翌週は、珍しく晴れていて。
金井から、『今日はバイクで行く。何かあったら火事だって叫んで、絶対連絡して』とメッセージが来ていて、どんだけ過保護だ、って朝から笑った。
俺からは、『金井も気を付けて』と返して、一人、バスで学校へ向かう。
一人は、やっぱり窮屈だった。
隣と触れないように腕を抱いて、居ないと分かっているのに金井の姿を探してしまう。
だから目を閉じて、寝たフリをする。
俺もイヤホンを持ち歩こうかなと、ふと思って。
けれど、俺が聴きたいのは、金井が聴かせてくれる、あの雨音で。
結局全て、金井が居ないとだめで、早く会いたい気持ちだけが増えていた。
教室に入ると、金井もちょうど来たばかりみたいで、ヘルメットの入ったカバンを下げているから、嬉しくなる。
でも、声を掛けようとすると、先にクラスメイトに捕まってしまった。
振り返った金井と一瞬、目が合う、けれど。
結局話せないまま、押し流されるように、自席へと辿り着いてしまった。
金井は気にする様子なく、ロッカーにカバンを入れに行って。
早く話したくて、早く二人になりたくて。
早く昼休みになれ、と、願わずにはいられなかった。
休み時間に、日直だからと先生に呼ばれる。聞けば、資料運びをして欲しいとのこと。
手伝おうか?とクラスメイトは言ってくれたけれど、金井もこちらを見ていたけれど、大丈夫と言って断った。
資料運びくらい、一人で大丈夫。
職員室に行って、別室の資料をクラスメイト全員分渡されて。
げ、思ってたより多いな、と思ったけれど、先生に「いけるか?」って言われたら、頷くしかなかった。
これは、自分を偽るとかではなく、ただの負けず嫌い。
ふんっ、と持ち上げて、足で扉を開けて。
せめて箱が欲しいな、と思いながら教室へ戻る。
「先輩」
……ん?
声がして、そのまま行こうとして、今この廊下には俺しか居ないことを思い出して。
俺か、と振り返ると、いつぞやの、告白をしてきた、後輩。
俺の元彼をボコボコにしたという、後輩。
「あれ……」
「停学、解けたので会いに来ました」
「え、」
まずいか、これ。
嫉妬で年上の、男性をボコボコにできる子だ。
俺も年上だし、男だけれど、要は同条件で。ボコボコにできる対象、という訳で。
襲いかかってきたら、この資料を投げ付けて、走って、えっと、どこに行けば良いんだ、教室、は遠いし、職員室、は彼女の背後にある。
追い越して行けるのか。
刃物を持っていたらどうする?
俺は、どうすれば。
恐怖で少し下がると、同じ分だけ詰めてくる彼女。
おいおいおいおいと思っていると、目が、合う。
「先輩、別れたって本当ですか?」
「えっ、あ、うん、でも」
「また、別の人と、付き合ったって、本当ですか?」
「……そ」
う、だけれど。
金井。
金井は、だめだ。
元彼みたいに、俺の知らないところで、金井がこの子にボコボコにされる様子を想像して、ゾッとする。
血が、出ていたと噂されているのを聞いた。
血なんて、絶対にだめだ。
金井に傷付いて欲しくない。
金井を傷付けたくない。
そんなのだめだ、絶対にだめだ。
「……本当なんですね」
「いや……あの」
何も言えない俺の反応を見て、察した彼女は息を吐く。
この子は、俺に付き合って欲しいと言っていた。二番目でも良いから、付き合いたいと。
なら俺は、付き合えば良いんだろうか。
そうしたら、この子は満足して、納得して、金井には手を出さないでいてくれるんだろうか。
でも、でも、でも。
金井を裏切るような真似は、したくない。
金井を悲しませるような真似は、したくない。
真っ直ぐな、金井のことだ。
例え金井を守る為でも、二人目の恋人なんて、形だけの恋人なんて、絶対に認めないだろう。
許さないだろう。
許せないだろう。
俺だって、そうだ。
「先輩」
「あの!お、俺、付き合ってる。確かにまた別の人と、だけど。でも俺、今、その人のこと、ちゃんと好きなんだ。俺の、初恋なんだ。大事なんだ、本当に。大事にしたいし、大事にしてくれてるんだ。だから、あの、お願い、見守って、欲しい」
資料を抱えたまま、頭を下げる。
バラバラと何枚か散っていったけれど、構っている余裕はない。
お願い、金井に手を出さないで。
頼むから、二人で居させて欲しい。
