翌朝、俺が起きる一時間前には『おはよう』と来ていて、まじで早ぇ、と思う。
『おはよう』って俺も送ると、筋肉ムキムキの人が物凄く笑顔で太陽を抱えているスタンプが来て吹いた。
使い所が限定的過ぎるし、その使い所がまさに今過ぎて普通にやられたから、犬のスタンプで威嚇しておく。
そこから金井の返事は無かったので、もう家を出たのかもしれなかった。
朝からこんな変なやり取りをしたのに、ご機嫌になるのだから俺は本当にどうかしている。
顔を洗うついでにいつもの笑顔を作ってみたけれど、若干表情が固くて、もう戻れはしないのだなと思った。
俺はもう、自分を偽る『僕』にはなれない。
駅に着くと、金井はもう来ていて。
ぼーっと雨空を見ているから、ちょっと悪戯したくなった。
スマホで『左見て』とメッセージを送って、金井がスマホを見て、左を向くのを確認する。
それから右側に走り寄り、「わっ!」と言ったのに、無反応で。
はぁああ〜〜?
って顔をしていると、左側で俺を見つけれなかった金井が前を向いて、右に居る俺の姿に気付いて、驚いた顔をする。
思ってたのと、違ぇ。
「おはよう、びっくりした」
金井はそう、イヤホンを外しながら言うから。
「か〜〜〜」
と落胆の意を示す。
イヤホンと、雨音で俺渾身の「わっ!」は聞こえていなかったらしい。
それどころか、左に何かあった?とまで言うので睨む。
「驚かせようとしただけ〜〜〜」
むす〜として言うと、そっか、って嬉しそうにされるから。
は〜〜〜コイツは本当にもう。
俺の機嫌を直す天才過ぎるんだよな、と視線を外して思った。
学校に着くと、またニマニマされるのでイライラが募る。
それだけじゃなく、「応援してるよ〜」って声掛けまであって、本当に意味が分からない。
お付き合いってもっとこう、ひっそり本人達で楽しむものじゃないのか。
なんでこうも公開処刑状態なんだよ。
でも、
分かっている。
初恋だと叫んだ俺が悪いということは。
だとしても、そうだとしても、そっと見守っていてくれてもいいだろ!とは思う。
きっ、と周りを睨むけれど、全然効いている様子がない。
『僕』が崩れていく、どんどん崩れていく。
それなのに案外、俺に対する、周りの人の態度の変化は起こらなかった。
人は、離れて行かなかった。
昼になると、また金井が来る。
クラスメイトには「行ってらっしゃい」ってニマニマ見送られて、げんなりする。
でも行かないという選択肢は無い。
昼休みは貴重な俺と金井の時間だった。
今日も雨で廊下が濡れているから、金井は迂回のルートで行こうとして。
その腕を引いて止まらせて、俺は更に階段を上る。
昨日居た奴らが、今日も居る可能性があったからだ。
察した金井は大人しく付いてくる。
廊下を歩いて、そっと階段の踊り場を覗くと、そこに人は居なかった。
「はぁ」
「良かった」
「うん、てか、ここで食べるか?俺達で居座りゃ流石にできないだろ」
昨日の現場を指して言うと、金井は首を振る。
「そこに希を座らせたくない」
「……」
俺らが、いつもお弁当を食べている階でも、過去に何があったかは分からないぞ、と思ったけれど。
言いたいことは分かったので、頷く。
それからまた大回りして、いつもの場所に着いて。
今日もまた端の方に追いやられるから、ちょっと気まずい。
昨日はそこまでじゃなかったのに。
傍に感じる体温で、そわそわする。
こんなにも近い距離に居ることに、そわそわする。
抱き付きたくて仕方ないけれど、今すぐ極限まで離れて、腕を突き立てたいみたいな。
嬉しいと緊張と期待と、そういうものが全部混ざって苦しい。
金井はいつも通りお弁当を開けて、梅干しを寄越そうとして。
俺がまだお弁当を開けていないことに気付いて、そのまま、箸先を俺の口に、持ってくる。
どうしよう、金井はちょっと唾液とか苦手な感じじゃ無かったっけ、と思って、齧り付けずに、口を開ける。
そしたらひょい、と梅干しを入れられて、無事に受け取ることができた。
噛むと酸っぱくて、今日も美味しい。
「梅干し、好きなのになんでくれるの」
いつも思っていて聞けなかったことを聞いてみると、きょとんとして、「好きだから」って言われて、まただ、と思う。
「それどっちに対して言ってんの」
「両方。好きだから、好きな人にあげたい」
「……」
じゃあ。
『僕』の時も、ちゃんと、好きだったのか。
泣きそうに笑うから心配で、危なっかしいから傍に居て、それでいて、少しは、好きでいてくれたのか。
どこか報われるような気持ちで、金井を見る。
『僕』は偽りの多い俺だったけれど、全てが偽りという訳でも無かったから。
俺の一部でもあったから、ほっとする。
それから今日もお弁当の蓋を差し出されて、ちょっと迷って、口元を隠しながら種を落とすと、「それはそれでえろい」って言われて、蹴飛ばそうかと思った。
お弁当を開けて見せると、今日はつくねが選ばれる。
割となんでも食うな、と思って、それから、最初は遠慮してたのか?と思うと、ちょっと心臓がきゅっとした。
遠慮がなくなってきているのだとしたら嬉しいなと思って、胸元を擦った。
お弁当を食べ終わって、今日はどうするんだろうと思っていたら、金井に見つめられる。
「なに」
「寒くない?」
「寒くない」
「俺はちょっと寒い」
む、と思う。
なら教室戻るかよ、って言おうとしたら、腕を、広げられて。
「は」
「暖まる?」
って言うから、睨む。
「寒がってるのはお前だろ、俺は別に」
「確かに」
ふふ、って金井が小さく笑うから、そのご機嫌っぷりにむずむずする。
「じゃあ暖めて」
「っ」
コイツ、コイツ本当に、コイツ、クソ。
やけくそで飛び付くと、ちゃんと、しっかり受け止められる。
ひんやりとしていた金井のブレザーが、自分の手と、腕と、胴で温められていく。
バイクの時は後ろからだから、前から抱き付くのは初めてで、異様に恥ずかしかった。
絶対に顔が赤いし、絶対に誰にもこんなところ見られたくない、見せたくない。
金井はぎゅっと、もっと体を密着させて、息を吐く。
「暖かい」
「……ん」
バクバクと鳴る心臓がうるさかった。
くっ付けて嬉しいと思っている自分が恥ずかしかった。
金井の香りが、すぐ近くからしてクラクラした。
ただのハグが、こんなにも気持ちいいと知らなかった。
心が満たされていくのが分かる。
もっとずっと、一緒に居たいと思った。
暫くぎゅうぎゅう抱き締めていたら、段々と金井の腕の力が弱まって。
何サボってんだよと思ったら、すうすう寝息まで聞こえてきて焦る。
お、おい、ここ階段だぞ、傾いたら転がるぞ!?
