今日は、母屋の大きいお風呂を借りていた。
春海と一緒に、ぬるめの温度に設定した湯船に、浸かっていた。
なんとなく、離れたくなかった。
春海の傍を、離れちゃいけない気がしていた。
だから俺から、お風呂に誘った。
母屋が良いと言ったのは、春海だった。
「ばあちゃん、大丈夫かな」
湯船で、背後に居る春海に、言うとはなしに言う。
春海は俺の肩に凭れて、黙っている。
ばあちゃんの身体は、大丈夫だと思う。
けれど心は、大丈夫では無いかもしれない。
心は、身体に影響を及ぼしやすいから。
だから、心配だった。
俺が傍に居て、何かしてあげられる訳でも無いけれど。
それでも、心配くらいはさせて欲しいと思った。
この数日、ばあちゃんにとてもお世話になった。
この数日で、ばあちゃんをとても好きになった。
この数日が、ばあちゃんと過ごせて本当に良かったし、
この数日は、多分一生残る、宝物になった。
俺もばあちゃんのことを大好きになったけれど、春海はもっと、ばあちゃんのことが大好きな筈だから。
きっと、俺より何倍も、あの寂しそうなばあちゃんの姿に、ショックを受けているだろうと思った。
別れを想起させる言葉に、悲しんでいるだろうとも。
だって、俺が、悲しかったから。
「希」
「うん」
「一緒に居てくれて、ありがとう」
歪な、声がした。
悲しい気持ちを押し殺して、心配を掛けまいと笑って、でも、隠し切れていない、そんな声。
ばかだな、と思う。
淋しいって、言えば良いのに。
悲しいって、言えば良いのに。
辛いって、言えば良いのに。
抱き締めて欲しいって、言えば良いのに。
湯船の中で、振り返って、春海を抱き締める。
「笑いたくない時に、笑わなくていいんだろ」
「っ」
いつか、春海が、俺に言ってくれた言葉だ。
言ったお前が、忘れてどうする。
頭を撫でてやると、肩に熱い雫が流れる。
春海の涙が、俺の肌を伝う。
死は、何よりも悲しい別れだと思う。
大好きな人の死となれば、尚のこと。
まだばあちゃんは生きていて、元気で居て。
けれど、いつか訪れる別れを、今日、強く感じて。
春海が、静かに泣いていた。
お通夜に行くばあちゃんを見送ってから、ずっと、どこか遠くを見ているような。
意識がここに無い様子だった春海が、漸く、泣いている。
「春海の、ばあちゃんが好きって気持ちは、ばあちゃんにちゃんと、伝わってると思うぞ」
「っ、うん」
たった数日、一緒に過ごした俺でも分かったんだ。
二人はお互い、大切に想い合っている。
ちゃんと、ばあちゃんも分かってるさ。
俺も、ちゃんと、分かっている。
春海が落ち着く頃には、湯船のお湯も少し冷めていて。
お風呂から上がって、離れに戻る。
今日も星空を見ようとしたけれど、今日は厚い雲に覆われていて、見えなくて。
月明かりが無いから暗くて、ばあちゃんの居ない家は、何故か、寒い気がした。
「春海」
ぼーっと、窓の外を見ている春海を呼ぶ。
泣き疲れたのか、お風呂上がり以降、春海は大人しくて。
呼んでも身動ぎするだけで、こちらを見ない。
だから背中から、抱き締める。
相当堪えてるんだな、と、ただ抱き締める。
手を取ると、ひんやりと冷たくて。
俺の熱を移すように、握り込む。
すると春海も握り返してくるけれど、その力は、弱々しくて。
春海を、今、ここに、引き戻さなくてはいけないと思う。
春海は今、ずっと、遠い何処かに想いを馳せ続けているから。
春海の背中から離れて、窓と、春海の間に立つ。
それからしゃがみ込みと、ぼーっとしてた、春海と目が合う。泣いて赤い、目が見える。
目は、合っているのに、俺を見ていないような目をしている。
だから春海の手を取って、俺の胸元に当てさせる。
俺は、生きているぞ。
俺は、ここに居るぞ。
お前も、生きていて。
お前も、ここに居るんだぞ。
お互い、何も言わないけれど。
俺の言いたいことが伝わったのか、春海の手に、意思が宿る。
俺の胸元にしっかりと手を当てて、俺の鼓動を、感じている。
やがて、胴に腕が回されて。
引き寄せられて、胸元に、春海の耳が当てられる。
その頭を撫でると、春海が小さく笑う。
「……速くなった」
「うるせえ」