まとまりのない、ぐちゃぐちゃな言葉だったけれど、どうか伝わって欲しいと思う。
何度だって言うから、お願いだから、どうか。
「……初恋」
小さな、声が聞こえて。
「希」
「っ」
金井の、声が聞こえる。
振り向くと、そこに本当に金井が居て。
「金井、」
不意に、泣きそうになる。
安心と、不安と、ここに来ちゃだめだ、という恐怖。
今ここに来ちゃだめだ。
金井が今の恋人だって、バレちゃだめだ。
金井が襲われたら俺は。
きっと、狂ってしまう。
彼女のことを、許せなくなってしまう。
停学で済む以上の何かを、してしまうとさえ思っている。
金井は黙ったまま俺の所まで来て、散らばった資料を拾う。
そんなことしてる場合じゃ、と思うのに、金井はその資料を俺が持つ資料に重ねて、そのまま、全部取ってしまう。
「お、い」
「ごめん、ちょっと聞こえた。希と付き合ってます。二年B組の金井です。彼は俺が幸せにします」
「は……」
何、言ってんだコイツ。
名乗って、しかも宣言、しやがった。
バレちゃだめだろ、バラしちゃだめだろ。
煽っちゃだめだろ、何してんだよ。
信じられない気持ちで見るのに、金井は真っ直ぐ、彼女のことを見ている。
恐る恐る彼女を見ると、彼女は、表情が読めない。
ただ、少し頬が赤くて。
な、
なんで赤いんだ……?
戸惑っていると、彼女が頷く。
「分かりました」
「えっ」
分かった、って、何が。
どう分かったんだ、ちゃんと伝わった、のか?
真意を探るが、そのまま「失礼します」と彼女は立ち去ってしまう。
唖然として、金井を見ると。
金井はじっと、俺を見ていて。
「告白は嬉しいけど、気が気じゃなかった。一人にしてごめん」
「……はあ?」
告白なんてしてませんけどおお?と思って、先程の言動を振り返って。
好きって、言った、かも。
今付き合ってる人のことが、ちゃんと好き、って、言った……かも……
自覚すると、顔が熱くなる。耳まで心臓になったみたいに、ドクドク脈打って。
「ばか!!」
聞き耳立ててんじゃねえ!
鼻息荒く、ずんずん歩いて、金井を置いて行く。
それでもまだ収まらずに振り返って、「変態!」と威嚇する。
金井は離れた所で、嬉しそうに笑っていて。
悔しくて、置いていくつもりでまた歩いて、立ち止まって。
ちょっと振り返って、金井を睨み付ける。
早く、来い、って気持ちを込めて待っていると、金井も歩いて、追い付いて来る。
だから漸く、全部持ってくれていた資料を、半分預かる。
「…………来てくれてありがとう」
「っふふ、うん」
小さな小さな声のお礼は、ちゃんと金井に届いた。
その日のお昼は、教室に人が少なくて。
晴れだとやっぱり皆外へ行くな、と思っていたら、ざわざわしている上に、ちらちらと視線を感じて。
なんだ……?と思いつつ、金井といつもの踊り場へ行く。
また、俺の叫び声が全体周知されたのだろうか。
されたとしたらどんな内容だ?『希、廊下で彼氏にばかと暴言』?
なんだそれ。
自分で考えておきながら、馬鹿馬鹿しいなと却下する。
寧ろそんな出来事がニュースになるなら、平和な証拠だとすら思う。
もし俺がばかと言ったことで、別れたかもという噂が立っているのなら、それは全力で否定したいところだけれど。
踊り場に着いて、座ろうとして、ふと思い出して、階段を更に上がろうとする。
「希」
「ん?」
けれど、金井に止められてしまった。
中途半端に登りかけた姿勢のまま金井を見ると、金井はちょっと、悪い顔をしている。
「上ならもう、多分人来ないよ」
「え?」
「先生に言って、張り紙してもらったから。『ここは教師が巡回に来ます』って」
はぁあ。
対策済み、ってことか。いつの間に。
それなら、と階段を登るのは止めて、いつもの場所に座ると、金井も隣に座る。
今日は晴れているから端に寄る必要がなくて、俺らの間にはちょっと、空白があって。
くっつく必要も無いけれど、若干、寂しいなと思っていると、その隙間が、全部無くなる。
「っおい」
「希は分かりやすい」
「はあ?」
「夏が大変だ」
「はぁあ?」
妙にご機嫌な金井は、意味の分からないことを言う。
その上俺の反応なんて全然気にせず、一人先にお弁当を開けているから謎に悔しい。
二人の間の空間を見ていたから、分かりやすいってことか?