慌ててしっかり引き寄せて、壁に背を付くと全力で寄りかかって来る金井。
脱力している人間はこんなにも重いのか、と思う。
おまけに首筋にかかり続ける吐息のせいで、心身共に乱されてこっちも気絶するかと思った。
でもちゃんと抱き留めていた。
金井が、全てを預けてくる様子が嬉しかったから。
俺と登校する為に、早起きしてくれた金井を、寝かせてやろうと思ったから。
予鈴が鳴って、金井はまたすっと起きる。
それから、俺に抱き付いたまま、俺に抱き付かれたままだったことに気付いて、また寄って来るから笑う。
「おい離れろ」
「もうちょっと」
「予鈴鳴った」
「うん」
寝起きで、少し緩い金井の声。
寝ても覚めても嬉しいこの存在は本当になんなんだ。
ちょっと抱き合って、金井が離れて、目が合って。
間があって、キス、って思ったから、俺は目を伏せる。
でも、唇は降ってこない。触れない。
俺からしても良かったけれど、金井からして欲しいと思ったから、じっとしていた。
でも結局キスはせず、離れて行く。
ちく、と心臓が痛んだのは気のせいだと思いたい。
キスを期待したのは俺だけだって、気付いて傷付くのは怖いと思った。
帰る時間になると、金井がやってくる。
また来週、ってクラスメイトと別れて、バス停へ向かう。
クラスメイトは、ニマニマし続けているけれど、下衆な質問を向けて来たりはしなかった。
それは俺が言われるがまま付き合って、別れて、を繰り返している時からそうで。
デリカシーがあるんだか無いんだか分からないが、まあ助かってはいた。
そしてそう考えた時に、ふと思う。
俺って汚い、のかなって。
いろんな人と付き合ってきて、そういう触れ合いも沢山、してきて。
金井が初恋で、金井も初恋で。
けれどそれは、心が、って意味で。
俺は、体は、いろんな人と触れ合ってきたせいで、初めて、じゃないから。
だから金井はキスしなかったのかな、と考える。
その時その時でたった一人と、お付き合いはしてきたけれど。
清いかと言われると、頷けはしないから。
だからキスしてくれなかったのかな。
俺とのキスはきついのかな。
キリ、と心臓が痛んで、胸元を摩る。
今日初めてちゃんとハグをして、心が満たされていたはずなのに。
最後に、触れなかった唇のことばかりを考えている。
そういう触れ合いが全てでは無いと、分かってはいて。
大事にされていることも凄く凄く、分かっていて。
けれどどうしても消えなかった。
不安がずっと、拭えなかった。
そんな日に限って、俺と金井の間で、ちょうどバスが満員になってしまって。
金井は後続のバスに乗ることになり、俺だけ先に出発してしまった。
扉が閉まる時、情けない顔を晒した気がする。
寂しいと思った感情を、上手く隠せなかった気がする。
スマホを開くと『駅で待ってて』と届いていて。
それから念押しするように、小指を立てた筋肉ムキムキ男のスタンプが来る。
『早く来い』って送ると、『気持ちはもう着いてる』って来て、バカだ、と思った。
こんなやり取りで少し満たされる俺も、そんな俺に付き合ってくれる金井も。
バスは金井が居ないまま進む。
金井の居ない空間は、少し息苦しかった。
駅に着いて暫くすると、後続のバスもやって来る。
降り口から少し離れた所で立っていたのに、金井は迷うことなく真っ直ぐ俺の所に来たから少し驚いた。
「なんで分かった?」
「バスの中から見えた」
「……」
抜かりの無い奴め。
「お待たせ、冷えたろ。早く帰ろう」
そう促されるから、また先を歩く。
どこからどう見ても大事にされている。
どこからどう見ても大切にされている。
だから不安になる必要なんて無いはずなのに、キス一つが無かっただけでこんなにも不安になっている。キス一つで悩んでいる。
バカバカしい、と思うけれど、止められない。
これが恋なら苦しいな、と思う。
でももっと苦しい恋を、『僕』はさせてきたんだろうなと思う。
だから振られていたんだろう。
だから続かなかったんだろう。
今になって申し訳なく思う。
気持ちが無いなら、付き合うべきではなかったのだと気付く。
それに。
金井は俺を好きだと言うが、俺の好きとは同じなのだろうか。
同じ好きであればいいと思うけれど、違うのなら、俺はどうしたらいいんだろう。
キス一つで別れるのだろうか。
こんなにも大切にされているのに。
キスしたいと言えば良いのに、そんな自分は浅ましいと感じて到底言えない。
言えば、優しい金井はしてくれるのかもしれない。
けれど、それは俺が欲しいキスではない。
俺が求めて、やっと貰えるキスは、俺の欲しいキスではない。
金井にもキスしたいと思ってもらいたい。思って欲しい。
でも俺の汚れがそう思わせられないのだとしたら。
男はやはり無理だと思うなら。
俺はどうしたらいいんだろう。
今の関係を保つことも、続かせることも、止めることも、全部難しい。
道が広くなって、金井が横に並ぶ。
二人共黙って歩く。雨で、傘の距離もあって、二人共、黙ったまま。
たまにちらと視線を感じるけれど、気付いていないフリをした。
なんということはない。なんて言えばいいのか分からないだけだ。
何を話せばいいのか分からないだけ。
家に着くと、金井が手を出す。
意味が分からず見ていると、「手」と言われて。
とりあえず握手、の形にしてみる。
するとちゃんと握られる。
「じゃあまた来週」
「……うん、また」
