お風呂入る?って声が聞こえたのは、どのくらい経った頃だろう。
夢中で星空を見ていて、ほぼ、夢の中にいたような感覚だった。
だから金井と目が合って、こんな時間に、まだ傍に居られることに感動して。
金井の首に手を掛けて、引き寄せる。
「へ」
金井の驚く声が聞こえたけれど、気にせず、唇をぶつける。
倒れ込まないように、俺の側に手を付いた金井と、目が合う。
「春海」
「えっ」
「どっち、やりたいの」
「え、」
初めて名前を呼ぶ。
金井の、下の名前。
俺は、二年になったばかりの頃を思い出していた。
『春生まれだから春海(はるみ)です。海は、なんとなく付けたそうです』
自己紹介の場で、そう話していた金井のことを。
けれど金井は、
春海は。
名前を初めて呼ばれたことよりも、その後に続いた言葉の方が気になって仕方ないみたいで。
視線をあっちこっちへやって、口をパクパク、慌ただしく動かしている。
「言わないと襲うぞ」
「え、あ……ううんと」
急かしたのに、まだ言い淀む春海。
意味は伝わっていると思う。
触れ合う時、どちらが上になるか、とか。
そういう、話題。
「まあ。今じゃなくてもいい」
そう言って、俺は春海の下から抜け出す。
今じゃなくてもいい。
本当に、心から、そう思っていた。
春海のペースに合わせると決めていたから。
いじけているとかではなく、本当に。
けれど、背中から抱き付かれて動きが止まる。
その熱に、意思の込められた、力強さに。
「俺がしたいのは、希に負担が掛かる方、だから、俺も今すぐじゃなくてもいい、し、もちろん逆も、善処する」
「はは」
春海のしたいことと、配慮と、遠慮と、想い遣りが全部、詰まった言葉だった。
俺は肩にある春海の頭を撫でる。
「無理させたくない」
「分かってるよ」
「今も十分幸せ」
「うん」
ぎゅ、と身体に回った腕の力が強くなる。
その腕に手を添えながら、息を吐く。
俺は正直、なんの抵抗もなかった。
春海が望む方を叶えてやりたいと思っていて、それが今日、決まっただけで。
覚悟なんて仰々しいものは全然要らなくて、ただ、俺は春海ともっと、深く触れ合えることが嬉しかった。
梅雨が明けてから、恋人らしい触れ合いをするようになって。
だんだんと、その触れ合いを深めて来た俺達だから。
泊まりとなると、いつかはそういう時が来るだろうと、自然に思っていた。
だから分かる範囲で調べてもいたし、一応、必要な物も、持って来ていた。
春海は、まだ葛藤しているようだった。
何をそこまで、と思うけれど、過保護な春海が、俺に負担を強いるのが、相当引っかかっているのだろう。
「準備、するなら」
「うん」
「俺……が、したい」
「ぜっってぇ、嫌」
「ええっ」
そう言う気はしていた。
だからハッキリと拒否する。
むしろ、それで勢い付いたまである。
やってやるよ、完璧に。
「待ってろ」
「の、希」
風呂に行こうとするのに、でかいくっつき虫が離れない。
こっちはもう心決めてんだ、行かせろ、と思うのに、全然離れない。
「こら」
「……俺にできること、何かないかな」
「ない」
「うう」
春海の頑固なところが出始めている。
こうなったら意地でも風呂に付いてきそうだから、身体を捻って春海を捕まえる。
「お前にできるのは」
「……うん」
「俺を思いっきり、甘やかすことだろ」
「へ」
「後で愛して、ダーリン」
「……へ」
春海が放心して、腕の力を抜くので。
これ幸いと抜け出して、風呂場へ向かう。
背後から、再度、へ……という、魂でも抜けそうな声が聞こえて、笑った。
心は決めていたし、やり方を調べても居たけれど、なんせ初めてなので物凄く疲弊した。
こんな感じなのか、と、変に達観したような気持ちになる。
