第二章 缶ジュース一本が、秘密みたいにうれしい。
たった一本の缶ジュースなのに、手渡されるだけで特別になる。
七月も半ばに差しかかり、灯凪町の夏は、日を追うごとに本格的な暑さを増していった。蝉の声が絶え間なく響き、アスファルトからは陽炎が立ち上る。惺の部活の練習も、熱中症対策で休憩時間が増やされるほどの猛暑が続いていた。
朝練を終えた直後の、灯凪町高校のグラウンド脇には、蝉の声が、すでに、勢いよく、響き渡っていた。惺は、汗の滴る顔を、タオルで拭いながら、自動販売機へと、続く道を、ゆっくりと、歩いていった。朝の日差しは、すでに、真夏の力強さを、帯び始めている。
自動販売機の前に立つと、機械が発する、微かな稼働音と、冷却装置の音が、耳に届いた。惺は、その音を聞きながら、財布の中身を確かめつつ、何を買おうか、迷っていた。
「これ、どうぞ」
ふいに声をかけられて振り返ると、望乃莉が立っていた。手には、冷えたスポーツドリンクの缶を持っている。
「え……」
惺が戸惑っていると、望乃莉はその缶を、そっと差し出した。
「朝練、大変そうだったので。渡り廊下から、見えました」
朝の光が、彼女の姿を、逆光気味に、照らし出していた。渡り廊下から見えたという、彼女の言葉通り、その渡り廊下の方角には、まだ、朝練を続ける他の部活動の生徒たちの姿が、小さく、見えていた。
惺は驚きながらも、その缶を受け取った。表面には、うっすらと水滴がついていて、ひんやりとした冷たさが、汗ばんだ手のひらに、じんわりと、染み渡っていく。惺は、その冷たさの心地よさに、思わず、小さく、息をついた。
「ありがとう。でも、いいの? わざわざ買ってきてくれたんじゃ」
「いいんです。私も、ちょうど喉が渇いていたので」
そう言いながらも、望乃莉の手には、飲み物らしきものは見当たらなかった。惺はそのことに気づいたけれど、あえて指摘はしなかった。彼女なりの照れ隠しなのかもしれない、と思ったからだ。
「じゃあ、半分こする?」
惺がそう提案すると、望乃莉は少し驚いたような顔をした。それから、小さく首を振った。
「惺くんが、飲んでください。私は、大丈夫です」
「そっか。ありがとう、望乃莉」
プルタブを開ける、小さな音が、朝の静けさの中に、響いた。冷えたスポーツドリンクを、一口、飲み込むと、渇いた喉が、一気に、潤されていく感覚があった。周囲では、蝉の声に混じって、遠くから、野球部のバットが、ボールを打つ音が、乾いた音を立てて、響いてきた。
惺は、その美味しさを噛み締めながら、望乃莉の顔を、そっと、見つめた。彼女もまた、朝の光の中で、どこか、満足そうな表情を、浮かべているように、見えた。
「美味しい」
思わず、そう漏らすと、望乃莉は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった、です」
二人は、しばらく自動販売機の前で立ち話をした。会話は多くなかったけれど、その短い時間が、惺にとっては、かけがえのないものだった。
やがて、望乃莉は「そろそろ、教室に戻ります」と言って、渡り廊下の方へ歩いていった。惺はその後ろ姿を見送りながら、手の中の缶を、そっと握りしめた。
その日一日、惺はその缶を、鞄の中に大切にしまっていた。中身はとっくに飲み干してしまったけれど、空き缶を捨てることが、なぜかできなかった。
放課後、開け放たれた窓から、蝉の声が、絶えることなく、教室の中にまで、届いていた。西日が、少しずつ、傾き始め、教室の床に、長い影を、落としている。
「なんだよそれ、集めてんの? 空き缶」
一澄が惺の机の中を覗き込んで、不思議そうに聞いてきた。惺は慌てて缶を隠すように、鞄の奥に押し込んだ。一澄は、面白そうに、見つめていた。その様子を、窓の外の夕暮れの光が、静かに、照らし出していた。
「別に、集めてない」
「じゃあ、なんで持ってんだよ」
「……もらったから」
「もらった? 誰から?」
惺は口ごもった。答えたくないような、でも、少しだけ誰かに聞いてほしいような、複雑な気持ちだった。結局、惺は小さな声で答えた。
「望乃莉から」
一澄は一瞬、目を丸くしたけれど、すぐににやにやとした笑みを浮かべた。
「なんだそれ、めちゃくちゃ青春じゃん」
「そんな大したことじゃないって。ただ、朝練見て、ドリンク買ってきてくれただけで」
「それが青春なんだって。分かってないな、坂本は」
一澄にからかわれながらも、惺は密かに、その言葉に頷いていた。缶ジュース一本。ただ、それだけのこと。それなのに、これほどまでに嬉しく感じるのは、きっと、それが望乃莉から手渡されたものだからだった。