なんだったんだ、と思いながら、家に入ろうと手を引いて。でも手が離されないから、金井の顔を見る。金井は、真っ直ぐ俺を見ていた。
「今何考えてる?」
「え?」
「またあの笑い方してた」
「……」
あの笑い方、は、泣きそうに笑う、って金井が表現した、あの笑い方なのだろう。
していたつもりは、無かった、のに。
「希」
「……なにも。金曜だし、疲れただけだと思う」
「希」
諭すように、名前を呼ばれる。
後ろめたくて、視線を逸らす。
考えていることはある。
けれど、どうしても、言いたくない。
キスされなくて、不安だなんて。
絶対、何があっても。
「……言いたくない」
絞り出した言葉は、それだけ。
二人の間の手は、傘の範囲外で濡れる。
風邪引くぞ、と思って手を引くのに、離してはくれない。
その手を、見ながら思う。
だってまだ、付き合って数日だもんな。
形だけじゃなく、お互いちゃんと好きって分かったのだって、昨日からだ。
キスなんて、それぞれのタイミングがあるよな。
まだ早い、ってだけだよな。
何を焦ってるんだろうな、俺は。
俺は、俺は。
俺は、このまま、キスが無いままだったら、俺の心は耐えられるのかなって、それが。
ずっとキスもそれ以上も無かったら。
俺って居る意味あるのかな。
付き合う意味って、あるのか?
それはただの友達じゃないのか。
金井は俺で勃つって言ったけど。
じゃあ、なんで、キスしなかったんだよ。
俺は汚れてるのかな、やっぱ。
「希、お願い。俺のせいでそんな顔させたくない」
少し、手を引かれて、顔を上げる。
そんな顔ってどんな顔だよ。
また、泣きそうな顔でもしてるのかよ。
「金井、俺って汚れてる?」
「え?」
「俺、汚れてるから、キス、してもらえないのか」
情けない。
結局言った、困らせた。
俺全然かっこよくない。
何聞いてるんだよって自分でも思う。
でも何考えてるって聞かれたから。
違う、金井のせいにしたいわけじゃないのに。
全部俺のせいなのに。
「なんでもない、もう離して」
ぐ、と体ごと引くけれど、離れない。そういやコイツ力強いんだった、と思って、傘を首で挟んで、反対の手も添える。
「本当になんでもない。ただの冗談。大丈夫だから離して」
手先が冷えていく、雨で濡れていく。
「金井、お願い」
なんで俺は、泣きそうなんだろう。
「希が汚れてるってどういうこと?」
「(あ)」
……怒らせた。
金井の手を剥がそうとしていた、俺の手の力が抜ける。
元彼が絡んできた時よりもずっと、ずっと温度の無い声がした。
金井が怒っている。静かに、怒っている。
「じょうだん、」
「希」
表情も、温度が無くて。
ごめん、金井、嫌いにならないで。
じわ、と滲む涙が悔しい。
俺、金井のことが好きなんだ、本当に。
尊敬もしていて、二人で居る時間が癒しで。
これからも二人で居たくて、ずっと二人で居たくて。
だから好きでいて欲しいのに、どうしたらいいか分からない。
ずっとありのままを受け入れて欲しかったのに、ありのままが分からない。
誰かの望む、理想の『希』になることは得意なのに。
なぁ俺どうしたらいいんだろう。
金井にずっと好きでいてもらうには、どうしたらいいんだろう。
「……昼、キスするかと思ったけど、しなかった。俺が初めてじゃないから、汚れてるから、なのかなと思って、ごめん、ごめん金井」
涙が零れて、雨に消える。
なあもう止めよう、こんな面倒臭い奴嫌だろ、俺もこんな面倒臭い自分が嫌だ。
もうぐちゃぐちゃなんだよ、分からないんだ、全部俺が悪いのに、ごめん、本当に。
「ごめん」
「っ」
金井の一言で、壊れたみたいに涙が出る。
終わ、った。
言うんじゃなかった。
我慢すれば良かった。
それならまだ、今日までの距離感では、居られたのに。
「違う、希、聞け。キスしなかったんじゃない、できなかったんだよ」
ぐ、と腕を引かれる。
目を覗き込まれる。強制的に、視線が絡む。
「俺もキスしたかった」
「っえ、」
「でも言ったろ、初恋だぞ、初めてなんだよ。緊張して無理だった。でも不安にさせた、ごめん」
「は……」
「希が汚れてるとか、そんな風に考えたことなんてない、寧ろ俺が汚してる、て何言わせてんだ、違う」
金井が、テンパってる。
あの真っ直ぐな金井が、耳を赤くして、必死に何か、言っている。
「俺を汚したの」
「……だから言ったろ、希で勃つって」
なるほど、例えじゃなくて実績が、と思って、泣きながら笑う。
何不安になってたんだろう、俺。
言ったらうざいかと思ったけれど、全然、そうじゃなかった。
途端に全部、馬鹿らしくなる。
良い意味で、どうでも良くなる。
心の中で溜まっていた、黒くて重くて嫌な感情を、全部窓から吐き出したみたいな。
不安が全部無くなって、だから、自分の意思で、ちゃんと金井の目を見る。
「分かった、待つ」
「え?」
「金井の心の準備が整うまで、待つ。俺、キスしたいって思ってくれてること、知ってたら待てる。大丈夫」
知らなかったから、不安だっただけだ。
理由が分からなくて、不安だっただけだ。
だから大丈夫、って頷く。
俺の顔をじっと見た金井は、そこに悲しさが無いことが分かったのか、少し身を引く。
それから少しの、空白。
「デートしよう」
「は!?」
「笑うなよ。俺、希とのファーストキス大事にしたい」
「……はぁ!?」
笑わない、が、何言ってるんだ、とは思う。
けれど至って真剣な顔をしているから、本気なのだろう、とは思う。
俺のとファーストキス、って、え?