部屋に戻ると、春海は部屋の隅っこに居て。
「ひい」
腰にタオルだけ巻いて出て来た俺に、顔を真っ赤にしている。
そんなんで大丈夫か。これからもっと凄いことするのに、とは、流石に言わないでおく。
代わりに風呂場を指差して、行って来い、と告げる。
春海は頷いて、駆けて行き、部屋を出る最後の最後まで顔を覆っていたので笑った。
とはいえ、どうしたものか、と思う。
春海が戻るまで、どうしたものか。
俺はとりあえずTシャツだけ着て、廊下に出て、また星空を見上げる。
変わらず美しいままの光景が、少し心を落ち着かせた。
俺だって、緊張している。
好きな人と触れ合うのは初めてなのだ。
気持ちのある触れ合いは、初めてなのだ。
春海にならどんな俺だって晒しても大丈夫だと思っている。
思っては、いるけれど。
拭い去れない不安も、もちろんあって。
それは、俺が男であるとか、本当の初めてではない、ことだとか。
俺が負担の掛かる方をやるのは初めてで、そういう意味では初めて、だけれど。
キスの時にも思った、初めてではない不安が過る。
変えられないことを嘆いても、何も変わらないけれど。
あんなに真っ直ぐで、素直な春海と、同じ初めてでは無いことを苦しく思う。
『僕』なりの生き方で、後悔はしていない筈で、けれどやっぱり、春海を眩しく思うのだ。
どうしても引け目を感じてしまう。
気持ちが無くてもできてしまう行為に、意味なんてあるのかと思っていたけれど。
結局、自分自身含め、いろんな方向への申し訳なさとか、罪悪感とか、後悔、とか。
そう、俺は、後悔していた。
ノーと言わなかったことを。
ノーと、言えなかったことを。
嫌われるのが怖くて、嫌われたくなくて、全ての要求に応えていて、その中に、それがあって。
だから応えていて、けれどいつも空っぽだった。
空っぽで、何もなかった。
気持ちが無いから愛が無くて、愛の無い行為は、何も無いに等しかった。
だから心は満たされないし、何も得ないのに、経験だけが溜まっていって。
そうした、空きフォルダだけが幾つも入った、何もない、ゴミ箱みたいなものを、ずっと抱えている俺は。
やっぱり春海の様な、純粋な綺麗さは無くて、だから、汚れて思えて。
申し訳なさを、感じてしまう。
春海がそんな風になど考えていないことは分かっている。
俺は汚れているかと聞いた時、怒っていた春海を思い出す。
あれは春海の本心だったと思う。
だからこその、堂々巡り。
馬鹿だなと思う。
俺はずっと、馬鹿だったなと思う。
「希」
静かに呼ばれて、少しだけ振り返る。
来て、と言う様に片腕を広げれば、春海が寄って来る。
隣に来た春海の腰に腕を回して、寄り掛かる。
肩に春海の腕が回って、息を吐く。
「春海」
「っ、うん」
まだ下の名前で呼ばれ慣れていない、春海の声が詰まる。
俺を守る時、想いを伝える時、いつだって真っ直ぐなくせに、こうして簡単に、俺に乱される春海。
そういうところが眩しくて、そういうところが好きで、それだけじゃなくて、全部、
「好きだ」
「っえ」
突然告げるから、春海が驚いて、こちらを見るのが分かる。
俺は春海に寄り添ったまま、前を向いたまま。
「これからも多分、ずっと好きだ」
「……希?」
様子がおかしいと、思ったのだろうか。
嬉しいよりも、心配、みたいな声で、名前を呼ばれる。
けれど構わず、俺は続ける。
「嫌だったらいい、けど」
「うん」
「塗り替えて、春海」
酷、だろうか。こんなこと。
初めての春海に、こんなこと。
最低だろうか。
クズ、だろうか。
数多の経験がある癖に、初めての春海に、俺の中の全部を、塗り替えて欲しいと頼んでいる。