でもただ見てただけだし、と思う。
それに夏、夏ってなんだよ。
くっつくと暑いからとか、そういうことか?
……確かに。
夏は、ここじゃ暑いかも。
ちょっと嫌だな、と思う。
昼休みに二人で過ごす、この時間が好きだから。
自然に呼吸ができるこの時間が、無くなるのは嫌だな。
「希」
「んっ」
考え事をしていたら、唇に梅干しが押し付けられる。
落とさないようにゆっくり食むと、金井にじっと見られるから、睨む。
「梅干しとキスさせるな」
「ごふっ」
噎せている。
仕方なく背中を摩ってやると、暫くして落ち着いた金井と目が合う。
「意地悪」
「ふん」
ちょっと拗ねている金井は、ちょっと面白い。
俺もお弁当を開けて中身を見せると、「磯辺揚げがいい」と言われるので、更にお弁当を金井に寄せる。
けれど受け取らず、俺の事を見ているので、なるほど、と理解して。
磯辺揚げを箸で持ち上げて、金井の口に入れずに、唇に押し当てる。
「む」
それから口に入れてやると、もぐもぐ食べるので満足した。
磯辺揚げの油が着いた唇を、じっと見たりとかは、していない。多分。
「……早く梅雨明けて欲しい」
弱り切った声で金井がそう言うので、緩く肩をぶつける。
お互い、言わないけれど。
お互い、多分、今。
キスしたいと、思っている。
「こっちのセリフだ、ばーか」
明るく言ってやると、ちょっと苦しい表情を見せた金井は、それでもお弁当の蓋を差し出して、梅干しの種を回収してくれる。
敢えて舌を出して種を落とせば、はぁあと大きな溜め息が聞こえたので、笑った。
大丈夫、待つからさ。
梅雨が開けたらデートをして。
一生記憶に残る、キスをしよう。
俺が食べ終わると、見届けた金井はそのまま横になる。
持って来ていたカバンをぐいぐい押すと、頭を上げてちゃんと枕にされた。
それから金井が手を伸ばして来て、俺の小指を握るので見つめる。
「さっき、何考えてた?」
さっき。
なんのことだ、と思い返して、ああ、梅干しとキスする前の、と思い出して。
「夏、確かにここじゃ暑いよなと思って」
「ああ」
頷いた金井は、暫くそのまま静かになる。
寝たか?と思うけれど、寝息は聞こえてこない。
「ちょっと、アテがある」
「おー?」
「姉ちゃんが言ってた。今はもう使われてない音楽準備室があって、そこにエアコンもあるって」
「へぇ」
使えるのか?と考えていたら手を引かれる。
「行ってみよう」
「……ん」
頷くと、金井が起き上がる。
小指を握られたままだから、引っ張られて。
俺も立つと、そのまま引かれる。
金井は最近、少しずつ、俺に触れてくるようになった。
金井の中の段階を、ゆっくり、着実に、進んでいるのだと思う。
それがむず痒くて、嬉しくて、少しだけ、もどかしい。
この手を引いて、抱き締めて、キス、したら。
どんな顔をするんだろう、と思う。
おでこにも、瞼にも、耳にも、首筋にも、全部全部、唇を落としたなら。
早く反応が見たい、早くキスしたい。
でも金井のプランを叶えてもあげたくて、だから、ずっと、我慢していて。
キスしたいなんて初めて思った。
我慢なんて、初めてしている。
もどかしくて、焦れったくて、だから小指に力を込める。
振り返った金井は、少しだけ困った様に笑った。
音楽準備室は、いつもお昼を食べている所と同じ階にあった。
鍵は掛かっていなくて、でも内側には鍵が付いている。
エアコンも確かに付いていて、狭く少し埃っぽいけれど、かなり良い感じだった。
