ぼくをみて。

翌朝、雨が降っていて、一番に考えたのは金井くんのことだった。雨の中のバイクって危なそう。大丈夫なのか。
濡れたら流石にまだ寒いだろうし、風邪を引くと良くないし。
かける言葉は「無理するな」なのか、「気を付けて」なのか、迷ってから、項垂れる。
僕、金井くんのIDを知らない。

付き合うって、なんなんだろう。
ビニール傘越しの雨を見て、そう思う。
今はバス待ち、登校中。
暇だから思考が捗る。雨音が思考を駆り立てる。
金井くんとは、付き合っている。
フリーかって聞かれたから、どこか一緒に行く為の付き合うでは無いと思っている。
けれど、お付き合いをすることで、一般的にはようやく解禁される、性的な触れ合いを、金井くんはしてこない。
それどころか、ただ手が触れることすら、避けているような嫌いがある。
それに、今朝気付いた。
僕達は、メッセージアプリのIDすら知らない、交換していない。
付き合うって、なんなんだろうな。
「おはよう」
「っ」
金井くんのことを考えていたから、金井くんの幻影が現れたのか、と思ったけれど。声をした方を向けば、ちゃんと、金井くんの姿。
「あれ、バイクは」
「雨の日は乗らない」
「……そっか、それがいい」
ほっとする、朝からの心配事が一つ、消える。
何度も頷いて同意していると、金井くんは僕の隣に並ぶ。
今日の金井くんはカバンが一つで、身軽そうだった。
けれど。
傘があると、距離が開くな、と思う。
だからどう、ということでもないけれど。
じっと二人の間の空間を見ていると、金井くんがワイヤレスイヤホンを差し出してくる。
わ、濡れるぞ、と思ってすぐに受け取ると、金井くんは自分の耳に、もう片方のイヤホンを耳に着ける。
習って、僕も耳に着けると、
「え」
何故か、海の、波の音がして。
「脳バグるだろ」
ってほんの少し悪い声が聞こえて、ちょっと、心臓がきゅ、とした。
「うん、なんかトイレ行きたくなるかも」
「ふ、」
あ、笑った。
見ると、目が細くなって、口が横に大きく伸びていて。
僕の武器である笑顔とは、真逆のような、ちょっと不器用な感じ。
でも、綺麗だなと思った。
笑うのが堪えられない、みたいな、心の様子が伝わる笑い方で。
大きめの歯が、綺麗に並ぶのが見えていて。
そんな笑い方をするんだ。
魅入っていると、バスが来て。
もう見えなくなったから残念だった。
また見たいと思った。
もっと見たいと思った。
そのままじっと、見えなくなった笑顔を探していると、きょとんとした顔でバスの乗車を促された。
また、見られるかな。
バスには、今日も並んで座ることができた。
お互い、それぞれ片方だけイヤホンを着けていて。
流れていた波の音は、途中で雨の音に変わった。
目を閉じると、イヤホンからの雨の音と、外の雨の音が混ざる。
暫く聞き続けて、僕はイヤホンからの雨音の方が好きだな、と思った。
イヤホンの雨音は、外よりも激しい土砂降りの雨音だけれど、何故か子守唄みたいな、優しさを感じる。
なんとなく、金井くんみたいだ、と思った。
高校に着いてバスを降りると、生徒の川ができていて、僕達もその流れに乗る。
そういえば一緒に登校するのは初めてだな、と思った。
雨も存外、悪くない。
教室に着く頃、イヤホンを外して、払って、金井くんに返すとじっと見られた。
金井くんは時々じっとこちらを見てくる。
けれど何も言わないから、いつも理由は分からない。
たまには聞いてみようかな、と口を開こうとして
「おはよう!」
そう、クラスメイトから声が掛かったから、聞くタイミングを逃した。
代わりにおはようと返して、自分の席に行く。
金井くんも自分の席に着いて、それで、僕達の時間は、お昼までお預けになった。

雨の日のお昼は、教室内に人が多い。
いつもは中庭とか、グラウンドとか、テニスコートとか、いろいろ行先があるから人がバラけるけれど、雨の日はほとんどみんな、教室に居る。
食堂もあるけれど、三年が居て少し気まずいと、部活をしているクラスメイトがいつか言っていた。
僕は部活に入っていないから分からないけれど、割と上下関係がしっかりしているらしい。
