第一章 中庭の陽射しより、君の笑顔のほうがまぶしかった。
夏が始まるころ、人の笑顔は光よりまぶしく見える日がある。
七月に入った灯凪町高校の中庭には、真夏を先取りするような、強い日差しが、容赦なく、降り注いでいた。楠の大木は、その豊かな葉を、いっそう深い緑色に、色づかせている。蝉の声が、途切れることなく、辺り一帯に、響き渡っていた。
校舎の窓は、すべて開け放たれ、時折、吹き込む風だけが、教室の熱気を、わずかに、和らげてくれる。惺は、その熱気の中を、汗ばみながら、中庭へと、足を運んでいった。
惺の部活は、地区予選の敗退を機に、新チームとしての練習を本格的に始めていた。以前ほどの緊張感はなくなったものの、夏の大会に向けての基礎作りは、それはそれで地道な忙しさがあった。それでも、以前に比べれば、放課後に自由な時間が持てる日も増えてきていた。
朝の交差点でのすれ違いは、季節が変わっても続いていた。望乃莉との「おはよう」の挨拶は、もはや惺にとって、一日を始めるための欠かせない儀式のようになっていた。
その日の昼休み、惺は珍しく中庭で昼食を取ることにした。一澄に誘われたのがきっかけだった。灯凪町高校の中庭には、大きな楠の木が一本植わっていて、夏になると、その木陰が生徒たちの憩いの場所になる。
「今日、暑いなあ」
一澄が、木陰に敷いたレジャーシートに寝転がりながら言った。一澄の傍らで、惺は、木陰の心地よさを、改めて、実感していた。楠の枝葉の間から、木漏れ日が、地面に、複雑な模様を描いている。その模様は、風が吹くたびに、さらさらと、形を変えていった。
購買のパンの袋を開けると、香ばしい匂いが、辺りに、微かに、漂う。蝉の声に混じって、遠くから、吹奏楽部の練習の音が、微かに、聞こえてきた。灯凪町の夏は、こうして、様々な音と匂いが、重なり合いながら、その存在感を、日ごとに、強めていくようだった。
「もうすぐ夏本番だしな」
「夏休み、何する予定? お前」
「部活だろ、普通に」
「だよなあ。俺もそうだわ」
そんな他愛のない会話をしながら、惺はふと、中庭の向こうに視線を向けた。校舎の陰になった場所に、見覚えのある人影があった。
望乃莉だった。彼女は、いつもの白灯文庫ではなく、珍しく中庭のベンチに座って、文庫本を読んでいた。彼女の周りだけ、まるで、時間がゆっくりと、流れているかのようだった。楠の木陰は、真夏の日差しを、優しく、遮ってくれている。それでも、木漏れ日の粒だけは、絶えず、地面や、彼女の膝の上で、揺らめいていた。
「あれ、夜久さんじゃん」
一澄が惺の視線を追って、そう言った。惺は少し慌てて、視線を逸らそうとしたけれど、一澄はにやにやしながら惺を肘で突いた。
「行ってくれば?」
「別に、そんな」
「今日は素直じゃないと、後で後悔するタイプだろ、お前」
一澄の言葉に、惺は苦笑した。確かに、その通りかもしれない。惺は立ち上がって、パンの袋を持ったまま、望乃莉の方へ歩いていった。
惺が、そのベンチに近づいていく間も、蝉の声は、絶えることなく、辺りに、響き続けていた。その賑やかな音の中で、望乃莉が座る場所だけが、なぜか、静かな、特別な空間のように、惺には、感じられた。
「望乃莉」
声をかけると、彼女は本から顔を上げた。少し驚いたような表情を見せたけれど、すぐに小さく微笑んだ。
「惺くん」
彼女が惺の名前を呼んだのは、これが初めてだった。以前は「あの」とか「坂本くん」とか、名字で呼ぶことが多かった。惺はその変化に、胸が高鳴るのを感じた。
「こんなところで珍しいね。いつも図書室でしょ」
「今日は、暑くて。少し風に当たりたくて」