翌日の朝、惺はいつものように、望乃莉と交差点ですれ違った。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
いつも通りの挨拶を交わした後、惺は少し迷ってから、口を開いた。
「昨日、ドリンクありがとう。すごく美味しかった」
望乃莉は、少し照れたように視線を伏せた。
「よかったです。また、渡り廊下から見かけたら、渡します」
「え、また買ってきてくれるの?」
「はい。惺くんが、頑張ってる姿、見るの、好きなので」
その言葉に、惺は思わず立ち止まりそうになった。「見るの、好き」という一言が、想像以上に胸の奥深くに響いてしまったのだ。
「あ、いや、その、朝練が、です。応援の意味で」
望乃莉は、慌てたように付け加えた。頬が、うっすらと赤くなっているように見えた。惺はその様子を見て、なんだか可愛らしいと思ってしまい、思わず笑ってしまった。
「うん、分かってる。ありがとう」
その日から、望乃莉は本当に、時折、朝練の後に缶ジュースを渡してくれるようになった。毎日というわけではない。けれど、忘れた頃にふと渡されるその一本が、惺にとっては、日々の疲れを癒す、何よりのご褒美になっていた。
「今日は、これ」
ある日、朝の空気には、すでに、真夏を思わせる、強い日差しの気配が、含まれ始めていた。街路樹の緑は、いっそう、深い色合いを、増している。
望乃莉が差し出したのは、いつものスポーツドリンクではなく、少し珍しいフレーバーの炭酸ジュースだった。
「珍しいの選んでくれたんだね」
「新商品だったので、気になって」
望乃莉は、少し得意げな表情を見せた。惺はその表情に、また胸が高鳴るのを感じた。彼女が、自分のために何かを選んでくれる。そのこと自体が、言葉では説明しきれないほどの喜びだった。
缶を受け取る、惺の手のひらには、その日もまた、確かな、冷たい重みが、伝わってきた。望乃莉が、少し得意げな表情を浮かべる様子を、朝日が、優しく、照らしていた。目が合う瞬間の、少しの気まずさと、たくさんの嬉しさ。二人の間には、蝉の声と、夏の朝の匂いが、静かに、満ちていた。
それらすべてが、言葉よりも雄弁に、二人の間にある何かを伝えているような気がした。
言葉は少なかったのに、缶の冷たさだけがしばらく手に残っていた。
たった一本の缶ジュースなのに、手渡されるだけで特別になる。
七月も半ばに差しかかり、灯凪町の夏は、日を追うごとに本格的な暑さを増していった。蝉の声が絶え間なく響き、アスファルトからは陽炎が立ち上る。惺の部活の練習も、熱中症対策で休憩時間が増やされるほどの猛暑が続いていた。
朝練を終えた直後の、灯凪町高校のグラウンド脇には、蝉の声が、すでに、勢いよく、響き渡っていた。惺は、汗の滴る顔を、タオルで拭いながら、自動販売機へと、続く道を、ゆっくりと、歩いていった。朝の日差しは、すでに、真夏の力強さを、帯び始めている。
自動販売機の前に立つと、機械が発する、微かな稼働音と、冷却装置の音が、耳に届いた。惺は、その音を聞きながら、財布の中身を確かめつつ、何を買おうか、迷っていた。
「これ、どうぞ」
ふいに声をかけられて振り返ると、望乃莉が立っていた。手には、冷えたスポーツドリンクの缶を持っている。
「え……」
惺が戸惑っていると、望乃莉はその缶を、そっと差し出した。
「朝練、大変そうだったので。渡り廊下から、見えました」
朝の光が、彼女の姿を、逆光気味に、照らし出していた。渡り廊下から見えたという、彼女の言葉通り、その渡り廊下の方角には、まだ、朝練を続ける他の部活動の生徒たちの姿が、小さく、見えていた。
惺は驚きながらも、その缶を受け取った。表面には、うっすらと水滴がついていて、ひんやりとした冷たさが、汗ばんだ手のひらに、じんわりと、染み渡っていく。惺は、その冷たさの心地よさに、思わず、小さく、息をついた。
「ありがとう。でも、いいの? わざわざ買ってきてくれたんじゃ」
「いいんです。私も、ちょうど喉が渇いていたので」
そう言いながらも、望乃莉の手には、飲み物らしきものは見当たらなかった。惺はそのことに気づいたけれど、あえて指摘はしなかった。彼女なりの照れ隠しなのかもしれない、と思ったからだ。
「じゃあ、半分こする?」
惺がそう提案すると、望乃莉は少し驚いたような顔をした。それから、小さく首を振った。
「惺くんが、飲んでください。私は、大丈夫です」
「そっか。ありがとう、望乃莉」
