隣に座っている人と挨拶も交わさない大学生活も慣れてきた。
慣れないのは、人と話すこと。
極度の人見知りは新学期で、存分に発揮された。
講義が一新されてしまったことで、せっかく話せるようになった人と会う機会がグッと減り、それに伴って人と話すことも減った。
選択授業で仲良くなれた人たちを見つけても新たな交友関係を築き上げていて……気づけばひとりぼっちになっている。
手結という名前の通り、手を結ぶ動作をさせた。
俯いた視線に捉えた隣の男が気になって仕方ない。
赤に黒のラインが何本か入ったスニーカー。俺の履いている靴と見比べる。
「……靴、おんなじ」
視界に入った俺のものではない靴に、呟きを溢した。
関西弁お決まりの【や】が語尾に付いていなくても、靴という単語ひとつでイントネーションが上下し訛りが生じる。
関東に上京して約三年、友達と呼べるほど仲のいい人はいない。
関西にいたときの友人が同じく上京しているけど、同じ大学にはおらず、ここではひとり。
上京して一年が過ぎたころ、久しぶりに東京で再会した関西にいたときの友人の訛りが薄れていて『手結といると大阪に戻った気分だ』と言われた。
ただの感想だとわかっていてもそれほど馴染めていないと感じさせ、複雑な気持ちになったのを覚えている。
——……嫌やな。
そう思って、言い方を直そうとした時期はあったが、もうこの関西弁を直す気はない。
スニーカーを眺めながら自分の足を少し揺らしてみる。
——うれしい。
「ほんとだ! マジ偶然!」
独り言としてこぼした言葉に反応されると思ってもいなくて、自分の世界から引き戻される。
もちろん会話など考えていなかった。
「あ、う、えっと……そう、やね」
顔を上げてようやく見れた男の顔は、ハッとするほど目鼻立ちのハッキリとした人物。さらさらとした黒髪が揺れる。
——かっこいい……
かっこいいし、返事してくれたことに胸がキュッと反応しうれしくなった。
すると「ふっ」という空気が多めの微笑をされる。
からかわれていると返事したことを後悔した。
——何言うてん……調子乗ったわ……
また今年も馴染むことはできないんやろうなと、自分の情けなさため息ついたときだった。
「おそろっちー!」
「おそろっち……」
漫画の中でしか聞いたことない言葉に復唱してしまう。
すると、男は口を閉じたまま口角だけを上げ目尻は下がる。その優しそうな表情にトッと心臓が早くなる。
「名前は?」
聞かれると思ってもなかったから、何も考えずに先に出たのは下の名前。
「手結……西賀手結。三年です」
「手結! 先輩?!」
ハッキリと発音させて下の名前で呼ばれたことで、目に開きを感じた。
思ったより動揺しているのかもしれない。
——つい下の名前を先に言ってしまったのは俺やけど……その距離感は困る。
「俺は真清! 安東真清です!」
「真清」
俺を真似て、下の名前から言われる。
——いや、真清も下の名前で呼ばれることが多いからか。
真清、真清……心のなかで繰り返す名前は、真清が入学したときから知っていた。
——ずっと目で追いかけていたから。
あの時から、俺にとって真清はヒーローみたいな存在。
大袈裟と他人に言われるかもしれないが、それほどに救われたのだ。
真清はひとりでいる姿を一切見たことがないくらい男女問わず囲まれているような陽キャ。遠くで見てることしかできなかった。
見てるだけで満足していた。
——でも……せっかく話せたんに、ここで“さようなら”したらまたおんなじことになんねん。
人見知りな性格だからといって、ここで引き下がれる性格ではない。
単に話すのに時間がかかるだけだ。
——俺やって話せるし。
と、意気込んでも俺から話しかけるまでは時間がかかった。
それでも運のいいことに一回話した次の週の同じ講義で、真清に話しかけられる。
「手結先輩。隣いいですか?」
「うん」
前の席も後ろの席も空いているのに、俺の隣で講義を聞く。
真清の隣にいるなんて、後期がどうなるか、不安でたまらなかった数週間前の俺が考えもつかなかったことだ。
ぼうっと教授の声に耳を傾けていると、俺の方へ身体を傾けた真清に小声で話しかけられる。
「この講義、難しいですね」
「そうやね」