望乃莉はそう言って、扇いでいた文庫本を膝の上に置いた。惺は彼女の隣、少し距離を空けたベンチの端に腰を下ろした。
「暑いよな、今日は特に」
「はい。でも、この木陰は、意外と涼しいです」
二人は、しばらく他愛のない会話を交わした。夏の暑さのこと、期末試験が近づいていること、部活のこと。会話の内容は些細なものだったけれど、惺にとっては、そのひとつひとつが、かけがえのない時間だった。
ふと、望乃莉が空を見上げた。楠の葉の隙間から、夏の強い日差しが、まだらな光となって降り注いでいる。彼女はその光を、目を細めて見つめていた。
「木漏れ日って、きれいですよね」
「うん、きれいだね」
望乃莉が、木漏れ日を見上げる、その視線の先には、楠の葉が、複雑に、重なり合っていた。風が吹くたびに、葉と葉が擦れ合う音が、さわさわと、優しく、響いてくる。その音は、まるで、二人だけに向けられた、小さな音楽のようだった。
惺は、その木漏れ日の揺らめきと、望乃莉の横顔を、同時に、視界に収めながら、この瞬間が、いつまでも、続いてほしいと、心の中で、強く、願っていた。
そのとき、風が吹いた。楠の枝が揺れて、木漏れ日の模様が、さらさらと形を変える。望乃莉は、その変化を目で追いながら、ふと、惺の方を見た。
そして、笑った。
あの日、白灯文庫の窓際で見せてくれた笑顔と同じ、いや、それ以上に自然な笑顔だった。夏の日差しの中で、彼女の笑顔は、周りのどんな光よりも、まぶしく輝いて見えた。
惺は思わず、息を呑んだ。心臓が、痛いくらいに高鳴っている。この瞬間を、ずっと覚えていたい。そう強く思った。
「惺くん、どうかしましたか?」
惺が固まっているのに気づいたのか、望乃莉が不思議そうに首を傾げた。惺は慌てて、視線を逸らした。
「い、いや、何でもない。ただ……」
「ただ?」
「その、笑ってる望乃莉、初めて見た気がして」
正直に言ってしまってから、惺は自分の言葉に照れくさくなった。望乃莉も、少し頬を赤らめたように見えた。
「そう、ですか。私、あまり笑わないので」
「もったいないよ、それ」
惺がそう言うと、望乃莉は驚いたような表情を見せた。それから、また、小さく微笑んだ。
「惺くんが、笑わせてくれたから、です」
その一言に、惺の胸は、いっぱいになった。何も特別なことを言ったわけではない。ただ、隣に座って、他愛のない話をしていただけだ。それなのに、彼女の笑顔を引き出せたことが、惺にとっては、何よりの喜びだった。
チャイムの音が、中庭に響き渡ると、それまでの、穏やかな時間は、瞬く間に、日常の慌ただしさへと、切り替わっていった。生徒たちが、次々と、校舎へと戻っていく足音が、辺りに、響き始める。
「また、放課後」
惺がそう言うと、望乃莉は頷いた。
「はい、また」
彼女は、鞄を肩にかけて、校舎の方へ歩いていった。惺は、望乃莉の後ろ姿を見送りながら、しばらくの間、その場に、立ち尽くしていた。楠の木陰から差し込む光の帯が、彼女が去っていった後の、ベンチの上を、静かに、照らし続けている。夏の日差しは、その光の帯の中でも、いっそう、力強さを、増しているように、感じられた。
惺は、まだ胸の高鳴りが収まらないのを感じていた。
一澄のところに戻ると、彼はにやにやしながら惺を見つめていた。
「なんか、良い顔してるじゃん」
「うるさいな」
惺は照れ隠しに、パンの残りを口に押し込んだ。それでも、心の中では、さっきの笑顔が、何度も何度も繰り返し再生されていた。
木漏れ日の中で見た、あの笑顔。夏の日差しよりも、まぶしくて、あたたかい笑顔だった。