過去を変えることはできない、から。
だから、せめて、塗り替えて、全部を春海にして、これからも、春海で染めて欲しい。
時々、本当に分からなくなる。
幸せが何か、正しいが何か、分からなくなる。
分からないからという、言い訳のつもりはないが。
分からないからという、言い訳なのかもしれない。
何でも言えという春海の、何でもの範囲が難しい時がある。
ぎゅ、と春海のTシャツを握る。
どんな顔をしているのか、見る勇気は無かった。
これからはずっと、傍に居るから。
これからの初めては全部、春海と経験したいと思っているから。
でも。
春海が、だめだったら、嫌だったら。
それは、その時は、ちゃんと受け入れようと思っていて。
だから、腕の力を抜く。
握り締めていた、春海のTシャツを離す。
「なーんてな」
夜に似合わない、軽い声を出す。
俺なりに考えた前への進み方だったけれど、やはり押し付けがましい、残酷な願いだったかもしれない。
初めてを大切にしたいと言っていた春海に、過去がある俺はいつも迷う。
元彼が持ち出したあんなものを見ているから、俺がお付き合いの中で、どういうことをしていたのかは、春海も知っている、だろうけれど。
傷付けたくない。
でも、事実は、変えられない事実で。
けれどそれは、春海にとっては、ただの暴力でしかないのかもしれなかった。
現状で反応が無いのが、答えだろう、と。
春海の腕から抜け出して布団へ向かう。
「寝よう」
そう、明るい声を、出すと。
ず、と、鼻を啜る音が聞こえて。
泣かせて、しまった、と血の気が引く。
俺だって春海を大事にしたいのに、これまでの人を大事にしてこなかったから、表面での付き合いだったから、当たり障りのない、付き合いだったから。
いざ本当に大事にしたい時、大事にしたい今、大事にできなくて、情けない。もどかしい。申し訳ない。
春海の元へ戻ると、擦っているのは目元ではなく、口元で。
「あ、ごめん、鼻血が」
「…………え?」
今度はこっちが、魂の抜けた様な声を、出す番だった。
春海の鼻血が落ち着いたのはそれから暫くした後。
顔を洗いに行かせて、傍で背中を擦っていたけれど、なかなか止まらないから不安だった。
春海はずっと照れ笑いをしていて、笑ってる場合じゃないだろって、何度叩こうと思ったか。
水分補給する春海を眺めて、川で直射日光を浴びていたのが良くなかったのかなと考える。
春海は、希のデレがクリティカルヒットした、だの言っていたけれど。
とりあえず俺もちゃんと服を着て、春海と一緒に布団に座る。
そこでは、今日はもう寝ようと言う俺と、希の頑張りを無駄にしたくないという春海の押し問答がずっと続いていた。
「もう止まったから大丈夫」
「血が出るのは大丈夫じゃない」
「希のデレに照れただけ」
「人は照れたくらいじゃ血は出さない」
「もーーーーう」
お互い譲らないから、春海が抱き付いてきて、一時休戦となる。
俺も腕を回して、背中を撫でる。
「なかなか止まらないから心配したんだ」
「……ごめん」
「謝ることじゃない、けど、今日は寝よう」
「い、嫌だ」
「……」
譲らない。
お互い本当に、譲らない。
でも、喧嘩じゃない。
それは俺も、春海も、よく分かっていると思う。
お互いが、お互いを想い合って、譲れないでいる。
春海の抱き付く力が強くなって、髪が触れ合う。
「それに希、また考え事してた」
「……」
小さな春海の声は、この距離だから、しっかりと聞こえた。
「希はさ」
「……ん」
「俺が、初めてでごめんって言ったら、どう思う?嫌いになる?」
「……嫌いになる訳ないだろ。何言ってんだ、殴るぞ」
