しおりになる春、君をひらく季節。

第三章 他の誰かと話す君に、知らない感情が疼いた。

 胸が苦しい理由を、人はすぐには恋と呼べない。
 七月の終わり、期末試験が終わった、灯凪町高校の校内には、これまでの緊張が、一気に、解き放たれたかのような、賑やかな空気が、満ち溢れていた。廊下では、生徒たちの、はしゃぐ声が、絶え間なく、響いている。窓の外には、真夏の日差しが、じりじりと、照りつけていた。
 惺は、その解放感を、肌で感じながら、白灯文庫へと、続く階段を、軽い足取りで、上っていった。校舎全体に漂う、試験明け特有の、緩んだ空気が、心地よく、惺の胸を、満たしていた。
 試験も終わったことだし、久しぶりにゆっくり本でも読もうという気持ちだった。扉を開けると、いつもの静けさが惺を迎えたけれど、その日は少し様子が違った。
 白灯文庫の扉を開けた瞬間、惺の目に飛び込んできたのは、いつもと違う光景だった。窓から差し込む、真夏の強い西日が、窓際の机を、いっそう、鮮やかに、照らし出している。その光の中で、望乃莉と、見慣れない男子生徒が、机の上に本を広げて、話し込んでいた。
 惺は思わず、その場で足を止めてしまった。惺は、その場に立ち尽くしたまま、しばらくの間、動くことができなかった。図書室特有の、静かな空気の中に、二人の、小さな笑い声だけが、微かに、響いていた。
 相手は、隣のクラスの生徒だったと思う。名前までは覚えていないけれど、廊下ですれ違ったことが何度かある顔だった。二人は、机の上に一冊の本を広げて、何やら熱心に話し込んでいる。
望乃莉が、あんなに楽しそうに話しているのを、惺は見たことがなかった。いつもの控えめな表情ではなく、時折、小さく笑いながら、身振りを交えて何かを説明している。相手の男子生徒も、興味深そうに相槌を打ちながら、望乃莉の言葉に耳を傾けていた。
 惺は、その光景から目を離せなかった。同時に、胸の奥に、これまで感じたことのない、ざらついた感覚が広がっていくのを感じた。
なんだろう、これは。
 惺は自分の胸に手を当てて、その感覚の正体を探ろうとした。苦しいような、もどかしいような、それでいて、どこか情けないような感情だった。怒りとも違う。悲しみとも少し違う。ただ、無性に、あの場所に自分が入れないことが、苦しかった。
 「坂本、何やってんの、そんなとこで突っ立って」
背後から声をかけられて振り返ると、一澄が不思議そうな顔で立っていた。惺は慌てて視線を逸らした。
 「べ、別に」
一澄は惺の視線の先を追って、窓際の様子に気づいたようだった。少し考えるような表情を浮かべてから、ぽつりと言った。
 「ああ、あれか。隣のクラスの、確か本間ってやつだろ。読書サークルに入ってるって聞いたことあるな」
 一澄が、読書サークルの話をする間も、窓の外の校庭からは、夏休みを間近に控えた生徒たちの、賑やかな声が、絶えず、聞こえてきていた。惺は、その声を、どこか遠くに感じながら、一澄の言葉に、耳を傾けていた。
 「読書サークル?」
 「うん。夜久さんも、入ってるんじゃなかったっけ。前に、誰かが言ってたような」
 惺は初めて聞く情報だった。望乃莉が読書サークルに入っていること、そこで、あの男子生徒と繋がりがあること。自分が知らない彼女の世界が、確かに存在しているという事実に、惺は不思議な焦燥感を覚えた。
 「気になるなら、話しかければいいじゃん」
 一澄が、いつものように軽い調子で言った。けれど、惺はその日、望乃莉に近づくことができなかった。何を話せばいいのか分からなかったし、何より、あの楽しそうな会話に、水を差すようなことをしたくなかった。