その笑顔を見られただけで、今日は十分だった。
夏が始まるころ、人の笑顔は光よりまぶしく見える日がある。
七月に入った灯凪町高校の中庭には、真夏を先取りするような、強い日差しが、容赦なく、降り注いでいた。楠の大木は、その豊かな葉を、いっそう深い緑色に、色づかせている。蝉の声が、途切れることなく、辺り一帯に、響き渡っていた。
校舎の窓は、すべて開け放たれ、時折、吹き込む風だけが、教室の熱気を、わずかに、和らげてくれる。惺は、その熱気の中を、汗ばみながら、中庭へと、足を運んでいった。
惺の部活は、地区予選の敗退を機に、新チームとしての練習を本格的に始めていた。以前ほどの緊張感はなくなったものの、夏の大会に向けての基礎作りは、それはそれで地道な忙しさがあった。それでも、以前に比べれば、放課後に自由な時間が持てる日も増えてきていた。
朝の交差点でのすれ違いは、季節が変わっても続いていた。望乃莉との「おはよう」の挨拶は、もはや惺にとって、一日を始めるための欠かせない儀式のようになっていた。
その日の昼休み、惺は珍しく中庭で昼食を取ることにした。一澄に誘われたのがきっかけだった。灯凪町高校の中庭には、大きな楠の木が一本植わっていて、夏になると、その木陰が生徒たちの憩いの場所になる。
「今日、暑いなあ」
一澄が、木陰に敷いたレジャーシートに寝転がりながら言った。一澄の傍らで、惺は、木陰の心地よさを、改めて、実感していた。楠の枝葉の間から、木漏れ日が、地面に、複雑な模様を描いている。その模様は、風が吹くたびに、さらさらと、形を変えていった。
購買のパンの袋を開けると、香ばしい匂いが、辺りに、微かに、漂う。蝉の声に混じって、遠くから、吹奏楽部の練習の音が、微かに、聞こえてきた。灯凪町の夏は、こうして、様々な音と匂いが、重なり合いながら、その存在感を、日ごとに、強めていくようだった。
「もうすぐ夏本番だしな」
「夏休み、何する予定? お前」
「部活だろ、普通に」
「だよなあ。俺もそうだわ」
そんな他愛のない会話をしながら、惺はふと、中庭の向こうに視線を向けた。校舎の陰になった場所に、見覚えのある人影があった。
望乃莉だった。彼女は、いつもの白灯文庫ではなく、珍しく中庭のベンチに座って、文庫本を読んでいた。彼女の周りだけ、まるで、時間がゆっくりと、流れているかのようだった。楠の木陰は、真夏の日差しを、優しく、遮ってくれている。それでも、木漏れ日の粒だけは、絶えず、地面や、彼女の膝の上で、揺らめいていた。
「あれ、夜久さんじゃん」
一澄が惺の視線を追って、そう言った。惺は少し慌てて、視線を逸らそうとしたけれど、一澄はにやにやしながら惺を肘で突いた。
「行ってくれば?」
「別に、そんな」
「今日は素直じゃないと、後で後悔するタイプだろ、お前」
一澄の言葉に、惺は苦笑した。確かに、その通りかもしれない。惺は立ち上がって、パンの袋を持ったまま、望乃莉の方へ歩いていった。
惺が、そのベンチに近づいていく間も、蝉の声は、絶えることなく、辺りに、響き続けていた。その賑やかな音の中で、望乃莉が座る場所だけが、なぜか、静かな、特別な空間のように、惺には、感じられた。
「望乃莉」
声をかけると、彼女は本から顔を上げた。少し驚いたような表情を見せたけれど、すぐに小さく微笑んだ。
「惺くん」
彼女が惺の名前を呼んだのは、これが初めてだった。以前は「あの」とか「坂本くん」とか、名字で呼ぶことが多かった。惺はその変化に、胸が高鳴るのを感じた。
「こんなところで珍しいね。いつも図書室でしょ」
「今日は、暑くて。少し風に当たりたくて」