「ふふ」
春海が、戻って来た。
春海の意識が、今、ここに。
安心して、静かに息を吐くと。
春海の小さな、ありがとう、という声が聞こえた。
同じ布団で、ただ、抱き合って眠った。
疲れもあってか、すぐに眠った春海の寝息を、俺は暫く、聞いていた。
気が付くと朝で、春海が傍に居なくて。
焦って飛び起きると、隣の部屋で、春海は座っていた。
「おはよう」
「……おはよ」
バクバク鳴る心臓を、胸の上から押さえ付ける。
居なくなったのかと、本気で焦った。
隣に座ると、春海は窓の外を見る。
「雨だよ」
昨日、星空を隠していた雲は、雨雲だったのか、今は激しい雨を降らせていて。
眠そうな春海が、その様を見ている。
「いつから起きてたんだ」
「……結構前」
そっか、と、肩を抱き寄せる。
簡単に倒れてきた春海が、俺の肩に凭れ掛かる。
「眠くなったら寝ていいぞ」
「……うん、ありがとう」
それからすぐに寝息が聞こえて、暫くしてから、春海の頭を俺の膝に移した。
そのまま俺も、雨を見ていた。
少しすると、春海が起きる。
その直後に遠くの方で電話の音がして、驚く。
春海は慣れた様子で母屋の方へ行くから、俺も、着いて行く。
やがてたどり着いた電話の側で、春海は迷うこと無く受話器を取って。
「はい……うん、分かった。気を付けてね」
そう、短いやり取りで、電話を終える。
その姿を見守っていると、春海が振り返って、ばあちゃん、と言う。
「雨で、足元悪いから、今日も泊まってくるって。冷蔵庫にある物なんでも食べてねって」
「……そっか」
頷くと、春海に抱き寄せられる。
大人しくくっつくと、その腕に力が籠もった。
「希、したい」
弱々しいお願いに、背中を擦る。
「いいよ」
俺の返事を聞いた春海の、キスが降って来た。
春海と触れ合った後、布団の中で微睡む。
雨で、暗くて時間が曖昧で、意識も疲れで、ふわふわとしている。
「イヤホンで、聴いてた雨音、覚えてる?」
「……うん」
少し穏やかさの戻った、春海の声がして。
あの雨音を思い出しながら、頷く。
俺を、周囲の噂話の声から、守ってくれた雨音。
よく覚えているし、今でも時々聴きたくなる。
「あれ、ここで録音したんだ」
「……えっ」
驚いて、覚醒する。
てっきりそういう、音源なのだと思っていたから。
「ここの雨音が好きで、持って帰りたくて。録音したやつをループ再生してた」
「……そうだったのか。確かに、落ち着く音してる」
「うん」
土砂降りなのに、静かな音だなと、初めて聴いた時に思った気がする。
不思議な魅力のある雨音だった。
持って帰りたいと思って、録音する春海の姿を想像して、その時の春海を、抱きしめたくなる。
春海は、ばあちゃんだけじゃなく、この家のことも好きなんだな。
俺も、この家の畳で、大の字になる春海を見るのが結構好きだった。
また春海が大人しくなる。
頭を撫でてやると、擦り寄って、俺の胸元に、耳を当てる春海。
やがて静かな寝息が聞こえてきて、俺も春海を抱えたまま、眠った。
目を覚ますと、春海がまだ腕の中に居て、安心する。
けれど寝息が聞こえないから、抱き寄せる。
「おはよ」
「……おはよう」
また泣いていたのか、と思う。
声が揺れていたから、心配になる。
春海の頭を撫でると、離れていた距離がゼロになる。
また、俺の心臓の音を聴く春海の様子を感じる。
「俺の心音も、録音するか」
少しふざけて言うと、頷く気配がする。
「うん、できたら良いのに」
また少し、弱った春海に戻っている。
頭を撫でて、俺も考える。
確かに、心音も、残しておけたら良いのに。
そうしたら、その人の、生きていた証になると思った。
けれど、
例えば。
春海の心音を残していたとして、春海が亡くなったとして。
そしたら、その心音に、俺は一生囚われてしまうかもしれないと思った。
ずっと、生きていた痕跡に縋って、前を向くことも、忘れることも、過去にすることもできないまま、ずっと、囚われてしまうかもしれないと。
「やっぱだめだ。毎回、俺から直接聴くに限るぞ」
そう言うと、意図が伝わったのか、分からないけれど、春海は頷いて、また、俺の心音を聴いていた。