プルタブを開ける、小さな音が、朝の静けさの中に、響いた。冷えたスポーツドリンクを、一口、飲み込むと、渇いた喉が、一気に、潤されていく感覚があった。周囲では、蝉の声に混じって、遠くから、野球部のバットが、ボールを打つ音が、乾いた音を立てて、響いてきた。
惺は、その美味しさを噛み締めながら、望乃莉の顔を、そっと、見つめた。彼女もまた、朝の光の中で、どこか、満足そうな表情を、浮かべているように、見えた。
「美味しい」
思わず、そう漏らすと、望乃莉は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった、です」
二人は、しばらく自動販売機の前で立ち話をした。会話は多くなかったけれど、その短い時間が、惺にとっては、かけがえのないものだった。
やがて、望乃莉は「そろそろ、教室に戻ります」と言って、渡り廊下の方へ歩いていった。惺はその後ろ姿を見送りながら、手の中の缶を、そっと握りしめた。
その日一日、惺はその缶を、鞄の中に大切にしまっていた。中身はとっくに飲み干してしまったけれど、空き缶を捨てることが、なぜかできなかった。
放課後、開け放たれた窓から、蝉の声が、絶えることなく、教室の中にまで、届いていた。西日が、少しずつ、傾き始め、教室の床に、長い影を、落としている。
「なんだよそれ、集めてんの? 空き缶」
一澄が惺の机の中を覗き込んで、不思議そうに聞いてきた。惺は慌てて缶を隠すように、鞄の奥に押し込んだ。一澄は、面白そうに、見つめていた。その様子を、窓の外の夕暮れの光が、静かに、照らし出していた。
「別に、集めてない」
「じゃあ、なんで持ってんだよ」
「……もらったから」
「もらった? 誰から?」
惺は口ごもった。答えたくないような、でも、少しだけ誰かに聞いてほしいような、複雑な気持ちだった。結局、惺は小さな声で答えた。
「望乃莉から」
一澄は一瞬、目を丸くしたけれど、すぐににやにやとした笑みを浮かべた。
「なんだそれ、めちゃくちゃ青春じゃん」
「そんな大したことじゃないって。ただ、朝練見て、ドリンク買ってきてくれただけで」
「それが青春なんだって。分かってないな、坂本は」
一澄にからかわれながらも、惺は密かに、その言葉に頷いていた。缶ジュース一本。ただ、それだけのこと。それなのに、これほどまでに嬉しく感じるのは、きっと、それが望乃莉から手渡されたものだからだった。
翌日の朝、惺はいつものように、望乃莉と交差点ですれ違った。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
いつも通りの挨拶を交わした後、惺は少し迷ってから、口を開いた。
「昨日、ドリンクありがとう。すごく美味しかった」
望乃莉は、少し照れたように視線を伏せた。
「よかったです。また、渡り廊下から見かけたら、渡します」
「え、また買ってきてくれるの?」
「はい。惺くんが、頑張ってる姿、見るの、好きなので」
その言葉に、惺は思わず立ち止まりそうになった。「見るの、好き」という一言が、想像以上に胸の奥深くに響いてしまったのだ。
「あ、いや、その、朝練が、です。応援の意味で」
望乃莉は、慌てたように付け加えた。頬が、うっすらと赤くなっているように見えた。惺はその様子を見て、なんだか可愛らしいと思ってしまい、思わず笑ってしまった。
「うん、分かってる。ありがとう」
その日から、望乃莉は本当に、時折、朝練の後に缶ジュースを渡してくれるようになった。毎日というわけではない。けれど、忘れた頃にふと渡されるその一本が、惺にとっては、日々の疲れを癒す、何よりのご褒美になっていた。
「今日は、これ」
ある日、朝の空気には、すでに、真夏を思わせる、強い日差しの気配が、含まれ始めていた。街路樹の緑は、いっそう、深い色合いを、増している。
望乃莉が差し出したのは、いつものスポーツドリンクではなく、少し珍しいフレーバーの炭酸ジュースだった。
「珍しいの選んでくれたんだね」
「新商品だったので、気になって」
望乃莉は、少し得意げな表情を見せた。惺はその表情に、また胸が高鳴るのを感じた。彼女が、自分のために何かを選んでくれる。そのこと自体が、言葉では説明しきれないほどの喜びだった。
缶を受け取る、惺の手のひらには、その日もまた、確かな、冷たい重みが、伝わってきた。望乃莉が、少し得意げな表情を浮かべる様子を、朝日が、優しく、照らしていた。目が合う瞬間の、少しの気まずさと、たくさんの嬉しさ。二人の間には、蝉の声と、夏の朝の匂いが、静かに、満ちていた。
それらすべてが、言葉よりも雄弁に、二人の間にある何かを伝えているような気がした。
言葉は少なかったのに、缶の冷たさだけがしばらく手に残っていた。
