第一章 生徒手帳ひとつで、世界の向きが少し変わった。
春の風にめくられた生徒手帳が、坂本惺の足元で止まった。
灯凪町高校の正門から続く桜並木は、今日もひっきりなしに花びらを散らしていた。二年生に進級して、二週間ほどが過ぎた。惺は、昨年覚えたこの正門坂の匂いを、今年もまた、同じように感じ取っていた。潮の香りに、桜の甘さが混じる、あの独特の匂い。灯凪町という町そのものが持つ匂いだ。
風は特に強くもなかった。ただ、季節の変わり目にだけ吹く、ちょっとだけ意地悪な風だった。誰かの手から何かをさらっていくのに、ちょうどいいくらいの強さ。
惺は自転車を押しながら歩いていた。朝練のあとで少し疲れていたし、部活の顧問に言われたことを反芻しながら、正直なところ足元にはあまり注意を払っていなかった。だから、その白っぽいものが視界の端でひらりと舞ったとき、最初はただの紙くずかと思った。
けれど、風に乗ってふわりと弧を描いたそれは、惺のスニーカーのすぐ前で、ぱたりと地面に落ちて止まった。
生徒手帳だった。
薄い水色のカバーに、灯凪町高校の校章が刷られている。惺はしゃがんで拾い上げた。手のひらに収まるくらいの、なんの変哲もない生徒手帳。けれど、それを拾った瞬間、なぜだか惺は妙な感覚を覚えた。誰かの一部を、勝手に手に取ってしまったような感覚だ。
名前を確かめようとして、表紙をめくる。中には几帳面な字で「二年三組 夜久望乃莉」と書かれていた。
夜久望乃莉。
その名前に、惺は覚えがなかった。同じ学年ではあるはずなのに、記憶のどこにも引っかからない。クラスが違うのだから当然かもしれない。けれど、灯凪町高校は決して大きな学校ではない。二年生ともなれば、廊下ですれ違う顔くらいは、なんとなく覚えているものだ。
それなのに、夜久望乃莉という名前にも、顔にも、まったく心当たりがなかった。
惺は生徒手帳を握ったまま、周りを見渡した。落とし主らしき姿はどこにもない。すでに校門をくぐって、校舎の方へ向かってしまったのだろう。追いかけて渡すべきか、それとも職員室に届けるべきか。少し迷ってから、惺は自転車を駐輪場に停めて、そのまま生徒手帳を鞄の内ポケットにしまった。
昼休みにでも、二年三組を訪ねて渡そう。そう決めた。
けれど、実際に二年三組の教室へ向かったのは、昼休みではなく、放課後になってからだった。
一時間目の小テストがあったこと、二時間目に部活の連絡事項を回さなければならなかったこと、昼休みは友人の山田一澄に「新入生歓迎の出し物」とやらの相談を持ちかけられて時間を取られたこと。そういう些細なことが積み重なって、気づけば下校時刻が近づいていた。
「なあ、坂本。今日一日、なんか上の空じゃなかった?」
一澄が、教室を出る途中でそう声をかけてきた。惺は少し驚いて振り返る。
「そう見えた?」
「見えたっつーか、机の中の生徒手帳、ずっと気にしてたろ。自分のじゃないやつ」
一澄は勘がいい。惺は苦笑しながら、鞄から生徒手帳を取り出した。
「今朝、拾ったんだ。校門の前で。二年三組の、夜久望乃莉さんって人の」
「へえ、夜久さん。ああ、あの人か」
一澄がなにか知っている口ぶりだったので、惺は思わず聞き返した。
「知ってるのか?」
「知ってるってほどじゃないけど、有名っちゃ有名だよ。ほとんど喋らない人。いつも図書室にいるらしい。うちのクラスの女子が言ってた」
「図書室……」
その一言で、惺の頭の中に、ぼんやりとした輪郭が浮かんだ。まだ会ったこともない相手なのに、なぜか静かな横顔が想像できる気がした。
「渡しに行くなら、図書室じゃない? 今の時間ならまだいるかもよ」
一澄にそう言われて、惺は生徒手帳を鞄にしまい直し、図書室のある方へ向かった。
灯凪町高校の図書室は、校舎の三階、南側の端にある。窓が大きく取られていて、放課後になると西日が長く差し込む場所だ。惺はこれまで数えるほどしか足を踏み入れたことがなかった。読書が嫌いなわけではないが、わざわざ図書室に行くほど熱心でもない。だから、扉を開けたとき、その静けさに少し身構えてしまった。
数人の生徒が、それぞれの机で本を読んだり、勉強をしたりしている。惺は視線を巡らせて、窓際の席に一人だけ、誰よりも背筋を伸ばして本を読んでいる女子生徒を見つけた。
長い黒髪を耳にかけて、文庫本のページを静かにめくっている。西日が横顔に触れて、輪郭だけがやわらかく光っていた。