そんな中でも、金井くんは今日も僕のところに来て、連れ立ってまた別棟に向かう。
雨で廊下が濡れているのを見て、別棟は濡れていないと良いな、と思った。
どのクラスも雨だからか教室に人が沢山居て、話し声の数も多いなと思う。
それは別棟に来ても同じで、遠くの話し声、というよりは、別棟全体がザワザワとしている感じだった。
いつもの階で金井くんは廊下へ向かわず、そのまま更に階段を下るから、あれ、と思う。
数え間違えたのかな、と見ていると、ちら、と視線を寄越すので、間違いではないようで。
その猫みたいな道案内ヤメロ、と思うけれど、僕も黙って付いて行く。
すると、一階分下で階段から逸れ、廊下に向かい、暫く歩いて、いつもの階段の一つ下に辿り着く。
今日はここか?と思うと、階段を登り始めるから、なんの迂回だったんだと思っていたら、どうやら、僕達が座る踊り場を、濡れた上履きで踏まないようにする為だったみたいで。
「(は〜)」
配慮が、凄いなと思った。
お陰で階段は濡れていなかったし、僕達はいつも通りの昼休憩場所を確保する。
けれど、座ろうとしたらぐいぐい詰めて来るので、やけに狭い会場となった。
なんだよ、と見ると、人がよく通る階段の中央とか、内側を避ける為に僕を端に寄せたみたいで。
なんか……なんか。
どこまでも大事に扱われるから、むずむずする。
仕方なく、いつもよりくっついてお弁当を広げて。
また梅干しが来て、また僕が齧る。
なんで毎回くれるんだろうな。
そう思いつつ、また僕もお弁当の中身を見せる。
本日選ばれたのは、焼売。
なんだ、和食だけじゃなく中華も好きなのか。
そう思いながら梅干しの種を舐めていると、これまた恒例、お弁当の蓋を差し出されて。
んべ、って種を落とそうとする、と
「あっ」
「……」
「……」
え????
女性の、嬌声が、聞こえて。
舌を出したまま固まる。
金井くんと、目が合う。
少し上の方から聞こえた、気がする。
っていうか今の確実にそうだよな?と思っていると、梅干しの種は重力で落ちていって。
「んっ」
「……」
「……」
確実に、そう、だった。
まじかよ、ここで?と思うけれど、僕もいつ人が来るか分からない空き教室での経験があるので、何も言えない。
どうしよう、めちゃくちゃ気まずいな、と思っていたら、お弁当の蓋を階段に置いた金井くんが、僕を見て、両手を伸ばしてくる。
「(え、あ)」
キス、
そう思って、目を閉じる。
両耳に手を添えられて、頭が固定される。
人の嬌声に当てられたのかな、と思いつつ唇を待つ。
なのに、全然触れなくて。
ゆっくり目を開けると、上を見て、ただ僕の耳を押さえているだけの金井くん。
もしかして、声を聞かせない為?
じっと金井くんを見ていると、上を見ていた金井くんも僕を見る。
それから少し驚いたような顔をして、少し、近付いて。
息を潜めるのに、唇は降ってこない。
今度こそキス、って思ったのに、降ってこない。
僕があと少し動けば触れるのに、動けない。
ただ真っ直ぐ僕を見てくる金井くんの目を、僕もどうしたら良いか分からないまま、見つめて。
僕の方が先に耐え切れなくなって、視線を逸らす。
金井くんはどうしているか、もう見えなかった。
でもお互い、それ以上は動けない。
膝の上のお弁当が枷となり、逃げも隠れもできない。
嬌声がまだ続いているのかは、分からなかった。
でも金井くんが手を離さないってことはまだ続いているのだろう。
別に大丈夫なのに、と思う。
僕は別に、大丈夫なのに。
だから、僕の耳を塞ぐ手に左手を添えてみる。
少しだけ金井くんを見てみると、また目が合う。
ずっと僕のこと見てたのか、と思うと、僕の左側に寄って来て。
「聞かないで」
僅かに開かれた手の間から、金井くんの声が注がれた。
聞かないで、って、どういう意味。
教育に悪いから、
聞いてほしくないから、
聞かせたく、ないから。
いろんな意味合いがあって、どれか分からなくて、心臓がきりきりする。
聞かないでって言うために寄って来た金井くんは、そこから離れて行かない。
この距離だと金井くん自身の香りがして、呼吸が上手くできない。
体の力が抜けそうで、だから必死に左手に力を込める。
訳も分からず、泣きそうだった。