「ファーストキスだけじゃない。全部、大事にしたい。敢えて言うぞ、キス以上も、俺は大事にしたい」
「……へ」
「一生覚えていたいんだ、俺。希との思い出、全部。だから流れでとかじゃなくて、ちゃんとやりたい」
理解が追い付かない、けれど、何か凄いことを言われているのは分かる。
いつも冷静な金井が、必死に、伝えようとしてくれている。
でも、
でも。
「お、前、もし別れたらどうするんだよ……」
そんな、一生とか言って。
お前は真っ直ぐな奴だから、本当に一生、覚えてるんじゃないのか。
じゃあ、もし別れて。
もし新しい恋人ができた時、お前、どうするんだよ。
本当に一生、抱えていくのかよ。
「付き合うって、そういうことだろ」
「っ」
言葉が、刺さる。
己の甘さに、金井の言葉が突き刺さる。
芯のある、強い言葉に、涙が止まらない。
付き合う、って。
そうか。
お前の付き合うは、そうなのか。
俺は。
恋人として付き合うって、友達ではできない、それ以上の触れ合いへの許可証、みたいなものだと思っていて。
でも、お前は。
人生を懸けて、一生をもって、思い出諸共、今後ずっと、『付き合って』いくものだ、って。
そういう、ことなんだな。
俺より何倍も、何十倍も覚悟の決まっている金井の言葉に、震える。
俺と金井、どっちが正しいとか、間違っているとかではなく。俺に足りないものを、金井が持っていて、俺に無いものを、軸としている金井が。
眩しくて、眩くて、仕方なかった。
「梅雨が明けたら、デートしませんか」
いつになく真剣な表情をした金井が見える。
けれど、その耳は、依然真っ赤で。
嬉しくて仕方なかった。
本気で、全力で、向き合ってくれていることが。
愛しくて仕方なかった。
大きな葛藤と羞恥の中、ちゃんと真っ直ぐ、言葉にしてくれたことが。
「…………デート、する」
振り続けていた雨は、いつの間にか弱くなっていて。
遠くに雲の切れ間ができて、少しの間、陽の光に照らされる。
俺の返事に、嬉しそうに笑う、金井の姿が、照らされる。
俺はまず、今のこの光景を、忘れはしないだろうと思った。
「希、俺のせいで悲しまないで、お願い。必ず受け止めるから、全部教えて」
真っ直ぐ、そう目を見て言われる。
でも。
俺は、正直。
言うことの方が、怖いと思ってしまう。
秘めておけば、安全だったから。
肯定もされないけれど、否定もされなかったから。傷付く可能性を、減らせたから。
でも、でも。
「…………頑張る。俺、自分の気持ちを言うの、かなり苦手だ。言って嫌われたらどうしようって凄く怖い。でも……うん、頑張る」
伝えると、握ったままの手に力が込められる。
情けないけれど、分かったとは言い切ることができなくて。
だから、頑張る、努力する。
俺は金井の、真っ直ぐなところが好きだから。
そんな金井と、これからも一緒に居たいから。
「俺も、希が言いやすい恋人になるよう頑張る。俺はさ、希の暴言も、好きだよ」
「…………へんたい」
恥ずかしくてそう言うと、やっぱり笑う金井。
ありのまま、って。
思ったことを、そのまま思っていて良い、ってことなのかな、と少し思う。
どう思われるかじゃなく、これが俺の気持ちだと、持っているままで、尚且つちゃんと、伝えてみても良い、ってことなのかな。
相手の気持ちを察して、相手の欲しい言葉をあげるのが『僕』のコミュニケーションだったけれど。
俺で居て良いというのは、自由で、難しいなと思う。
だって俺の気持ちは、相手の正解とは限らないから。
嫌われる可能性を、秘めているから。
それが怖くて堪らない。
自分の全てを否定されるように感じる。
でも。
金井と、なら。
自分自身と向き合うことも、これまでよりは、難しくないのかもしれない。
受け止めると言ってくれた金井を、信じて、頼ってみてもいいのかもしれない。
「風邪引かないように」
「……ん」
最後にもう一度、ぎゅっと握ってから離れていく手。
それから今日も、「家、入って」って。
最後まで過保護だから、ちょっと笑った。
『おはよう』って俺も送ると、筋肉ムキムキの人が物凄く笑顔で太陽を抱えているスタンプが来て吹いた。
使い所が限定的過ぎるし、その使い所がまさに今過ぎて普通にやられたから、犬のスタンプで威嚇しておく。
そこから金井の返事は無かったので、もう家を出たのかもしれなかった。
朝からこんな変なやり取りをしたのに、ご機嫌になるのだから俺は本当にどうかしている。
顔を洗うついでにいつもの笑顔を作ってみたけれど、若干表情が固くて、もう戻れはしないのだなと思った。
俺はもう、自分を偽る『僕』にはなれない。
駅に着くと、金井はもう来ていて。
ぼーっと雨空を見ているから、ちょっと悪戯したくなった。
スマホで『左見て』とメッセージを送って、金井がスマホを見て、左を向くのを確認する。
それから右側に走り寄り、「わっ!」と言ったのに、無反応で。
はぁああ〜〜?
