉にできない感情がくすぶり続けていた。それでも、日常は変わらず続いていく。惺は、その感情に蓋をするようにして、いつも通り、望乃莉との時間を大切に過ごしていた。
 その日、惺は朝練を終えた後、汗を拭う間もなく、渡り廊下を歩いていた。足を踏み入れると、壁のない、開放的な造りのため、真夏の日差しと、湿り気を帯びた風が、そのまま、吹き抜けていく。コンクリートの床は、朝からの日差しを受けて、すでに、じりじりとした、熱を帯び始めていた。
 惺は、その熱さを、足の裏に感じながら、望乃莉と並んで、ゆっくりと、歩を進めていった。渡り廊下の向こうには、青々とした夏空が、どこまでも、広がっている。時折、遠くから、蝉の声に混じって、風鈴の音のような、涼やかな響きが、聞こえてくることもあった。
 前方に、望乃莉の姿が見えた。彼女は、鞄を抱えて、ゆっくりとした足取りで歩いている。惺は早足になって、その隣に並んだ。
 「望乃莉」
 声をかけると、彼女は少し驚いたように振り返り、それから小さく微笑んだ。
 「惺くん。朝練、お疲れ様です」
 「ありがとう。今日も暑いね」
 「はい、本当に」
 二人は、そのまま並んで歩き始めた。渡り廊下は長く、校舎の端から端まで続いている。真夏の太陽が容赦なく照りつけていて、コンクリートの床は、じりじりとした熱を帯びていた。
 けれど、会話は、そこで途切れてしまった。何を話せばいいのか、惺には分からなかった。あの日感じた、名前のない感情のことが、頭の片隅にずっと引っかかっていたからだ。
 望乃莉も、特に何かを話しかけてくる様子はなかった。ただ、静かに、惺の隣を歩き続けている。渡り廊下を歩く二人の間に、しばらくの沈黙が、訪れたとき、頭上では、一羽の鳥が、悠々と、青空を、横切っていくのが、見えた。その鳥の影が、コンクリートの床に、一瞬、映り込んでは、すぐに、消えていく。
以前の惺なら、この沈黙を、気まずいものだと感じていたかもしれない。何か話さなければ、と焦る気持ちが先立っていただろう。けれど、今の惺は、この沈黙を、不思議と心地よく感じていた。
言葉がなくても、隣に望乃莉がいる。それだけで、十分だった。
風が吹いて、渡り廊下を吹き抜けていった。望乃莉の髪が、さらさらと、その風に揺れる。惺は、その様子を横目で見ながら、ふと、彼女がどんなことを考えているのか、気になった。
 「望乃莉って、いつも何考えてるの?」
不意に、そんな質問が口をついて出た。望乃莉は、少し驚いたように惺を見た。
 「急に、どうしたんですか」
 「いや、なんとなく。いつも静かだから、何考えてるのかなって」
望乃莉は少し考えるように、視線を空に向けた。
 「そのとき、そのときで、違います。でも、今は……惺くんと、こうして歩けることが、嬉しいなって、思ってました」
その言葉に、惺は思わず立ち止まりそうになった。望乃莉の口から、こんなにも率直な言葉が出てくるとは、思っていなかったからだ。
 「そ、そうなんだ」
惺が動揺していると、望乃莉は、少し照れたように視線を伏せた。
 「変なこと、言いましたか」
 「いや、全然。嬉しい、俺も」
正直な気持ちを伝えると、望乃莉はまた小さく微笑んだ。二人は再び、渡り廊下を歩き始めた。今度の沈黙は、さっきよりも、もっと温かいもののように感じられた。
 「あのさ」
惺は、勇気を出して切り出した。
 「この前、本間って人と話してるの、見たんだけど」
望乃莉の表情が、少し変わった。惺は続けた。
 「別に、責めてるとかじゃなくて。ただ、あんなに楽しそうに話してる望乃莉、あんまり見たことなかったから」
望乃莉は、しばらく黙っていた。渡り廊下の途中、彼女はふと足を止めて、惺の方を向いた。
 「本間くんとは、本の話しかしません。でも……惺くんとは、違います」
 「違うって?」
 「言葉には、しにくいんですけど。惺くんといる時間の方が、私にとっては、大切な時間、です」
 その瞬間、渡り廊下の遠くから、部活動の生徒たちの、賑やかな歓声が、風に乗って、届いてきた。その賑やかさとは対照的に、二人が立つ場所だけは、まるで、時間が、ゆっくりと流れているかのような、静けさに、包まれていた。
 真夏の太陽が、二人の影を、コンクリートの床に、長く、くっきりと、映し出している。惺は、その影の重なりを、目の端で、確認しながら、望乃莉の言葉の、確かな重みを、噛み締めていた。
 「あ、変なこと言いました、すみません」
望乃莉が、慌てたように付け加えた。惺は首を振った。
 「ううん、全然。俺も、同じだよ。望乃莉といる時間、すごく大切」
二人は、しばらくの間、渡り廊下の真ん中で立ち止まったまま、お互いの顔を見つめ合っていた。夏の日差しが、二人の影を、コンクリートの床に長く落としている。
やがて、望乃莉が、恥ずかしそうに視線を逸らした。
 「そろそろ、行きましょうか」
 「うん」
 二人はまた、歩き始めた。蝉の声は、いっそう、その勢いを、増していた。夏の日差しは、真上から、容赦なく、二人の頭上に、降り注いでいる。
 今度は、さっきよりも少しだけ、距離が近づいていた。肩と肩が触れそうなくらいの、絶妙な距離感。惺はその近さに、心臓が高鳴るのを感じながらも、なぜか、その感覚を、心地よく受け入れることができていた。
渡り廊下の先には、白灯文庫のある校舎が見えていた。午後の光を受けて、静かに、輝いていた。惺は、望乃莉と一緒にそこへ向かう時間が、もう少しだけ長く続けばいいのに、と思った。
沈黙は、気まずさではなく安心にもなれると知った。