しおりになる春、君をひらく季節。

第十章 春の終わり、彼女が初めてこちらから笑った。

その笑顔は、桜より少し遅れて咲いた。
 六月半ばの灯凪町は、梅雨入りを間近に控え、湿り気を帯びた、重たい空気に、包まれ始めていた。それでも、朝の交差点には、時折、雲の切れ間から、初夏の柔らかな日差しが、差し込むことがあった。惺は、その光の移ろいを、通学路を歩きながら、静かに、感じ取っていた。
 紫陽花の花は、すでに、満開に近づき、あちこちで、鮮やかな青や紫の色を、競い合うように、咲かせている。惺は、その花々の色合いを、横目に見ながら、望乃莉との、朝の挨拶の時間を、大切に、過ごしていた。
 惺の部活の試合は、思いのほか苦戦を強いられていた。地区予選の二回戦で、格上のチームに当たってしまったのだ。放課後の練習量は増える一方で、白灯文庫に顔を出せる日は、以前よりもずっと少なくなっていた。
それでも、朝の交差点でのすれ違いだけは、欠かさず続いていた。惺は毎朝、少し早めに家を出て、望乃莉とすれ違う時間を作るようになっていた。彼女もまた、同じように時間を合わせてくれているのかもしれない。そんな予感が、惺の中にはあった。
 「試合、頑張ってください」
ある朝、望乃莉がそう言ってくれたことがあった。惺は驚いて、思わず立ち止まりそうになった。
 「あ、ありがとう。よく知ってたね、試合のこと」
 「一澄さんが、教室の前で話してるの、聞こえました」
そう言って、望乃莉は少しだけ視線を伏せた。惺はその仕草に、なんとなく、彼女なりの照れが隠れているような気がした。
 「応援、してます」
その一言が、惺の胸に、じんわりと温かく染み渡った。試合前の緊張感を抱えていた惺にとって、その言葉は、何よりも力になる激励だった。
 試合当日、グラウンドには、朝から、じりじりとした、初夏の日差しが、照りつけていた。土のグラウンドから立ち上る、乾いた匂い。応援に駆けつけた生徒たちの、賑やかな声援。惺は、その熱気の中で、望乃莉の言葉を、心の中で、何度も、繰り返していた。
「応援、してます」。その一言が、まるで、涼やかな風のように、惺の心の中を、静かに、吹き抜けていった。試合は、惜しくも、敗退という結果に終わったけれど、惺の中には、不思議と、清々しい気持ちが、残っていた。
 翌日、白灯文庫を訪れた惺を、窓際の席から、望乃莉が、迎え入れてくれた。窓の外には、梅雨入り前特有の、どんよりとした、灰色の雲が、広がっている。それでも、図書室の中は、暖かな、穏やかな空気に、満ちていた。
 「試合、どうでしたか」
 「負けちゃった。でも、いい試合だったよ」
惺がそう答えると、望乃莉は少し考えるような表情を見せた。それから、静かに言った。
 「負けても、頑張ったなら、それでいいと思います」
 望乃莉の言葉を聞きながら、惺は、窓の外の、鈍色の空を、見つめていた。その色合いは、決して、明るいものではなかったけれど、なぜか、惺の心には、静かな安らぎを、もたらしてくれていた。
 「ありがとう、望乃莉」
惺がそう言うと、望乃莉は小さく頷いて、また本に視線を戻した。惺は彼女の近くの席に腰を下ろし、鞄から教科書を取り出した。今日は久しぶりに、じっくりと白灯文庫で時間を過ごせそうだった。
しばらく静かな時間が流れた。窓の外では、初夏の柔らかい光が、図書室全体を淡く照らしている。惺はふと、鞄の中にまだしまったままの、あのしおりのことを思い出した。花びらを貼り付けた、不格好な手作りのしおり。渡そうと決意しては、何度も機会を逃してきたものだ。
今日こそ、渡そう。惺はそう心に決めた。試合を終えて、望乃莉の言葉に励まされた今なら、きっと勇気が出せる気がした。
 「あの、望乃莉」
惺が声をかけると、彼女は本から顔を上げた。
 「はい?」
惺は鞄の中に手を入れた。指先が、しおりの端に触れる。心臓が、いつものように早鐘を打ち始める。けれど、今日はその鼓動を、少しだけ心地よく感じることができた。
 「これ……」
 しおりを取り出そうとした、その瞬間、窓の外の雲の切れ間から、一筋の光が、差し込んできた。その光は、まるで、二人の間にある、緊張した空気を、そっと、和らげるかのように、図書室全体を、柔らかく、照らし出していた。
 惺は、その光の中で、望乃莉が、ふと、窓の外に視線を向ける様子を、静かに、見つめていた。彼女の横顔に、光が、そっと、触れている。その瞬間の美しさに、惺は、しばらくの間、言葉を失っていた。
 窓の外には、初夏の青空が広がっていた。梅雨の気配があるとはいえ、今日は珍しく雲一つない、澄み渡った空だった。その空を、一羽の鳥が悠々と横切っていく。
望乃莉は、その光景を見つめながら、ふと、口元を緩めた。
それは、これまで惺が見たことのない表情だった。控えめな微笑みではなく、もっと自然な、心の底からこぼれ落ちたような笑顔だった。
 「きれいな空、ですね」
 そう言って、望乃莉は惺の方を向いた。その表情のまま、彼女は惺に向かって、微笑んだ。
惺は、その瞬間、言葉を失ってしまった。取り出しかけていたしおりのことも、一瞬、頭の中から消えてしまうくらい、その笑顔に見入ってしまったのだ。
 初めてだった。彼女が、自分から惺に向かって笑いかけてくれたのは。生徒手帳を届けたときも、花びらを一緒に拾ったときも、名前を呼び合うようになったときも、彼女はいつも控えめな表情を崩さなかった。それが、今、初めて、まっすぐに、惺に向けられていた。
 「うん……きれいだね」
 惺はやっとのことで、そう答えた。声が少し震えていたかもしれない。望乃莉は、まだ微笑みを浮かべたまま、また窓の外に視線を戻した。
 結局、惺はその日も、しおりを渡すことができなかった。けれど、不思議と、後悔は感じなかった。しおりを渡す代わりに、それ以上に大切な何かを、受け取ったような気がしたからだ。
 彼女の笑顔。それは、これまでのどんな言葉よりも、多くのことを伝えてくれる気がした。無口な彼女が、ようやく心の内側を、少しだけ覗かせてくれた瞬間だった。
放課後、惺は自転車を漕ぎながら、その笑顔を何度も思い返していた。梅雨入り前の、澄んだ青空。望乃莉の、初めての笑顔。二つの情景が、惺の心の中で重なり合って、忘れられない一枚の絵のようになっていた。
 春は、もうすぐ終わろうとしている。生徒手帳を拾ったあの日から、数ヶ月が経った。まだしおりは渡せていないし、伝えたい言葉も、まだ言葉にできていない。それでも、確かに、二人の距離は少しずつ縮まってきていた。
 灯凪町の空は、今日も静かに、夕方の色へと変わっていく。惺はその空を見上げながら、これから始まる夏に、少しだけ期待を寄せていた。
春が終わるころ、二人の物語はようやく一ページ目を開いた。