「ふふ、うん。それで……俺も同じなんだよ、希。希に経験があっても、無くても、男でも、女でも、全部関係ない。希が、希だから、好きなんだよ」
言い聞かせるように、温かい声で、春海が、そう言うから。
静かに静かに、涙が頬を伝う。
俺が春海を想うように、春海も俺を、思ってくれているのだと。
分かっている筈なのに、直ぐに、見失ってしまう。
春海が初めてだからと嫌いになんてなる訳がない。
春海に経験があったって、嫌いになんて、なれるわけがない。
春海が男でも、女でも関係ない。
年上でも、年下でも、関係ない。
春海が好きで、春海を好きになった。
春海だから、好きになった。
分かっていたのに、不安になって。
けれどこうして向き合って、言葉を貰って、気持ちを再確認して。
不安は、影を潜めて、小さくなる。
霧散して、消えて無くなる訳ではないけれど。
我慢などではなく、ちゃんと、納得をして、小さくなった。
返事をする様に、腕に力を込めると、背中を優しく撫でられる。
「……ん」
分かった、の意味を込めて頷くと、頭も軽く、撫でられる。
「それに、嬉しかった、塗り替えてって。すぐに返事できなくてごめん、不安にさせた。好きな人に、希に、そんな風に言ってもらえるなんて、これ以上無いくらい、光栄なことだって噛み締めてたら……鼻血出てた」
「……そこだけは、まだ理解できてない」
「っふふごめん」
笑いながら離れていった春海は、俺の頬を見て、優しく拭う。
もう涙は出ていなくて、だから一度拭えば終わりのはずなのに、そのまま何度も、頬を指が往復する。
春海は、変わらず穏やかな顔をしていて。
その指先から、愛しいという気持ちが伝わってきて。
俺の願いは、光栄だと、言ってもらえた、それなら。
「塗り替えて、春海。俺も、全部あげる」
「……うん」
感極まって、少し泣きそうな、春海のキスが降って来る。
受け止めて、俺も唇を食む。
長い、長い夜が、始まろうとしていた。
夢中で星空を見ていて、ほぼ、夢の中にいたような感覚だった。
だから金井と目が合って、こんな時間に、まだ傍に居られることに感動して。
金井の首に手を掛けて、引き寄せる。
「へ」
金井の驚く声が聞こえたけれど、気にせず、唇をぶつける。
倒れ込まないように、俺の側に手を付いた金井と、目が合う。
「春海」
「えっ」
「どっち、やりたいの」
「え、」
初めて名前を呼ぶ。
金井の、下の名前。
俺は、二年になったばかりの頃を思い出していた。
『春生まれだから春海(はるみ)です。海は、なんとなく付けたそうです』
自己紹介の場で、そう話していた金井のことを。
けれど金井は、
春海は。
名前を初めて呼ばれたことよりも、その後に続いた言葉の方が気になって仕方ないみたいで。
視線をあっちこっちへやって、口をパクパク、慌ただしく動かしている。
「言わないと襲うぞ」
「え、あ……ううんと」
急かしたのに、まだ言い淀む春海。
意味は伝わっていると思う。
触れ合う時、どちらが上になるか、とか。
そういう、話題。
「まあ。今じゃなくてもいい」
そう言って、俺は春海の下から抜け出す。
今じゃなくてもいい。
本当に、心から、そう思っていた。
春海のペースに合わせると決めていたから。
いじけているとかではなく、本当に。
けれど、背中から抱き付かれて動きが止まる。
その熱に、意思の込められた、力強さに。
「俺がしたいのは、希に負担が掛かる方、だから、俺も今すぐじゃなくてもいい、し、もちろん逆も、善処する」
「はは」
春海のしたいことと、配慮と、遠慮と、想い遣りが全部、詰まった言葉だった。
俺は肩にある春海の頭を撫でる。
「無理させたくない」
「分かってるよ」
「今も十分幸せ」
「うん」
ぎゅ、と身体に回った腕の力が強くなる。