「いいな、ここ。てかお姉さんいたのか」
「うん、四つ上の姉がいる」
「へえ」
じゃあ俺は会ったこと無いんだな、と思う。
それで良かったな、とも思う。
一年の頃から、先輩にも沢山食われていたから、とは、流石に言えないけれど。
もし俺の存在とか、行動が知れていたら、顔向けができないと思った。
「暑くなったらここに来よう」
音楽準備室を見渡した金井が、そう言う。
だから頷きかけて、少し止まる。
「ん、別に今からでもいいけど」
「…………無理」
「無理ぃ?」
なんで、と金井の顔を見る。
俺より少し背が高いくせに、どこかいつもより小さく見える。
じっと見つめると、逸らされていた視線が絡んで、耳が赤いのが見えて。
「二人っきり、無理」
「……」
いつも二人だろうが、と思うけれど。
個室に二人っきり、は確かに。ちょっと緊張感が上がるのは、分かる。
今でさえ真っ赤な金井の耳が、言わずとも物語っている。
「嫌、って訳じゃないからな、緊張で無理ってことだからな」
「分かってる」
補足してくれた金井に、ちゃんと頷いて見せる。
それから手を伸ばして、出るぞ、と促して。
大人しく手を乗せた金井を引っ張って、音楽準備室から出ると、金井が繋いだ手に力を込めた。
「待たせてごめん」
弱々しい声に、俺は笑う。
いつも金井がやるように、腕を引いて、無理やり視線を合わせる。
「二人の、一生の思い出にするんだろ」
二人の、そうだろ。
言い聞かせるように言うと、ちょっと目を潤ませる金井。
お前が俺を幸せにしたいように、俺だってお前を幸せにしたいんだよ。
だからまだ我慢する。
金井の心が整うまで、必ず。
そうこうしていたら、予鈴が鳴って。
今日は金井がお昼寝できないまま、休み時間が終わってしまった。
「寝らんなかったな」
「うん、でも大丈夫。土日ほとんど寝てた」
「っは」
容易に想像できて、笑う。
だからメッセージとか無かったのか、と思う。
別に寂しかった訳じゃない。
別に、そんなんじゃない。
でも顔を覗き込まれて、睨む。
しばらく考えて、仕方なく言う。
「メッセージ無かったもんなって、思っただけ」
「……」
ぽかん、とした金井を置いて、先に行こうとするのに、繋いだままの手が枷となり進めない。
「おい、離せっ」
「希」
「なに!」
「かわいい……」
「はぁ!?」
心の底から、滲み出るように言われてぎょっとする。
ただの感想だろうが!と思ったけれど、金井にとっては違ったらしい。
「言ってくれてありがとう」
「……」
嬉しそうに手をにぎにぎされて、肩の力が抜ける。
「来週はメッセージ送る」
「……」
嬉しそうに言われるから、むず痒い。
うん、とも、ううん、とも言い辛くて腕を引くと、今度は素直に付いて来た。
教室に戻ると、クラスメイト中の視線が一気に来て。
「え」
驚いていると、拍手をされて余計に困惑する。
「希くん、金井くん、ファンクラブ設立おめでとう!」
「はあ……?」
訳が分からず、金井を見ると、金井もきょとんとしているので、こちらも分かっていない様子。
話しかけてきたクラスメイトを見ると、にっこり笑われて、嫌な予感がした。
「停学処分受けてた子、今日二人を応援するファンクラブを設立したんだって」
「は…………はぁ!?」
停学処分、って、さっきの……。
確かに見守って欲しいとは言った、けれど。
そこまで大々的にやれとは言っていない……!!