俺はその頭を、何度も何度も、撫でていた。
暫くして、お腹が鳴るから、二人揃って台所に立つ。
冷蔵庫には食材が沢山入っていたけれど、俺達が選んだのは素麺だった。
春海が茹でて、俺はお皿等を用意する。
冷蔵庫に梅干しが入っていたから、種を抜いて、薬味の一員とした。ネギは切ってあったから、そのまま使うことにする。用意の良いばあちゃんの姿を思い出して、そのばあちゃんが今ここに居ないことを実感して、少し寂しくなる。
抜いた梅干しの種は、迷って、口に入れると、暫くして、春海が俺から直接、種を奪っていった。
学校じゃあんなに照れていたのに、今や春海自ら、直接。
感動と、感心と、少しの寂しさがあって複雑な気持ちになる。
初心な春海を見るのが少し楽しみだったから、初心さが抜けて来ている様を、嬉しくもあり、寂しくも思う。
それに。
俺は種を直接取られて驚いて、鼓動が速くなっているのに、春海は素麺の様子を見ながら、平気な顔をして種をまだ舐めているから、悔しくなる。
触れ合いで乱されるのはいつも春海の方だったのに、俺の方が乱されていて悔しい。
春海は、ずっと静かだった。
ずっと、ばあちゃんのことを考えているのだと思う。
素麺を食べたら、また離れに戻って、今度は廊下で並んで座って、雨を見ていた。
ずっと、ずっと、雨が降っている。
雨が止まないから春海の気持ちが晴れないのか、春海の気持ちが晴れないから雨が止まないのか、分からなくなる程には、雨と春海が連動しているように思う。
暫くすると、春海は俺の隣から動いて、俺の背後に回って、俺を抱き締める。
それから俺の胸元に手を当てて、掌で、俺の鼓動を感じていた。
俺の心音が気に入ったのか、聴いていないと不安なのか。その割合は、半々くらいな気がした。
「雨で何処も行けない」
「うん」
「ずっとそうなら良いのに」
「……そうだな」
静かな春海の言葉は、俺に対しての言葉なのか、ばあちゃんに対しての言葉なのか、曖昧だった。
俺は何処にも行かないぞ、って、言っても今は、春海に響かない気がしたから、ただ、大人しく、背中の春海に、体重を預けていた。
春海と一緒に、ぬるめの温度に設定した湯船に、浸かっていた。
なんとなく、離れたくなかった。
春海の傍を、離れちゃいけない気がしていた。
だから俺から、お風呂に誘った。
母屋が良いと言ったのは、春海だった。
「ばあちゃん、大丈夫かな」
湯船で、背後に居る春海に、言うとはなしに言う。
春海は俺の肩に凭れて、黙っている。
ばあちゃんの身体は、大丈夫だと思う。
けれど心は、大丈夫では無いかもしれない。
心は、身体に影響を及ぼしやすいから。
だから、心配だった。
俺が傍に居て、何かしてあげられる訳でも無いけれど。
それでも、心配くらいはさせて欲しいと思った。
この数日、ばあちゃんにとてもお世話になった。
この数日で、ばあちゃんをとても好きになった。
この数日が、ばあちゃんと過ごせて本当に良かったし、
この数日は、多分一生残る、宝物になった。
俺もばあちゃんのことを大好きになったけれど、春海はもっと、ばあちゃんのことが大好きな筈だから。
きっと、俺より何倍も、あの寂しそうなばあちゃんの姿に、ショックを受けているだろうと思った。
別れを想起させる言葉に、悲しんでいるだろうとも。
だって、俺が、悲しかったから。
「希」
「うん」
「一緒に居てくれて、ありがとう」
歪な、声がした。
悲しい気持ちを押し殺して、心配を掛けまいと笑って、でも、隠し切れていない、そんな声。
ばかだな、と思う。
淋しいって、言えば良いのに。
悲しいって、言えば良いのに。
辛いって、言えば良いのに。
抱き締めて欲しいって、言えば良いのに。
湯船の中で、振り返って、春海を抱き締める。
「笑いたくない時に、笑わなくていいんだろ」
「っ」
いつか、春海が、俺に言ってくれた言葉だ。
言ったお前が、忘れてどうする。
頭を撫でてやると、肩に熱い雫が流れる。
春海の涙が、俺の肌を伝う。
死は、何よりも悲しい別れだと思う。
大好きな人の死となれば、尚のこと。
まだばあちゃんは生きていて、元気で居て。
けれど、いつか訪れる別れを、今日、強く感じて。