その腕に手を添えながら、息を吐く。
俺は正直、なんの抵抗もなかった。
春海が望む方を叶えてやりたいと思っていて、それが今日、決まっただけで。
覚悟なんて仰々しいものは全然要らなくて、ただ、俺は春海ともっと、深く触れ合えることが嬉しかった。
梅雨が明けてから、恋人らしい触れ合いをするようになって。
だんだんと、その触れ合いを深めて来た俺達だから。
泊まりとなると、いつかはそういう時が来るだろうと、自然に思っていた。
だから分かる範囲で調べてもいたし、一応、必要な物も、持って来ていた。
春海は、まだ葛藤しているようだった。
何をそこまで、と思うけれど、過保護な春海が、俺に負担を強いるのが、相当引っかかっているのだろう。
「準備、するなら」
「うん」
「俺……が、したい」
「ぜっってぇ、嫌」
「ええっ」
そう言う気はしていた。
だからハッキリと拒否する。
むしろ、それで勢い付いたまである。
やってやるよ、完璧に。
「待ってろ」
「の、希」
風呂に行こうとするのに、でかいくっつき虫が離れない。
こっちはもう心決めてんだ、行かせろ、と思うのに、全然離れない。
「こら」
「……俺にできること、何かないかな」
「ない」
「うう」
春海の頑固なところが出始めている。
こうなったら意地でも風呂に付いてきそうだから、身体を捻って春海を捕まえる。
「お前にできるのは」
「……うん」
「俺を思いっきり、甘やかすことだろ」
「へ」
「後で愛して、ダーリン」
「……へ」
春海が放心して、腕の力を抜くので。
これ幸いと抜け出して、風呂場へ向かう。
背後から、再度、へ……という、魂でも抜けそうな声が聞こえて、笑った。
心は決めていたし、やり方を調べても居たけれど、なんせ初めてなので物凄く疲弊した。
こんな感じなのか、と、変に達観したような気持ちになる。
部屋に戻ると、春海は部屋の隅っこに居て。
「ひい」
腰にタオルだけ巻いて出て来た俺に、顔を真っ赤にしている。
そんなんで大丈夫か。これからもっと凄いことするのに、とは、流石に言わないでおく。
代わりに風呂場を指差して、行って来い、と告げる。
春海は頷いて、駆けて行き、部屋を出る最後の最後まで顔を覆っていたので笑った。
とはいえ、どうしたものか、と思う。
春海が戻るまで、どうしたものか。
俺はとりあえずTシャツだけ着て、廊下に出て、また星空を見上げる。
変わらず美しいままの光景が、少し心を落ち着かせた。
俺だって、緊張している。
好きな人と触れ合うのは初めてなのだ。
気持ちのある触れ合いは、初めてなのだ。
春海にならどんな俺だって晒しても大丈夫だと思っている。
思っては、いるけれど。
拭い去れない不安も、もちろんあって。
それは、俺が男であるとか、本当の初めてではない、ことだとか。
俺が負担の掛かる方をやるのは初めてで、そういう意味では初めて、だけれど。
キスの時にも思った、初めてではない不安が過る。
変えられないことを嘆いても、何も変わらないけれど。
あんなに真っ直ぐで、素直な春海と、同じ初めてでは無いことを苦しく思う。
『僕』なりの生き方で、後悔はしていない筈で、けれどやっぱり、春海を眩しく思うのだ。
どうしても引け目を感じてしまう。
気持ちが無くてもできてしまう行為に、意味なんてあるのかと思っていたけれど。
結局、自分自身含め、いろんな方向への申し訳なさとか、罪悪感とか、後悔、とか。
そう、俺は、後悔していた。
ノーと言わなかったことを。
ノーと、言えなかったことを。
嫌われるのが怖くて、嫌われたくなくて、全ての要求に応えていて、その中に、それがあって。
だから応えていて、けれどいつも空っぽだった。
空っぽで、何もなかった。