って顔をしていると、左側で俺を見つけれなかった金井が前を向いて、右に居る俺の姿に気付いて、驚いた顔をする。
思ってたのと、違ぇ。
「おはよう、びっくりした」
金井はそう、イヤホンを外しながら言うから。
「か〜〜〜」
と落胆の意を示す。
イヤホンと、雨音で俺渾身の「わっ!」は聞こえていなかったらしい。
それどころか、左に何かあった?とまで言うので睨む。
「驚かせようとしただけ〜〜〜」
むす〜として言うと、そっか、って嬉しそうにされるから。
は〜〜〜コイツは本当にもう。
俺の機嫌を直す天才過ぎるんだよな、と視線を外して思った。
学校に着くと、またニマニマされるのでイライラが募る。
それだけじゃなく、「応援してるよ〜」って声掛けまであって、本当に意味が分からない。
お付き合いってもっとこう、ひっそり本人達で楽しむものじゃないのか。
なんでこうも公開処刑状態なんだよ。
でも、
分かっている。
初恋だと叫んだ俺が悪いということは。
だとしても、そうだとしても、そっと見守っていてくれてもいいだろ!とは思う。
きっ、と周りを睨むけれど、全然効いている様子がない。
『僕』が崩れていく、どんどん崩れていく。
それなのに案外、俺に対する、周りの人の態度の変化は起こらなかった。
人は、離れて行かなかった。
昼になると、また金井が来る。
クラスメイトには「行ってらっしゃい」ってニマニマ見送られて、げんなりする。
でも行かないという選択肢は無い。
昼休みは貴重な俺と金井の時間だった。
今日も雨で廊下が濡れているから、金井は迂回のルートで行こうとして。
その腕を引いて止まらせて、俺は更に階段を上る。
昨日居た奴らが、今日も居る可能性があったからだ。
察した金井は大人しく付いてくる。
廊下を歩いて、そっと階段の踊り場を覗くと、そこに人は居なかった。
「はぁ」
「良かった」
「うん、てか、ここで食べるか?俺達で居座りゃ流石にできないだろ」
昨日の現場を指して言うと、金井は首を振る。
「そこに希を座らせたくない」
「……」
俺らが、いつもお弁当を食べている階でも、過去に何があったかは分からないぞ、と思ったけれど。
言いたいことは分かったので、頷く。
それからまた大回りして、いつもの場所に着いて。
今日もまた端の方に追いやられるから、ちょっと気まずい。
昨日はそこまでじゃなかったのに。
傍に感じる体温で、そわそわする。
こんなにも近い距離に居ることに、そわそわする。
抱き付きたくて仕方ないけれど、今すぐ極限まで離れて、腕を突き立てたいみたいな。
嬉しいと緊張と期待と、そういうものが全部混ざって苦しい。
金井はいつも通りお弁当を開けて、梅干しを寄越そうとして。
俺がまだお弁当を開けていないことに気付いて、そのまま、箸先を俺の口に、持ってくる。
どうしよう、金井はちょっと唾液とか苦手な感じじゃ無かったっけ、と思って、齧り付けずに、口を開ける。
そしたらひょい、と梅干しを入れられて、無事に受け取ることができた。
噛むと酸っぱくて、今日も美味しい。
「梅干し、好きなのになんでくれるの」
いつも思っていて聞けなかったことを聞いてみると、きょとんとして、「好きだから」って言われて、まただ、と思う。
「それどっちに対して言ってんの」
「両方。好きだから、好きな人にあげたい」
「……」
じゃあ。
『僕』の時も、ちゃんと、好きだったのか。
泣きそうに笑うから心配で、危なっかしいから傍に居て、それでいて、少しは、好きでいてくれたのか。
どこか報われるような気持ちで、金井を見る。
『僕』は偽りの多い俺だったけれど、全てが偽りという訳でも無かったから。
俺の一部でもあったから、ほっとする。
それから今日もお弁当の蓋を差し出されて、ちょっと迷って、口元を隠しながら種を落とすと、「それはそれでえろい」って言われて、蹴飛ばそうかと思った。
お弁当を開けて見せると、今日はつくねが選ばれる。
割となんでも食うな、と思って、それから、最初は遠慮してたのか?と思うと、ちょっと心臓がきゅっとした。
遠慮がなくなってきているのだとしたら嬉しいなと思って、胸元を擦った。
お弁当を食べ終わって、今日はどうするんだろうと思っていたら、金井に見つめられる。
「なに」
「寒くない?」
「寒くない」
「俺はちょっと寒い」
む、と思う。
なら教室戻るかよ、って言おうとしたら、腕を、広げられて。
「は」
「暖まる?」
って言うから、睨む。
「寒がってるのはお前だろ、俺は別に」
「確かに」
ふふ、って金井が小さく笑うから、そのご機嫌っぷりにむずむずする。
「じゃあ暖めて」
「っ」
コイツ、コイツ本当に、コイツ、クソ。
やけくそで飛び付くと、ちゃんと、しっかり受け止められる。
ひんやりとしていた金井のブレザーが、自分の手と、腕と、胴で温められていく。
バイクの時は後ろからだから、前から抱き付くのは初めてで、異様に恥ずかしかった。
絶対に顔が赤いし、絶対に誰にもこんなところ見られたくない、見せたくない。
金井はぎゅっと、もっと体を密着させて、息を吐く。
「暖かい」
「……ん」
バクバクと鳴る心臓がうるさかった。
くっ付けて嬉しいと思っている自分が恥ずかしかった。
金井の香りが、すぐ近くからしてクラクラした。
ただのハグが、こんなにも気持ちいいと知らなかった。
心が満たされていくのが分かる。
もっとずっと、一緒に居たいと思った。
暫くぎゅうぎゅう抱き締めていたら、段々と金井の腕の力が弱まって。
何サボってんだよと思ったら、すうすう寝息まで聞こえてきて焦る。
お、おい、ここ階段だぞ、傾いたら転がるぞ!?