春海が、静かに泣いていた。
お通夜に行くばあちゃんを見送ってから、ずっと、どこか遠くを見ているような。
意識がここに無い様子だった春海が、漸く、泣いている。
「春海の、ばあちゃんが好きって気持ちは、ばあちゃんにちゃんと、伝わってると思うぞ」
「っ、うん」
たった数日、一緒に過ごした俺でも分かったんだ。
二人はお互い、大切に想い合っている。
ちゃんと、ばあちゃんも分かってるさ。
俺も、ちゃんと、分かっている。
春海が落ち着く頃には、湯船のお湯も少し冷めていて。
お風呂から上がって、離れに戻る。
今日も星空を見ようとしたけれど、今日は厚い雲に覆われていて、見えなくて。
月明かりが無いから暗くて、ばあちゃんの居ない家は、何故か、寒い気がした。
「春海」
ぼーっと、窓の外を見ている春海を呼ぶ。
泣き疲れたのか、お風呂上がり以降、春海は大人しくて。
呼んでも身動ぎするだけで、こちらを見ない。
だから背中から、抱き締める。
相当堪えてるんだな、と、ただ抱き締める。
手を取ると、ひんやりと冷たくて。
俺の熱を移すように、握り込む。
すると春海も握り返してくるけれど、その力は、弱々しくて。
春海を、今、ここに、引き戻さなくてはいけないと思う。
春海は今、ずっと、遠い何処かに想いを馳せ続けているから。
春海の背中から離れて、窓と、春海の間に立つ。
それからしゃがみ込みと、ぼーっとしてた、春海と目が合う。泣いて赤い、目が見える。
目は、合っているのに、俺を見ていないような目をしている。
だから春海の手を取って、俺の胸元に当てさせる。
俺は、生きているぞ。
俺は、ここに居るぞ。
お前も、生きていて。
お前も、ここに居るんだぞ。
お互い、何も言わないけれど。
俺の言いたいことが伝わったのか、春海の手に、意思が宿る。
俺の胸元にしっかりと手を当てて、俺の鼓動を、感じている。
やがて、胴に腕が回されて。
引き寄せられて、胸元に、春海の耳が当てられる。
その頭を撫でると、春海が小さく笑う。
「……速くなった」
「うるせえ」
「ふふ」
春海が、戻って来た。
春海の意識が、今、ここに。
安心して、静かに息を吐くと。
春海の小さな、ありがとう、という声が聞こえた。
同じ布団で、ただ、抱き合って眠った。
疲れもあってか、すぐに眠った春海の寝息を、俺は暫く、聞いていた。
気が付くと朝で、春海が傍に居なくて。
焦って飛び起きると、隣の部屋で、春海は座っていた。
「おはよう」
「……おはよ」
バクバク鳴る心臓を、胸の上から押さえ付ける。
居なくなったのかと、本気で焦った。
隣に座ると、春海は窓の外を見る。
「雨だよ」
昨日、星空を隠していた雲は、雨雲だったのか、今は激しい雨を降らせていて。
眠そうな春海が、その様を見ている。
「いつから起きてたんだ」
「……結構前」
そっか、と、肩を抱き寄せる。
簡単に倒れてきた春海が、俺の肩に凭れ掛かる。
「眠くなったら寝ていいぞ」
「……うん、ありがとう」
それからすぐに寝息が聞こえて、暫くしてから、春海の頭を俺の膝に移した。
そのまま俺も、雨を見ていた。
少しすると、春海が起きる。
その直後に遠くの方で電話の音がして、驚く。
春海は慣れた様子で母屋の方へ行くから、俺も、着いて行く。
やがてたどり着いた電話の側で、春海は迷うこと無く受話器を取って。
「はい……うん、分かった。気を付けてね」
そう、短いやり取りで、電話を終える。
その姿を見守っていると、春海が振り返って、ばあちゃん、と言う。
「雨で、足元悪いから、今日も泊まってくるって。冷蔵庫にある物なんでも食べてねって」
「……そっか」
頷くと、春海に抱き寄せられる。
大人しくくっつくと、その腕に力が籠もった。
「希、したい」
弱々しいお願いに、背中を擦る。
「いいよ」
俺の返事を聞いた春海の、キスが降って来た。
春海と触れ合った後、布団の中で微睡む。
雨で、暗くて時間が曖昧で、意識も疲れで、ふわふわとしている。
「イヤホンで、聴いてた雨音、覚えてる?」
「……うん」
少し穏やかさの戻った、春海の声がして。
あの雨音を思い出しながら、頷く。
俺を、周囲の噂話の声から、守ってくれた雨音。