これが、夜久望乃莉なのだろうか。惺はそう思ったが、確信は持てなかった。声をかけていいものかどうかも分からず、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。
けれど、迷っている時間はそう長くは続かなかった。彼女がふと顔を上げて、惺の方を見たからだ。
驚いたような表情ではなかった。ただ、静かに、まっすぐにこちらを見ているだけだった。惺は慌てて近づき、鞄から生徒手帳を取り出した。
「あの、夜久望乃莉さん……ですよね。これ、今朝、校門の前で拾って」
彼女は少しだけ目を見開いた。それから、自分のポケットやスカートの内側を確かめるように触って、それが本当に自分のものだと気づいたようだった。
「あ……」
小さな声だった。風よりも小さいくらいの。
惺が生徒手帳を差し出すと、彼女はそっと両手で受け取った。指先が触れることはなかったけれど、惺はなぜかその瞬間を、やけに鮮明に覚えている気がした。
「ありがとう、ございます」
一語一語を確かめるように、彼女は言った。それだけだった。名前を聞かれることもなく、余計な言葉を交わすこともなく、彼女はまた本に視線を戻してしまった。
惺は少しの間、その場に立っていた。何か言うべきだったのか、それとも、これでよかったのか。分からないまま、結局は「じゃあ」とだけ言って、図書室を後にした。
廊下に出てから、惺はもう一度だけ振り返った。ガラス越しに、彼女はまた静かにページをめくっていた。まるで、さっきの出来事などなかったかのように。
けれど、惺の胸の中には、たしかに何かが残っていた。名前も知らなかった相手に、たまたま拾ったものを返しただけ。それだけのことのはずなのに、どうしてか、今日という日が、いつもの春の一日とは少し違って見えた。
自転車のペダルを漕ぎながら、惺は夕暮れの町を眺めた。灯凪町の空は、桜色から橙色へと、ゆっくり色を変えていく。海の匂いが、風に乗って強くなる時間だ。
夜久望乃莉。
まだ、名前を覚えただけの相手だった。話したことも、ほとんどない。それでも、惺はその名前を、もう一度心の中で繰り返してみた。
まだ名前も知らない誰かへ、生まれて初めて何かを返した春だった。
春の風にめくられた生徒手帳が、坂本惺の足元で止まった。
灯凪町高校の正門から続く桜並木は、今日もひっきりなしに花びらを散らしていた。二年生に進級して、二週間ほどが過ぎた。惺は、昨年覚えたこの正門坂の匂いを、今年もまた、同じように感じ取っていた。潮の香りに、桜の甘さが混じる、あの独特の匂い。灯凪町という町そのものが持つ匂いだ。
風は特に強くもなかった。ただ、季節の変わり目にだけ吹く、ちょっとだけ意地悪な風だった。誰かの手から何かをさらっていくのに、ちょうどいいくらいの強さ。
惺は自転車を押しながら歩いていた。朝練のあとで少し疲れていたし、部活の顧問に言われたことを反芻しながら、正直なところ足元にはあまり注意を払っていなかった。だから、その白っぽいものが視界の端でひらりと舞ったとき、最初はただの紙くずかと思った。
けれど、風に乗ってふわりと弧を描いたそれは、惺のスニーカーのすぐ前で、ぱたりと地面に落ちて止まった。
生徒手帳だった。
薄い水色のカバーに、灯凪町高校の校章が刷られている。惺はしゃがんで拾い上げた。手のひらに収まるくらいの、なんの変哲もない生徒手帳。けれど、それを拾った瞬間、なぜだか惺は妙な感覚を覚えた。誰かの一部を、勝手に手に取ってしまったような感覚だ。
名前を確かめようとして、表紙をめくる。中には几帳面な字で「二年三組 夜久望乃莉」と書かれていた。
夜久望乃莉。
その名前に、惺は覚えがなかった。同じ学年ではあるはずなのに、記憶のどこにも引っかからない。クラスが違うのだから当然かもしれない。けれど、灯凪町高校は決して大きな学校ではない。二年生ともなれば、廊下ですれ違う顔くらいは、なんとなく覚えているものだ。
それなのに、夜久望乃莉という名前にも、顔にも、まったく心当たりがなかった。
惺は生徒手帳を握ったまま、周りを見渡した。落とし主らしき姿はどこにもない。すでに校門をくぐって、校舎の方へ向かってしまったのだろう。追いかけて渡すべきか、それとも職員室に届けるべきか。少し迷ってから、惺は自転車を駐輪場に停めて、そのまま生徒手帳を鞄の内ポケットにしまった。
昼休みにでも、二年三組を訪ねて渡そう。そう決めた。