気持ちが無いから愛が無くて、愛の無い行為は、何も無いに等しかった。
だから心は満たされないし、何も得ないのに、経験だけが溜まっていって。
そうした、空きフォルダだけが幾つも入った、何もない、ゴミ箱みたいなものを、ずっと抱えている俺は。
やっぱり春海の様な、純粋な綺麗さは無くて、だから、汚れて思えて。
申し訳なさを、感じてしまう。
春海がそんな風になど考えていないことは分かっている。
俺は汚れているかと聞いた時、怒っていた春海を思い出す。
あれは春海の本心だったと思う。
だからこその、堂々巡り。
馬鹿だなと思う。
俺はずっと、馬鹿だったなと思う。
「希」
静かに呼ばれて、少しだけ振り返る。
来て、と言う様に片腕を広げれば、春海が寄って来る。
隣に来た春海の腰に腕を回して、寄り掛かる。
肩に春海の腕が回って、息を吐く。
「春海」
「っ、うん」
まだ下の名前で呼ばれ慣れていない、春海の声が詰まる。
俺を守る時、想いを伝える時、いつだって真っ直ぐなくせに、こうして簡単に、俺に乱される春海。
そういうところが眩しくて、そういうところが好きで、それだけじゃなくて、全部、
「好きだ」
「っえ」
突然告げるから、春海が驚いて、こちらを見るのが分かる。
俺は春海に寄り添ったまま、前を向いたまま。
「これからも多分、ずっと好きだ」
「……希?」
様子がおかしいと、思ったのだろうか。
嬉しいよりも、心配、みたいな声で、名前を呼ばれる。
けれど構わず、俺は続ける。
「嫌だったらいい、けど」
「うん」
「塗り替えて、春海」
酷、だろうか。こんなこと。
初めての春海に、こんなこと。
最低だろうか。
クズ、だろうか。
数多の経験がある癖に、初めての春海に、俺の中の全部を、塗り替えて欲しいと頼んでいる。
過去を変えることはできない、から。
だから、せめて、塗り替えて、全部を春海にして、これからも、春海で染めて欲しい。
時々、本当に分からなくなる。
幸せが何か、正しいが何か、分からなくなる。
分からないからという、言い訳のつもりはないが。
分からないからという、言い訳なのかもしれない。
何でも言えという春海の、何でもの範囲が難しい時がある。
ぎゅ、と春海のTシャツを握る。
どんな顔をしているのか、見る勇気は無かった。
これからはずっと、傍に居るから。
これからの初めては全部、春海と経験したいと思っているから。
でも。
春海が、だめだったら、嫌だったら。
それは、その時は、ちゃんと受け入れようと思っていて。
だから、腕の力を抜く。
握り締めていた、春海のTシャツを離す。
「なーんてな」
夜に似合わない、軽い声を出す。
俺なりに考えた前への進み方だったけれど、やはり押し付けがましい、残酷な願いだったかもしれない。
初めてを大切にしたいと言っていた春海に、過去がある俺はいつも迷う。
元彼が持ち出したあんなものを見ているから、俺がお付き合いの中で、どういうことをしていたのかは、春海も知っている、だろうけれど。
傷付けたくない。
でも、事実は、変えられない事実で。
けれどそれは、春海にとっては、ただの暴力でしかないのかもしれなかった。
現状で反応が無いのが、答えだろう、と。
春海の腕から抜け出して布団へ向かう。
「寝よう」
そう、明るい声を、出すと。
ず、と、鼻を啜る音が聞こえて。
泣かせて、しまった、と血の気が引く。
俺だって春海を大事にしたいのに、これまでの人を大事にしてこなかったから、表面での付き合いだったから、当たり障りのない、付き合いだったから。
いざ本当に大事にしたい時、大事にしたい今、大事にできなくて、情けない。もどかしい。申し訳ない。