そこから動かない金井くんが、もどかしくて仕方なかった。
何分かした後、金井くんが離れる。
慌てて瞬きすると、目尻に溜まりかけていた涙が散った。
そっと金井くんに覗き込まれて、手が離れて行く。
金井くんの右手を掴んでいた僕の左手は、その途中で離れた。
なんとなく顔が見られないでいると、金井くんは元の姿勢に戻って、「ごめん」って、ただ一言だけ。
なんで、金井くんは何もしていないだろ。
むしろ守ってくれて、なのに。
ごめんって、なんで。
それに、ごめんを言うなら僕の方だと思った。
親切で守ってくれたのに、僕の頭は金井くんでいっぱいだったから。
謝るのは僕の方だ。
でも、何も言えなかった。何一つ言葉にできなかった。タイミングを逃して、微妙な空気感で、お互い静かにお弁当を食べて。
僕が食べ終わると、金井くんはいつも眠るのに、今日は立ち上がる。
え、と見ていると、僕を振り返って、促す仕草。
「雨で冷えるし戻ろう」
って。
ずき、と心臓が痛む。
いつもと違う行動に、拒絶されたような悲しみを感じる。
僕は大丈夫、だから、
もっと金井くんと居たい、
もっと二人がいい、
戻りたくない。
でも、どの言葉も、言う勇気を持ち合わせていない。
だから咄嗟にいつもの笑顔を作る。
良い子で聞き分けのいい、あの笑顔を作る。
そうして素直な、相手の望む、良い返事をする。
「うん、戻る」
希は僕の、私の、望むことを叶えてくれるから、のぞむって名前なのかな、って。
何度も何度も何度も何度も言われてきた言葉が、頭で木霊する。
そう、僕は、君の望むまま、なんだって言うことを聞くからさ。
だからさ、ほら、
笑って。
喜んで。
嬉しがって。
ありがとうって言って。
好きになって。
愛して。
もう慣れていたのに。
目の前の人の、思い通りになるのは。
もう慣れていたのに。
自分の心を殺すのは。
なのになんでこんなに痛いんだろう。
ちぎれてバラバラになりそうなくらい、心が痛い。
言えたら良いのに。
もう少しここに居たいって。
でも言って、困らせる方が嫌だ。
重いと思われるのが嫌だ。
キモいと思われるのが嫌だ。
嫌われるのが怖い。
にこ、って笑う。
お望みのままに。
そうしたら、金井くんが戻って来る。
僕の目尻を撫でるから、どうしたのって言う。
泣いてないよ、僕。
泣いてないのに、なんで。
「笑いたくない時に、笑わなくていい」
喉から、変な音が出た。
泣いてなかったのに、涙が出た。
泣いてなかったのに、頬が濡れて、
笑っていたのに、眉が寄った。
こんなの僕の笑顔じゃない、これは笑顔じゃない。
だから両腕で隠そうとして、でもその腕を掴まれて、ただただ泣き面を晒す。
なんの地獄だよ、これ。
もう笑顔なんかじゃない。
ただのしわくちゃな泣き顔だ。
全然完璧じゃなくて、恥ずかしくて仕方なくて、それなのに涙は止まらなくて、隠したいのにできなくて、全部全部上手くいかないから、余計に涙が出る。余計に涙が止まらない。
癇癪を起こしたみたいにもがいて、逃れようとして、とにかく逃げたくて、なのに微塵も、離してくれない。
「はなせ、っ」
もがくのに、もがけない。
溺れるように、息ができない。
「離さない」
なんでそう、いつも真っ直ぐなんだ。
立っていられなくて、その場に崩れて、見るなって殴りたいくらいなのに、僕の腕を掴んだまま、しゃがんで、視線を合わせてくるから。
「あっちいけ」
「うん」
「見んな!」
「うん」
「バカ」
「うん」
「きらい」
「うん」
全部、酷いことを言っているのに。
全部、嬉しそうに受け取られる。
なんで、なんでなんだよ、まじで。
「なんでっ、嬉しそうなんだよ!」
涙で滲む目で睨むと、笑う金井くんが、ぼやけて見える。
「全部反対に聞こえるから」
「っ、クソ」
頭突きしようとすると、しっかり避けられる。
それどころか上手く抱え込まれて、こっちが抱き付いたみたいな形にされて。
「はなせ!」
「うん」
「離せ、って!」
「うん」
じたばたしても全然だめ、もう訳が分からない、とにかくめちゃくちゃにしてやりたい。
「俺は今の希の方が好き」
だから、なんで。
俺が一番、欲しかった言葉を今。