慌ててしっかり引き寄せて、壁に背を付くと全力で寄りかかって来る金井。
脱力している人間はこんなにも重いのか、と思う。
おまけに首筋にかかり続ける吐息のせいで、心身共に乱されてこっちも気絶するかと思った。
でもちゃんと抱き留めていた。
金井が、全てを預けてくる様子が嬉しかったから。
俺と登校する為に、早起きしてくれた金井を、寝かせてやろうと思ったから。
予鈴が鳴って、金井はまたすっと起きる。
それから、俺に抱き付いたまま、俺に抱き付かれたままだったことに気付いて、また寄って来るから笑う。
「おい離れろ」
「もうちょっと」
「予鈴鳴った」
「うん」
寝起きで、少し緩い金井の声。
寝ても覚めても嬉しいこの存在は本当になんなんだ。
ちょっと抱き合って、金井が離れて、目が合って。
間があって、キス、って思ったから、俺は目を伏せる。
でも、唇は降ってこない。触れない。
俺からしても良かったけれど、金井からして欲しいと思ったから、じっとしていた。
でも結局キスはせず、離れて行く。
ちく、と心臓が痛んだのは気のせいだと思いたい。
キスを期待したのは俺だけだって、気付いて傷付くのは怖いと思った。
帰る時間になると、金井がやってくる。
また来週、ってクラスメイトと別れて、バス停へ向かう。
クラスメイトは、ニマニマし続けているけれど、下衆な質問を向けて来たりはしなかった。
それは俺が言われるがまま付き合って、別れて、を繰り返している時からそうで。
デリカシーがあるんだか無いんだか分からないが、まあ助かってはいた。
そしてそう考えた時に、ふと思う。
俺って汚い、のかなって。
いろんな人と付き合ってきて、そういう触れ合いも沢山、してきて。
金井が初恋で、金井も初恋で。
けれどそれは、心が、って意味で。
俺は、体は、いろんな人と触れ合ってきたせいで、初めて、じゃないから。
だから金井はキスしなかったのかな、と考える。
その時その時でたった一人と、お付き合いはしてきたけれど。
清いかと言われると、頷けはしないから。
だからキスしてくれなかったのかな。
俺とのキスはきついのかな。
キリ、と心臓が痛んで、胸元を摩る。
今日初めてちゃんとハグをして、心が満たされていたはずなのに。
最後に、触れなかった唇のことばかりを考えている。
そういう触れ合いが全てでは無いと、分かってはいて。
大事にされていることも凄く凄く、分かっていて。
けれどどうしても消えなかった。
不安がずっと、拭えなかった。
そんな日に限って、俺と金井の間で、ちょうどバスが満員になってしまって。
金井は後続のバスに乗ることになり、俺だけ先に出発してしまった。
扉が閉まる時、情けない顔を晒した気がする。
寂しいと思った感情を、上手く隠せなかった気がする。
スマホを開くと『駅で待ってて』と届いていて。
それから念押しするように、小指を立てた筋肉ムキムキ男のスタンプが来る。
『早く来い』って送ると、『気持ちはもう着いてる』って来て、バカだ、と思った。
こんなやり取りで少し満たされる俺も、そんな俺に付き合ってくれる金井も。
バスは金井が居ないまま進む。
金井の居ない空間は、少し息苦しかった。
駅に着いて暫くすると、後続のバスもやって来る。
降り口から少し離れた所で立っていたのに、金井は迷うことなく真っ直ぐ俺の所に来たから少し驚いた。
「なんで分かった?」
「バスの中から見えた」
「……」
抜かりの無い奴め。
「お待たせ、冷えたろ。早く帰ろう」
そう促されるから、また先を歩く。
どこからどう見ても大事にされている。
どこからどう見ても大切にされている。
だから不安になる必要なんて無いはずなのに、キス一つが無かっただけでこんなにも不安になっている。キス一つで悩んでいる。
バカバカしい、と思うけれど、止められない。
これが恋なら苦しいな、と思う。
でももっと苦しい恋を、『僕』はさせてきたんだろうなと思う。
だから振られていたんだろう。
だから続かなかったんだろう。
今になって申し訳なく思う。
気持ちが無いなら、付き合うべきではなかったのだと気付く。
それに。
金井は俺を好きだと言うが、俺の好きとは同じなのだろうか。
同じ好きであればいいと思うけれど、違うのなら、俺はどうしたらいいんだろう。
キス一つで別れるのだろうか。
こんなにも大切にされているのに。
キスしたいと言えば良いのに、そんな自分は浅ましいと感じて到底言えない。
言えば、優しい金井はしてくれるのかもしれない。
けれど、それは俺が欲しいキスではない。
俺が求めて、やっと貰えるキスは、俺の欲しいキスではない。
金井にもキスしたいと思ってもらいたい。思って欲しい。
でも俺の汚れがそう思わせられないのだとしたら。
男はやはり無理だと思うなら。
俺はどうしたらいいんだろう。
今の関係を保つことも、続かせることも、止めることも、全部難しい。
道が広くなって、金井が横に並ぶ。
二人共黙って歩く。雨で、傘の距離もあって、二人共、黙ったまま。
たまにちらと視線を感じるけれど、気付いていないフリをした。
なんということはない。なんて言えばいいのか分からないだけだ。
何を話せばいいのか分からないだけ。
家に着くと、金井が手を出す。
意味が分からず見ていると、「手」と言われて。
とりあえず握手、の形にしてみる。
するとちゃんと握られる。
「じゃあまた来週」
「……うん、また」