望乃莉はそう言って、扇いでいた文庫本を膝の上に置いた。惺は彼女の隣、少し距離を空けたベンチの端に腰を下ろした。
「暑いよな、今日は特に」
「はい。でも、この木陰は、意外と涼しいです」
二人は、しばらく他愛のない会話を交わした。夏の暑さのこと、期末試験が近づいていること、部活のこと。会話の内容は些細なものだったけれど、惺にとっては、そのひとつひとつが、かけがえのない時間だった。
ふと、望乃莉が空を見上げた。楠の葉の隙間から、夏の強い日差しが、まだらな光となって降り注いでいる。彼女はその光を、目を細めて見つめていた。
「木漏れ日って、きれいですよね」
「うん、きれいだね」
望乃莉が、木漏れ日を見上げる、その視線の先には、楠の葉が、複雑に、重なり合っていた。風が吹くたびに、葉と葉が擦れ合う音が、さわさわと、優しく、響いてくる。その音は、まるで、二人だけに向けられた、小さな音楽のようだった。
惺は、その木漏れ日の揺らめきと、望乃莉の横顔を、同時に、視界に収めながら、この瞬間が、いつまでも、続いてほしいと、心の中で、強く、願っていた。
そのとき、風が吹いた。楠の枝が揺れて、木漏れ日の模様が、さらさらと形を変える。望乃莉は、その変化を目で追いながら、ふと、惺の方を見た。
そして、笑った。
あの日、白灯文庫の窓際で見せてくれた笑顔と同じ、いや、それ以上に自然な笑顔だった。夏の日差しの中で、彼女の笑顔は、周りのどんな光よりも、まぶしく輝いて見えた。
惺は思わず、息を呑んだ。心臓が、痛いくらいに高鳴っている。この瞬間を、ずっと覚えていたい。そう強く思った。
「惺くん、どうかしましたか?」
惺が固まっているのに気づいたのか、望乃莉が不思議そうに首を傾げた。惺は慌てて、視線を逸らした。
「い、いや、何でもない。ただ……」
「ただ?」
「その、笑ってる望乃莉、初めて見た気がして」
正直に言ってしまってから、惺は自分の言葉に照れくさくなった。望乃莉も、少し頬を赤らめたように見えた。
「そう、ですか。私、あまり笑わないので」
「もったいないよ、それ」
惺がそう言うと、望乃莉は驚いたような表情を見せた。それから、また、小さく微笑んだ。
「惺くんが、笑わせてくれたから、です」
その一言に、惺の胸は、いっぱいになった。何も特別なことを言ったわけではない。ただ、隣に座って、他愛のない話をしていただけだ。それなのに、彼女の笑顔を引き出せたことが、惺にとっては、何よりの喜びだった。
チャイムの音が、中庭に響き渡ると、それまでの、穏やかな時間は、瞬く間に、日常の慌ただしさへと、切り替わっていった。生徒たちが、次々と、校舎へと戻っていく足音が、辺りに、響き始める。
「また、放課後」
惺がそう言うと、望乃莉は頷いた。
「はい、また」
彼女は、鞄を肩にかけて、校舎の方へ歩いていった。惺は、望乃莉の後ろ姿を見送りながら、しばらくの間、その場に、立ち尽くしていた。楠の木陰から差し込む光の帯が、彼女が去っていった後の、ベンチの上を、静かに、照らし続けている。夏の日差しは、その光の帯の中でも、いっそう、力強さを、増しているように、感じられた。
惺は、まだ胸の高鳴りが収まらないのを感じていた。
一澄のところに戻ると、彼はにやにやしながら惺を見つめていた。
「なんか、良い顔してるじゃん」
「うるさいな」
惺は照れ隠しに、パンの残りを口に押し込んだ。それでも、心の中では、さっきの笑顔が、何度も何度も繰り返し再生されていた。
木漏れ日の中で見た、あの笑顔。夏の日差しよりも、まぶしくて、あたたかい笑顔だった。
その笑顔を見られただけで、今日は十分だった。