頭が痛み始めて、こめかみに手をやる。
縋るように見た金井は、楽しそうに、笑っていて。
思わずフラつけば、ちゃんと金井に支えられる。
その様子が第一回のファンクラブ通信として広められたと聞き、気絶するかと思った。
クラスメイトに、既に内通者がいる。ファンクラブ参加者が、確実に居る。
それでも、金井はやっぱり楽しそうに笑っていた。
金井が良いなら、まあ、良いか。
金井から、『今日はバイクで行く。何かあったら火事だって叫んで、絶対連絡して』とメッセージが来ていて、どんだけ過保護だ、って朝から笑った。
俺からは、『金井も気を付けて』と返して、一人、バスで学校へ向かう。
一人は、やっぱり窮屈だった。
隣と触れないように腕を抱いて、居ないと分かっているのに金井の姿を探してしまう。
だから目を閉じて、寝たフリをする。
俺もイヤホンを持ち歩こうかなと、ふと思って。
けれど、俺が聴きたいのは、金井が聴かせてくれる、あの雨音で。
結局全て、金井が居ないとだめで、早く会いたい気持ちだけが増えていた。
教室に入ると、金井もちょうど来たばかりみたいで、ヘルメットの入ったカバンを下げているから、嬉しくなる。
でも、声を掛けようとすると、先にクラスメイトに捕まってしまった。
振り返った金井と一瞬、目が合う、けれど。
結局話せないまま、押し流されるように、自席へと辿り着いてしまった。
金井は気にする様子なく、ロッカーにカバンを入れに行って。
早く話したくて、早く二人になりたくて。
早く昼休みになれ、と、願わずにはいられなかった。
休み時間に、日直だからと先生に呼ばれる。聞けば、資料運びをして欲しいとのこと。
手伝おうか?とクラスメイトは言ってくれたけれど、金井もこちらを見ていたけれど、大丈夫と言って断った。
資料運びくらい、一人で大丈夫。
職員室に行って、別室の資料をクラスメイト全員分渡されて。
げ、思ってたより多いな、と思ったけれど、先生に「いけるか?」って言われたら、頷くしかなかった。
これは、自分を偽るとかではなく、ただの負けず嫌い。
ふんっ、と持ち上げて、足で扉を開けて。
せめて箱が欲しいな、と思いながら教室へ戻る。
「先輩」
……ん?
声がして、そのまま行こうとして、今この廊下には俺しか居ないことを思い出して。
俺か、と振り返ると、いつぞやの、告白をしてきた、後輩。
俺の元彼をボコボコにしたという、後輩。
「あれ……」
「停学、解けたので会いに来ました」
「え、」
まずいか、これ。
嫉妬で年上の、男性をボコボコにできる子だ。
俺も年上だし、男だけれど、要は同条件で。ボコボコにできる対象、という訳で。
襲いかかってきたら、この資料を投げ付けて、走って、えっと、どこに行けば良いんだ、教室、は遠いし、職員室、は彼女の背後にある。
追い越して行けるのか。
刃物を持っていたらどうする?
俺は、どうすれば。
恐怖で少し下がると、同じ分だけ詰めてくる彼女。
おいおいおいおいと思っていると、目が、合う。
「先輩、別れたって本当ですか?」
「えっ、あ、うん、でも」
「また、別の人と、付き合ったって、本当ですか?」
「……そ」
う、だけれど。
金井。
金井は、だめだ。
元彼みたいに、俺の知らないところで、金井がこの子にボコボコにされる様子を想像して、ゾッとする。
血が、出ていたと噂されているのを聞いた。
血なんて、絶対にだめだ。
金井に傷付いて欲しくない。
金井を傷付けたくない。
そんなのだめだ、絶対にだめだ。
「……本当なんですね」
「いや……あの」
何も言えない俺の反応を見て、察した彼女は息を吐く。
この子は、俺に付き合って欲しいと言っていた。二番目でも良いから、付き合いたいと。
なら俺は、付き合えば良いんだろうか。
そうしたら、この子は満足して、納得して、金井には手を出さないでいてくれるんだろうか。
でも、でも、でも。
金井を裏切るような真似は、したくない。
金井を悲しませるような真似は、したくない。
真っ直ぐな、金井のことだ。
例え金井を守る為でも、二人目の恋人なんて、形だけの恋人なんて、絶対に認めないだろう。
許さないだろう。
許せないだろう。
俺だって、そうだ。
「先輩」
「あの!お、俺、付き合ってる。確かにまた別の人と、だけど。でも俺、今、その人のこと、ちゃんと好きなんだ。俺の、初恋なんだ。大事なんだ、本当に。大事にしたいし、大事にしてくれてるんだ。だから、あの、お願い、見守って、欲しい」