なんだったんだ、と思いながら、家に入ろうと手を引いて。でも手が離されないから、金井の顔を見る。金井は、真っ直ぐ俺を見ていた。
「今何考えてる?」
「え?」
「またあの笑い方してた」
「……」
あの笑い方、は、泣きそうに笑う、って金井が表現した、あの笑い方なのだろう。
していたつもりは、無かった、のに。
「希」
「……なにも。金曜だし、疲れただけだと思う」
「希」
諭すように、名前を呼ばれる。
後ろめたくて、視線を逸らす。
考えていることはある。
けれど、どうしても、言いたくない。
キスされなくて、不安だなんて。
絶対、何があっても。
「……言いたくない」
絞り出した言葉は、それだけ。
二人の間の手は、傘の範囲外で濡れる。
風邪引くぞ、と思って手を引くのに、離してはくれない。
その手を、見ながら思う。
だってまだ、付き合って数日だもんな。
形だけじゃなく、お互いちゃんと好きって分かったのだって、昨日からだ。
キスなんて、それぞれのタイミングがあるよな。
まだ早い、ってだけだよな。
何を焦ってるんだろうな、俺は。
俺は、俺は。
俺は、このまま、キスが無いままだったら、俺の心は耐えられるのかなって、それが。
ずっとキスもそれ以上も無かったら。
俺って居る意味あるのかな。
付き合う意味って、あるのか?
それはただの友達じゃないのか。
金井は俺で勃つって言ったけど。
じゃあ、なんで、キスしなかったんだよ。
俺は汚れてるのかな、やっぱ。
「希、お願い。俺のせいでそんな顔させたくない」
少し、手を引かれて、顔を上げる。
そんな顔ってどんな顔だよ。
また、泣きそうな顔でもしてるのかよ。
「金井、俺って汚れてる?」
「え?」
「俺、汚れてるから、キス、してもらえないのか」
情けない。
結局言った、困らせた。
俺全然かっこよくない。
何聞いてるんだよって自分でも思う。
でも何考えてるって聞かれたから。
違う、金井のせいにしたいわけじゃないのに。
全部俺のせいなのに。
「なんでもない、もう離して」
ぐ、と体ごと引くけれど、離れない。そういやコイツ力強いんだった、と思って、傘を首で挟んで、反対の手も添える。
「本当になんでもない。ただの冗談。大丈夫だから離して」
手先が冷えていく、雨で濡れていく。
「金井、お願い」
なんで俺は、泣きそうなんだろう。
「希が汚れてるってどういうこと?」
「(あ)」
……怒らせた。
金井の手を剥がそうとしていた、俺の手の力が抜ける。
元彼が絡んできた時よりもずっと、ずっと温度の無い声がした。
金井が怒っている。静かに、怒っている。
「じょうだん、」
「希」
表情も、温度が無くて。
ごめん、金井、嫌いにならないで。
じわ、と滲む涙が悔しい。
俺、金井のことが好きなんだ、本当に。
尊敬もしていて、二人で居る時間が癒しで。
これからも二人で居たくて、ずっと二人で居たくて。
だから好きでいて欲しいのに、どうしたらいいか分からない。
ずっとありのままを受け入れて欲しかったのに、ありのままが分からない。
誰かの望む、理想の『希』になることは得意なのに。
なぁ俺どうしたらいいんだろう。
金井にずっと好きでいてもらうには、どうしたらいいんだろう。
「……昼、キスするかと思ったけど、しなかった。俺が初めてじゃないから、汚れてるから、なのかなと思って、ごめん、ごめん金井」
涙が零れて、雨に消える。
なあもう止めよう、こんな面倒臭い奴嫌だろ、俺もこんな面倒臭い自分が嫌だ。
もうぐちゃぐちゃなんだよ、分からないんだ、全部俺が悪いのに、ごめん、本当に。
「ごめん」
「っ」
金井の一言で、壊れたみたいに涙が出る。
終わ、った。
言うんじゃなかった。
我慢すれば良かった。
それならまだ、今日までの距離感では、居られたのに。
「違う、希、聞け。キスしなかったんじゃない、できなかったんだよ」
ぐ、と腕を引かれる。
目を覗き込まれる。強制的に、視線が絡む。
「俺もキスしたかった」
「っえ、」
「でも言ったろ、初恋だぞ、初めてなんだよ。緊張して無理だった。でも不安にさせた、ごめん」
「は……」
「希が汚れてるとか、そんな風に考えたことなんてない、寧ろ俺が汚してる、て何言わせてんだ、違う」
金井が、テンパってる。
あの真っ直ぐな金井が、耳を赤くして、必死に何か、言っている。
「俺を汚したの」
「……だから言ったろ、希で勃つって」
なるほど、例えじゃなくて実績が、と思って、泣きながら笑う。
何不安になってたんだろう、俺。
言ったらうざいかと思ったけれど、全然、そうじゃなかった。
途端に全部、馬鹿らしくなる。
良い意味で、どうでも良くなる。
心の中で溜まっていた、黒くて重くて嫌な感情を、全部窓から吐き出したみたいな。
不安が全部無くなって、だから、自分の意思で、ちゃんと金井の目を見る。
「分かった、待つ」
「え?」
「金井の心の準備が整うまで、待つ。俺、キスしたいって思ってくれてること、知ってたら待てる。大丈夫」
知らなかったから、不安だっただけだ。
理由が分からなくて、不安だっただけだ。
だから大丈夫、って頷く。
俺の顔をじっと見た金井は、そこに悲しさが無いことが分かったのか、少し身を引く。
それから少しの、空白。
「デートしよう」
「は!?」
「笑うなよ。俺、希とのファーストキス大事にしたい」
「……はぁ!?」
笑わない、が、何言ってるんだ、とは思う。
けれど至って真剣な顔をしているから、本気なのだろう、とは思う。
俺のとファーストキス、って、え?