けれど、実際に二年三組の教室へ向かったのは、昼休みではなく、放課後になってからだった。
一時間目の小テストがあったこと、二時間目に部活の連絡事項を回さなければならなかったこと、昼休みは友人の山田一澄に「新入生歓迎の出し物」とやらの相談を持ちかけられて時間を取られたこと。そういう些細なことが積み重なって、気づけば下校時刻が近づいていた。
「なあ、坂本。今日一日、なんか上の空じゃなかった?」
一澄が、教室を出る途中でそう声をかけてきた。惺は少し驚いて振り返る。
「そう見えた?」
「見えたっつーか、机の中の生徒手帳、ずっと気にしてたろ。自分のじゃないやつ」
一澄は勘がいい。惺は苦笑しながら、鞄から生徒手帳を取り出した。
「今朝、拾ったんだ。校門の前で。二年三組の、夜久望乃莉さんって人の」
「へえ、夜久さん。ああ、あの人か」
一澄がなにか知っている口ぶりだったので、惺は思わず聞き返した。
「知ってるのか?」
「知ってるってほどじゃないけど、有名っちゃ有名だよ。ほとんど喋らない人。いつも図書室にいるらしい。うちのクラスの女子が言ってた」
「図書室……」
その一言で、惺の頭の中に、ぼんやりとした輪郭が浮かんだ。まだ会ったこともない相手なのに、なぜか静かな横顔が想像できる気がした。
「渡しに行くなら、図書室じゃない? 今の時間ならまだいるかもよ」
一澄にそう言われて、惺は生徒手帳を鞄にしまい直し、図書室のある方へ向かった。
灯凪町高校の図書室は、校舎の三階、南側の端にある。窓が大きく取られていて、放課後になると西日が長く差し込む場所だ。惺はこれまで数えるほどしか足を踏み入れたことがなかった。読書が嫌いなわけではないが、わざわざ図書室に行くほど熱心でもない。だから、扉を開けたとき、その静けさに少し身構えてしまった。
数人の生徒が、それぞれの机で本を読んだり、勉強をしたりしている。惺は視線を巡らせて、窓際の席に一人だけ、誰よりも背筋を伸ばして本を読んでいる女子生徒を見つけた。
長い黒髪を耳にかけて、文庫本のページを静かにめくっている。西日が横顔に触れて、輪郭だけがやわらかく光っていた。
これが、夜久望乃莉なのだろうか。惺はそう思ったが、確信は持てなかった。声をかけていいものかどうかも分からず、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。
けれど、迷っている時間はそう長くは続かなかった。彼女がふと顔を上げて、惺の方を見たからだ。
驚いたような表情ではなかった。ただ、静かに、まっすぐにこちらを見ているだけだった。惺は慌てて近づき、鞄から生徒手帳を取り出した。
「あの、夜久望乃莉さん……ですよね。これ、今朝、校門の前で拾って」
彼女は少しだけ目を見開いた。それから、自分のポケットやスカートの内側を確かめるように触って、それが本当に自分のものだと気づいたようだった。
「あ……」
小さな声だった。風よりも小さいくらいの。
惺が生徒手帳を差し出すと、彼女はそっと両手で受け取った。指先が触れることはなかったけれど、惺はなぜかその瞬間を、やけに鮮明に覚えている気がした。
「ありがとう、ございます」
一語一語を確かめるように、彼女は言った。それだけだった。名前を聞かれることもなく、余計な言葉を交わすこともなく、彼女はまた本に視線を戻してしまった。
惺は少しの間、その場に立っていた。何か言うべきだったのか、それとも、これでよかったのか。分からないまま、結局は「じゃあ」とだけ言って、図書室を後にした。
廊下に出てから、惺はもう一度だけ振り返った。ガラス越しに、彼女はまた静かにページをめくっていた。まるで、さっきの出来事などなかったかのように。
けれど、惺の胸の中には、たしかに何かが残っていた。名前も知らなかった相手に、たまたま拾ったものを返しただけ。それだけのことのはずなのに、どうしてか、今日という日が、いつもの春の一日とは少し違って見えた。
自転車のペダルを漕ぎながら、惺は夕暮れの町を眺めた。灯凪町の空は、桜色から橙色へと、ゆっくり色を変えていく。海の匂いが、風に乗って強くなる時間だ。
夜久望乃莉。
まだ、名前を覚えただけの相手だった。話したことも、ほとんどない。それでも、惺はその名前を、もう一度心の中で繰り返してみた。
まだ名前も知らない誰かへ、生まれて初めて何かを返した春だった。