 惺は結局、離れた席で、ページをめくるふりをしながら、時折、窓際の様子を横目で確認するだけの時間を過ごした。図書室の窓越しに見える空は、雲一つない、抜けるような、青さを、湛えている。その眩しい青さとは対照的に、惺の心の中には、これまで感じたことのない、複雑な感情が、渦巻き始めていた。
 二人の会話がどのくらい続いたのか、正確には分からない。けれど、体感としては、ひどく長く感じられた。
 やがて、本間という男子生徒が席を立ち、望乃莉に何か言葉をかけてから、図書室を出ていった。窓から差し込む西日は、いっそう、その傾きを、深めていた。望乃莉は、その後ろ姿を見送りながら、小さく手を振っていた。
 惺は、その仕草にも、胸がざわつくのを感じた。自分には見せたことのない、親しげな仕草のように思えたからだ。
 望乃莉が、ふと惺の方に視線を向けた。惺は慌てて本に視線を戻したけれど、遅かったかもしれない。望乃莉が、こちらに近づいてくる気配がした。足音が、静かな図書室に、微かに、響く。
 「惺くん、来てたんですね」
 「あ、うん。試験終わったから、久しぶりに」
 「そうだったんですね。気づかなくて、すみません」
 望乃莉は、いつも通りの穏やかな表情で言った。惺はその顔を見て、さっきまで感じていた苦しさが、少しだけ和らぐのを感じた。それでも、聞きたい気持ちを抑えきれなかった。
 「さっきの人、読書サークルの人?」
 惺が尋ねると、望乃莉は少し驚いたような表情を見せた。
 「よく分かりましたね。はい、本間くんです。同じサークルで、おすすめの本を交換してるんです」
 「そうなんだ」
 「惺くん、もしかして、気になりますか?」
 望乃莉の質問に、惺は動揺した。
 「え、いや、そんな、別に」
 しどろもどろになる惺を見て、望乃莉は少し不思議そうな表情を浮かべたけれど、それ以上は追及してこなかった。ただ、静かに、こう言った。
 「本間くんとは、本の話をするだけです。それだけの、関係です」
 彼女の言葉を聞きながら、惺は、窓の外の、夏空を、見つめていた。その言葉の温かさが、まるで、真夏の強い日差しの中にある、一陣の涼風のように、惺の心を、静かに、和らげてくれていた。
 特に、何かを説明されたわけではない。ただ、彼女なりに、惺の心の揺れに気づいて、それとなく安心させようとしてくれたのかもしれない。そう思うと、胸の奥が、じんわりと温かくなった。
 「そっか。うん、別に、気にしてないよ」
 強がって、そう言ってみたけれど、望乃莉の表情を見る限り、あまり信じてもらえていない様子だった。それでも、彼女はそれ以上何も言わず、また自分の席に戻っていった。
 惺は一人、その場に残されて、自分の中に生まれた感情を、もう一度見つめ直していた。
 これは、なんだろう。誰かが望乃莉と楽しそうに話しているのを見ただけで、こんなにも胸が苦しくなる。それは、友達に対する感情としては、少し不自然な気がした。
 けれど、この感情に、まだ名前をつける勇気は、惺にはなかった。もし、この感情の正体をはっきりさせてしまったら、これまでのように、彼女と自然に接することができなくなってしまう気がしたからだ。
 その日の帰り道、惺が、自転車を漕ぎながら進む道には、真夏の太陽が、容赦なく、照りつけていた。アスファルトから立ち上る、陽炎の揺らめきが、視界を、わずかに、歪ませている。蝉の声が、絶えることなく、辺り一帯に、響き渡っていた。
 惺は、その強い日差しの中を、ペダルを漕ぎ続けながら、自分の胸の中にある、名前のない感情の正体を、探り続けていた。海沿いの道に差し掛かると、潮風が、いつもより、いくらか、強く、頬を、撫でていく。その風の中に、惺は、まだ、答えの見えない、もどかしさを、そっと、預けていた。
 その痛みには、まだ名前がなかった。