資料を抱えたまま、頭を下げる。
バラバラと何枚か散っていったけれど、構っている余裕はない。
お願い、金井に手を出さないで。
頼むから、二人で居させて欲しい。
まとまりのない、ぐちゃぐちゃな言葉だったけれど、どうか伝わって欲しいと思う。
何度だって言うから、お願いだから、どうか。
「……初恋」
小さな、声が聞こえて。
「希」
「っ」
金井の、声が聞こえる。
振り向くと、そこに本当に金井が居て。
「金井、」
不意に、泣きそうになる。
安心と、不安と、ここに来ちゃだめだ、という恐怖。
今ここに来ちゃだめだ。
金井が今の恋人だって、バレちゃだめだ。
金井が襲われたら俺は。
きっと、狂ってしまう。
彼女のことを、許せなくなってしまう。
停学で済む以上の何かを、してしまうとさえ思っている。
金井は黙ったまま俺の所まで来て、散らばった資料を拾う。
そんなことしてる場合じゃ、と思うのに、金井はその資料を俺が持つ資料に重ねて、そのまま、全部取ってしまう。
「お、い」
「ごめん、ちょっと聞こえた。希と付き合ってます。二年B組の金井です。彼は俺が幸せにします」
「は……」
何、言ってんだコイツ。
名乗って、しかも宣言、しやがった。
バレちゃだめだろ、バラしちゃだめだろ。
煽っちゃだめだろ、何してんだよ。
信じられない気持ちで見るのに、金井は真っ直ぐ、彼女のことを見ている。
恐る恐る彼女を見ると、彼女は、表情が読めない。
ただ、少し頬が赤くて。
な、
なんで赤いんだ……?
戸惑っていると、彼女が頷く。
「分かりました」
「えっ」
分かった、って、何が。
どう分かったんだ、ちゃんと伝わった、のか?
真意を探るが、そのまま「失礼します」と彼女は立ち去ってしまう。
唖然として、金井を見ると。
金井はじっと、俺を見ていて。
「告白は嬉しいけど、気が気じゃなかった。一人にしてごめん」
「……はあ?」
告白なんてしてませんけどおお?と思って、先程の言動を振り返って。
好きって、言った、かも。
今付き合ってる人のことが、ちゃんと好き、って、言った……かも……
自覚すると、顔が熱くなる。耳まで心臓になったみたいに、ドクドク脈打って。
「ばか!!」
聞き耳立ててんじゃねえ!
鼻息荒く、ずんずん歩いて、金井を置いて行く。
それでもまだ収まらずに振り返って、「変態!」と威嚇する。
金井は離れた所で、嬉しそうに笑っていて。
悔しくて、置いていくつもりでまた歩いて、立ち止まって。
ちょっと振り返って、金井を睨み付ける。
早く、来い、って気持ちを込めて待っていると、金井も歩いて、追い付いて来る。
だから漸く、全部持ってくれていた資料を、半分預かる。
「…………来てくれてありがとう」
「っふふ、うん」
小さな小さな声のお礼は、ちゃんと金井に届いた。
その日のお昼は、教室に人が少なくて。
晴れだとやっぱり皆外へ行くな、と思っていたら、ざわざわしている上に、ちらちらと視線を感じて。
なんだ……?と思いつつ、金井といつもの踊り場へ行く。
また、俺の叫び声が全体周知されたのだろうか。
されたとしたらどんな内容だ?『希、廊下で彼氏にばかと暴言』?
なんだそれ。
自分で考えておきながら、馬鹿馬鹿しいなと却下する。
寧ろそんな出来事がニュースになるなら、平和な証拠だとすら思う。
もし俺がばかと言ったことで、別れたかもという噂が立っているのなら、それは全力で否定したいところだけれど。
踊り場に着いて、座ろうとして、ふと思い出して、階段を更に上がろうとする。
「希」
「ん?」
けれど、金井に止められてしまった。
中途半端に登りかけた姿勢のまま金井を見ると、金井はちょっと、悪い顔をしている。
「上ならもう、多分人来ないよ」
「え?」
「先生に言って、張り紙してもらったから。『ここは教師が巡回に来ます』って」
はぁあ。
対策済み、ってことか。いつの間に。
それなら、と階段を登るのは止めて、いつもの場所に座ると、金井も隣に座る。
今日は晴れているから端に寄る必要がなくて、俺らの間にはちょっと、空白があって。
くっつく必要も無いけれど、若干、寂しいなと思っていると、その隙間が、全部無くなる。
「っおい」
「希は分かりやすい」
「はあ?」
「夏が大変だ」
「はぁあ?」
妙にご機嫌な金井は、意味の分からないことを言う。
その上俺の反応なんて全然気にせず、一人先にお弁当を開けているから謎に悔しい。
二人の間の空間を見ていたから、分かりやすいってことか?