よく覚えているし、今でも時々聴きたくなる。
「あれ、ここで録音したんだ」
「……えっ」
驚いて、覚醒する。
てっきりそういう、音源なのだと思っていたから。
「ここの雨音が好きで、持って帰りたくて。録音したやつをループ再生してた」
「……そうだったのか。確かに、落ち着く音してる」
「うん」
土砂降りなのに、静かな音だなと、初めて聴いた時に思った気がする。
不思議な魅力のある雨音だった。
持って帰りたいと思って、録音する春海の姿を想像して、その時の春海を、抱きしめたくなる。
春海は、ばあちゃんだけじゃなく、この家のことも好きなんだな。
俺も、この家の畳で、大の字になる春海を見るのが結構好きだった。
また春海が大人しくなる。
頭を撫でてやると、擦り寄って、俺の胸元に、耳を当てる春海。
やがて静かな寝息が聞こえてきて、俺も春海を抱えたまま、眠った。
目を覚ますと、春海がまだ腕の中に居て、安心する。
けれど寝息が聞こえないから、抱き寄せる。
「おはよ」
「……おはよう」
また泣いていたのか、と思う。
声が揺れていたから、心配になる。
春海の頭を撫でると、離れていた距離がゼロになる。
また、俺の心臓の音を聴く春海の様子を感じる。
「俺の心音も、録音するか」
少しふざけて言うと、頷く気配がする。
「うん、できたら良いのに」
また少し、弱った春海に戻っている。
頭を撫でて、俺も考える。
確かに、心音も、残しておけたら良いのに。
そうしたら、その人の、生きていた証になると思った。
けれど、
例えば。
春海の心音を残していたとして、春海が亡くなったとして。
そしたら、その心音に、俺は一生囚われてしまうかもしれないと思った。
ずっと、生きていた痕跡に縋って、前を向くことも、忘れることも、過去にすることもできないまま、ずっと、囚われてしまうかもしれないと。
「やっぱだめだ。毎回、俺から直接聴くに限るぞ」
そう言うと、意図が伝わったのか、分からないけれど、春海は頷いて、また、俺の心音を聴いていた。
俺はその頭を、何度も何度も、撫でていた。
暫くして、お腹が鳴るから、二人揃って台所に立つ。
冷蔵庫には食材が沢山入っていたけれど、俺達が選んだのは素麺だった。
春海が茹でて、俺はお皿等を用意する。
冷蔵庫に梅干しが入っていたから、種を抜いて、薬味の一員とした。ネギは切ってあったから、そのまま使うことにする。用意の良いばあちゃんの姿を思い出して、そのばあちゃんが今ここに居ないことを実感して、少し寂しくなる。
抜いた梅干しの種は、迷って、口に入れると、暫くして、春海が俺から直接、種を奪っていった。
学校じゃあんなに照れていたのに、今や春海自ら、直接。
感動と、感心と、少しの寂しさがあって複雑な気持ちになる。
初心な春海を見るのが少し楽しみだったから、初心さが抜けて来ている様を、嬉しくもあり、寂しくも思う。
それに。
俺は種を直接取られて驚いて、鼓動が速くなっているのに、春海は素麺の様子を見ながら、平気な顔をして種をまだ舐めているから、悔しくなる。
触れ合いで乱されるのはいつも春海の方だったのに、俺の方が乱されていて悔しい。
春海は、ずっと静かだった。
ずっと、ばあちゃんのことを考えているのだと思う。
素麺を食べたら、また離れに戻って、今度は廊下で並んで座って、雨を見ていた。
ずっと、ずっと、雨が降っている。
雨が止まないから春海の気持ちが晴れないのか、春海の気持ちが晴れないから雨が止まないのか、分からなくなる程には、雨と春海が連動しているように思う。
暫くすると、春海は俺の隣から動いて、俺の背後に回って、俺を抱き締める。
それから俺の胸元に手を当てて、掌で、俺の鼓動を感じていた。
俺の心音が気に入ったのか、聴いていないと不安なのか。その割合は、半々くらいな気がした。
「雨で何処も行けない」
「うん」
「ずっとそうなら良いのに」
「……そうだな」
静かな春海の言葉は、俺に対しての言葉なのか、ばあちゃんに対しての言葉なのか、曖昧だった。
俺は何処にも行かないぞ、って、言っても今は、春海に響かない気がしたから、ただ、大人しく、背中の春海に、体重を預けていた。