春海の元へ戻ると、擦っているのは目元ではなく、口元で。
「あ、ごめん、鼻血が」
「…………え?」
今度はこっちが、魂の抜けた様な声を、出す番だった。
春海の鼻血が落ち着いたのはそれから暫くした後。
顔を洗いに行かせて、傍で背中を擦っていたけれど、なかなか止まらないから不安だった。
春海はずっと照れ笑いをしていて、笑ってる場合じゃないだろって、何度叩こうと思ったか。
水分補給する春海を眺めて、川で直射日光を浴びていたのが良くなかったのかなと考える。
春海は、希のデレがクリティカルヒットした、だの言っていたけれど。
とりあえず俺もちゃんと服を着て、春海と一緒に布団に座る。
そこでは、今日はもう寝ようと言う俺と、希の頑張りを無駄にしたくないという春海の押し問答がずっと続いていた。
「もう止まったから大丈夫」
「血が出るのは大丈夫じゃない」
「希のデレに照れただけ」
「人は照れたくらいじゃ血は出さない」
「もーーーーう」
お互い譲らないから、春海が抱き付いてきて、一時休戦となる。
俺も腕を回して、背中を撫でる。
「なかなか止まらないから心配したんだ」
「……ごめん」
「謝ることじゃない、けど、今日は寝よう」
「い、嫌だ」
「……」
譲らない。
お互い本当に、譲らない。
でも、喧嘩じゃない。
それは俺も、春海も、よく分かっていると思う。
お互いが、お互いを想い合って、譲れないでいる。
春海の抱き付く力が強くなって、髪が触れ合う。
「それに希、また考え事してた」
「……」
小さな春海の声は、この距離だから、しっかりと聞こえた。
「希はさ」
「……ん」
「俺が、初めてでごめんって言ったら、どう思う?嫌いになる?」
「……嫌いになる訳ないだろ。何言ってんだ、殴るぞ」
「ふふ、うん。それで……俺も同じなんだよ、希。希に経験があっても、無くても、男でも、女でも、全部関係ない。希が、希だから、好きなんだよ」
言い聞かせるように、温かい声で、春海が、そう言うから。
静かに静かに、涙が頬を伝う。
俺が春海を想うように、春海も俺を、思ってくれているのだと。
分かっている筈なのに、直ぐに、見失ってしまう。
春海が初めてだからと嫌いになんてなる訳がない。
春海に経験があったって、嫌いになんて、なれるわけがない。
春海が男でも、女でも関係ない。
年上でも、年下でも、関係ない。
春海が好きで、春海を好きになった。
春海だから、好きになった。
分かっていたのに、不安になって。
けれどこうして向き合って、言葉を貰って、気持ちを再確認して。
不安は、影を潜めて、小さくなる。
霧散して、消えて無くなる訳ではないけれど。
我慢などではなく、ちゃんと、納得をして、小さくなった。
返事をする様に、腕に力を込めると、背中を優しく撫でられる。
「……ん」
分かった、の意味を込めて頷くと、頭も軽く、撫でられる。
「それに、嬉しかった、塗り替えてって。すぐに返事できなくてごめん、不安にさせた。好きな人に、希に、そんな風に言ってもらえるなんて、これ以上無いくらい、光栄なことだって噛み締めてたら……鼻血出てた」
「……そこだけは、まだ理解できてない」
「っふふごめん」
笑いながら離れていった春海は、俺の頬を見て、優しく拭う。
もう涙は出ていなくて、だから一度拭えば終わりのはずなのに、そのまま何度も、頬を指が往復する。
春海は、変わらず穏やかな顔をしていて。
その指先から、愛しいという気持ちが伝わってきて。
俺の願いは、光栄だと、言ってもらえた、それなら。
「塗り替えて、春海。俺も、全部あげる」
「……うん」
感極まって、少し泣きそうな、春海のキスが降って来る。
受け止めて、俺も唇を食む。
長い、長い夜が、始まろうとしていた。