でもただ見てただけだし、と思う。
それに夏、夏ってなんだよ。
くっつくと暑いからとか、そういうことか?
……確かに。
夏は、ここじゃ暑いかも。
ちょっと嫌だな、と思う。
昼休みに二人で過ごす、この時間が好きだから。
自然に呼吸ができるこの時間が、無くなるのは嫌だな。
「希」
「んっ」
考え事をしていたら、唇に梅干しが押し付けられる。
落とさないようにゆっくり食むと、金井にじっと見られるから、睨む。
「梅干しとキスさせるな」
「ごふっ」
噎せている。
仕方なく背中を摩ってやると、暫くして落ち着いた金井と目が合う。
「意地悪」
「ふん」
ちょっと拗ねている金井は、ちょっと面白い。
俺もお弁当を開けて中身を見せると、「磯辺揚げがいい」と言われるので、更にお弁当を金井に寄せる。
けれど受け取らず、俺の事を見ているので、なるほど、と理解して。
磯辺揚げを箸で持ち上げて、金井の口に入れずに、唇に押し当てる。
「む」
それから口に入れてやると、もぐもぐ食べるので満足した。
磯辺揚げの油が着いた唇を、じっと見たりとかは、していない。多分。
「……早く梅雨明けて欲しい」
弱り切った声で金井がそう言うので、緩く肩をぶつける。
お互い、言わないけれど。
お互い、多分、今。
キスしたいと、思っている。
「こっちのセリフだ、ばーか」
明るく言ってやると、ちょっと苦しい表情を見せた金井は、それでもお弁当の蓋を差し出して、梅干しの種を回収してくれる。
敢えて舌を出して種を落とせば、はぁあと大きな溜め息が聞こえたので、笑った。
大丈夫、待つからさ。
梅雨が開けたらデートをして。
一生記憶に残る、キスをしよう。
俺が食べ終わると、見届けた金井はそのまま横になる。
持って来ていたカバンをぐいぐい押すと、頭を上げてちゃんと枕にされた。
それから金井が手を伸ばして来て、俺の小指を握るので見つめる。
「さっき、何考えてた?」
さっき。
なんのことだ、と思い返して、ああ、梅干しとキスする前の、と思い出して。
「夏、確かにここじゃ暑いよなと思って」
「ああ」
頷いた金井は、暫くそのまま静かになる。
寝たか?と思うけれど、寝息は聞こえてこない。
「ちょっと、アテがある」
「おー?」
「姉ちゃんが言ってた。今はもう使われてない音楽準備室があって、そこにエアコンもあるって」
「へぇ」
使えるのか?と考えていたら手を引かれる。
「行ってみよう」
「……ん」
頷くと、金井が起き上がる。
小指を握られたままだから、引っ張られて。
俺も立つと、そのまま引かれる。
金井は最近、少しずつ、俺に触れてくるようになった。
金井の中の段階を、ゆっくり、着実に、進んでいるのだと思う。
それがむず痒くて、嬉しくて、少しだけ、もどかしい。
この手を引いて、抱き締めて、キス、したら。
どんな顔をするんだろう、と思う。
おでこにも、瞼にも、耳にも、首筋にも、全部全部、唇を落としたなら。
早く反応が見たい、早くキスしたい。
でも金井のプランを叶えてもあげたくて、だから、ずっと、我慢していて。
キスしたいなんて初めて思った。
我慢なんて、初めてしている。
もどかしくて、焦れったくて、だから小指に力を込める。
振り返った金井は、少しだけ困った様に笑った。
音楽準備室は、いつもお昼を食べている所と同じ階にあった。
鍵は掛かっていなくて、でも内側には鍵が付いている。
エアコンも確かに付いていて、狭く少し埃っぽいけれど、かなり良い感じだった。
「いいな、ここ。てかお姉さんいたのか」
「うん、四つ上の姉がいる」
「へえ」
じゃあ俺は会ったこと無いんだな、と思う。
それで良かったな、とも思う。