「ファーストキスだけじゃない。全部、大事にしたい。敢えて言うぞ、キス以上も、俺は大事にしたい」
「……へ」
「一生覚えていたいんだ、俺。希との思い出、全部。だから流れでとかじゃなくて、ちゃんとやりたい」
理解が追い付かない、けれど、何か凄いことを言われているのは分かる。
いつも冷静な金井が、必死に、伝えようとしてくれている。
でも、
でも。
「お、前、もし別れたらどうするんだよ……」
そんな、一生とか言って。
お前は真っ直ぐな奴だから、本当に一生、覚えてるんじゃないのか。
じゃあ、もし別れて。
もし新しい恋人ができた時、お前、どうするんだよ。
本当に一生、抱えていくのかよ。
「付き合うって、そういうことだろ」
「っ」
言葉が、刺さる。
己の甘さに、金井の言葉が突き刺さる。
芯のある、強い言葉に、涙が止まらない。
付き合う、って。
そうか。
お前の付き合うは、そうなのか。
俺は。
恋人として付き合うって、友達ではできない、それ以上の触れ合いへの許可証、みたいなものだと思っていて。
でも、お前は。
人生を懸けて、一生をもって、思い出諸共、今後ずっと、『付き合って』いくものだ、って。
そういう、ことなんだな。
俺より何倍も、何十倍も覚悟の決まっている金井の言葉に、震える。
俺と金井、どっちが正しいとか、間違っているとかではなく。俺に足りないものを、金井が持っていて、俺に無いものを、軸としている金井が。
眩しくて、眩くて、仕方なかった。
「梅雨が明けたら、デートしませんか」
いつになく真剣な表情をした金井が見える。
けれど、その耳は、依然真っ赤で。
嬉しくて仕方なかった。
本気で、全力で、向き合ってくれていることが。
愛しくて仕方なかった。
大きな葛藤と羞恥の中、ちゃんと真っ直ぐ、言葉にしてくれたことが。
「…………デート、する」
振り続けていた雨は、いつの間にか弱くなっていて。
遠くに雲の切れ間ができて、少しの間、陽の光に照らされる。
俺の返事に、嬉しそうに笑う、金井の姿が、照らされる。
俺はまず、今のこの光景を、忘れはしないだろうと思った。
「希、俺のせいで悲しまないで、お願い。必ず受け止めるから、全部教えて」
真っ直ぐ、そう目を見て言われる。
でも。
俺は、正直。
言うことの方が、怖いと思ってしまう。
秘めておけば、安全だったから。
肯定もされないけれど、否定もされなかったから。傷付く可能性を、減らせたから。
でも、でも。
「…………頑張る。俺、自分の気持ちを言うの、かなり苦手だ。言って嫌われたらどうしようって凄く怖い。でも……うん、頑張る」
伝えると、握ったままの手に力が込められる。
情けないけれど、分かったとは言い切ることができなくて。
だから、頑張る、努力する。
俺は金井の、真っ直ぐなところが好きだから。
そんな金井と、これからも一緒に居たいから。
「俺も、希が言いやすい恋人になるよう頑張る。俺はさ、希の暴言も、好きだよ」
「…………へんたい」
恥ずかしくてそう言うと、やっぱり笑う金井。
ありのまま、って。
思ったことを、そのまま思っていて良い、ってことなのかな、と少し思う。
どう思われるかじゃなく、これが俺の気持ちだと、持っているままで、尚且つちゃんと、伝えてみても良い、ってことなのかな。
相手の気持ちを察して、相手の欲しい言葉をあげるのが『僕』のコミュニケーションだったけれど。
俺で居て良いというのは、自由で、難しいなと思う。
だって俺の気持ちは、相手の正解とは限らないから。
嫌われる可能性を、秘めているから。
それが怖くて堪らない。
自分の全てを否定されるように感じる。
でも。
金井と、なら。
自分自身と向き合うことも、これまでよりは、難しくないのかもしれない。
受け止めると言ってくれた金井を、信じて、頼ってみてもいいのかもしれない。
「風邪引かないように」
「……ん」
最後にもう一度、ぎゅっと握ってから離れていく手。
それから今日も、「家、入って」って。
最後まで過保護だから、ちょっと笑った。