一年の頃から、先輩にも沢山食われていたから、とは、流石に言えないけれど。
もし俺の存在とか、行動が知れていたら、顔向けができないと思った。
「暑くなったらここに来よう」
音楽準備室を見渡した金井が、そう言う。
だから頷きかけて、少し止まる。
「ん、別に今からでもいいけど」
「…………無理」
「無理ぃ?」
なんで、と金井の顔を見る。
俺より少し背が高いくせに、どこかいつもより小さく見える。
じっと見つめると、逸らされていた視線が絡んで、耳が赤いのが見えて。
「二人っきり、無理」
「……」
いつも二人だろうが、と思うけれど。
個室に二人っきり、は確かに。ちょっと緊張感が上がるのは、分かる。
今でさえ真っ赤な金井の耳が、言わずとも物語っている。
「嫌、って訳じゃないからな、緊張で無理ってことだからな」
「分かってる」
補足してくれた金井に、ちゃんと頷いて見せる。
それから手を伸ばして、出るぞ、と促して。
大人しく手を乗せた金井を引っ張って、音楽準備室から出ると、金井が繋いだ手に力を込めた。
「待たせてごめん」
弱々しい声に、俺は笑う。
いつも金井がやるように、腕を引いて、無理やり視線を合わせる。
「二人の、一生の思い出にするんだろ」
二人の、そうだろ。
言い聞かせるように言うと、ちょっと目を潤ませる金井。
お前が俺を幸せにしたいように、俺だってお前を幸せにしたいんだよ。
だからまだ我慢する。
金井の心が整うまで、必ず。
そうこうしていたら、予鈴が鳴って。
今日は金井がお昼寝できないまま、休み時間が終わってしまった。
「寝らんなかったな」
「うん、でも大丈夫。土日ほとんど寝てた」
「っは」
容易に想像できて、笑う。
だからメッセージとか無かったのか、と思う。
別に寂しかった訳じゃない。
別に、そんなんじゃない。
でも顔を覗き込まれて、睨む。
しばらく考えて、仕方なく言う。
「メッセージ無かったもんなって、思っただけ」
「……」
ぽかん、とした金井を置いて、先に行こうとするのに、繋いだままの手が枷となり進めない。
「おい、離せっ」
「希」
「なに!」
「かわいい……」
「はぁ!?」
心の底から、滲み出るように言われてぎょっとする。
ただの感想だろうが!と思ったけれど、金井にとっては違ったらしい。
「言ってくれてありがとう」
「……」
嬉しそうに手をにぎにぎされて、肩の力が抜ける。
「来週はメッセージ送る」
「……」
嬉しそうに言われるから、むず痒い。
うん、とも、ううん、とも言い辛くて腕を引くと、今度は素直に付いて来た。
教室に戻ると、クラスメイト中の視線が一気に来て。
「え」
驚いていると、拍手をされて余計に困惑する。
「希くん、金井くん、ファンクラブ設立おめでとう!」
「はあ……?」
訳が分からず、金井を見ると、金井もきょとんとしているので、こちらも分かっていない様子。
話しかけてきたクラスメイトを見ると、にっこり笑われて、嫌な予感がした。
「停学処分受けてた子、今日二人を応援するファンクラブを設立したんだって」
「は…………はぁ!?」
停学処分、って、さっきの……。
確かに見守って欲しいとは言った、けれど。
そこまで大々的にやれとは言っていない……!!
頭が痛み始めて、こめかみに手をやる。
縋るように見た金井は、楽しそうに、笑っていて。
思わずフラつけば、ちゃんと金井に支えられる。
その様子が第一回のファンクラブ通信として広められたと聞き、気絶するかと思った。
クラスメイトに、既に内通者がいる。ファンクラブ参加者が、確実に居る。
それでも、金井はやっぱり楽しそうに笑っていた。
金井が良いなら、まあ、良いか。