俺が返事しかできなくても、真清は続けて話してくれる。
——講義中やけど……
「週の真ん中で、しかも一限だから余計キツいです……」
項垂れて机に頭を乗っけると、こちらを仰ぎ見る。なんだか大型犬が伏せをしてるみたいに見えてしまった。
言葉は出ないのに、手が真清の髪の毛に触れたくて微量に動く。
——ダメ。
俺は必死に意識を会話に戻した。
「たしかに一限はキツいな」
「先輩、全然平気そー」
真清が前の席にまで届きそうなほど長い足を伸ばす。
机から飛び出た先にある靴を視界が捉えた。
青を基調とした中に白いラインのある靴。
——今日は違うんや。
真清はいつも同じ靴を履いてくるというわけではなかった。むしろ、毎日変わるくらいだ。
——たまたま隣に座って同じ靴を履いていたなんて……
思い出しては勝手にうれしくなってしまう。
——あの日が、まだ後期が始まったばかりで良かった。
この講義をとった人が内容が難しいと、どんどん人が減っていった後だったら……多分、隣には座ってなかった。
「真清」
「はい? なんですか?」
「講義が難しくても、俺がおるから……」
——だからこの時間だけは一緒にいたい。
「なに、それ……」
「来なくなったら寂しいってことや」
水曜の一限しか話せない後輩。
この時間だけが唯一話せる時間だ。
話し初めてから、何度か廊下で男女に囲まれている真清を見たけど話しかけられることは叶わなかった。
——真清も俺に話しかけなかった。
俺は真清にとって、いろんな人と話してるうちのひとりでしかない。
——それでもいい。
現状、水曜一限があるおかげで話せなくなるということがないから、少し前の俺よりはかなりの進歩だ。
講義が始まる四十分も前に到着してしまった教室には誰もいない。
——漫画読みすぎて眠れへんかった。
毎週同じ席に座る。
まだ時間があるし、隣に来るとしたら真清だ。
時間の余裕よりも真清しか来ないだろうという安心感の方が強く、俺は顔を伏せてうとうとする。
「先輩?」
——真清の声……起きなあかん。
もう講義の時間なんか。
すると俺の心を読むように、言われる。
「まだ時間じゃないですよ」
「う、ん……?」
寝ぼけて頭が回らない。
——まだ時間じゃないん?
どれくらい寝ていたのか知りたくて身体を起こす。
「寝ててもいいのに」
薄目の隙間から見えた優しく笑う真清が見えた。
思わず目を逸らし、スマホを傾けた。
——八時五十分。
あと十分で講義は始まるし終われば真清は、友人たちの輪に交じってしまう。
「もう時間やん」
「え? 十分もありますよ」
笑いながら「先輩の時間感覚わかんないー」と言われる。
俺は真清だから十分しかないと思うだけ。
——この講義以外の十分はめっちゃ長く感じんねん。
俺にとって真清は、ヒーローのような人で憧れでもある。
後輩とか関係なくて憧れていた人と話せるうれしさから、少しでも長くただそばにいたい。
——『ただそばにいたい』?
自分で思った感情に戸惑う。
見ているだけ、話せているだけで満足しそうになっていたなんて嘘みたいに欲が出てきてしまう。
——なんで?
よくわからない感情を隅に置き、講義のためにノートパソコンを引っ張り出している横で、タブレットを開く真清がいる。
いつもはノートに手書きだったはずだ。
——タブレットにしたんか?
俺がジッと見ていると、真清に気づかれた。
「あ、見てください。タブレットにしたんですよー。パソコンもあるんですけど、重くて持ってくるのめんどくなっちゃいました。最近、友人がタブレットに直接書き込んでるの見て、『それいい!』ってなったんですよね」
「へぇ」
「学校終わりに遊びにいく時も快適です!」
真清のカバンは、タブレット以外に何が入れられるんだ? というレベルに小さいし、確かにパソコンは重たい。
——帰りに遊びに行く真清にとっては、そっちのがええんやろな。
「あ、遊んでるだけじゃないですよ? バイトもしてます!」
相槌も打たずにいたためか、焦りをあらわにする。
——遊んでることくらい知ってるし、俺が何か言う権利なんてないんやから焦らんでもええのに。
まるで自分のことを知ってほしいと主張するように言われた気分になった。
——真清は意識なんてしてないんやろうけど……
「なんも言ってないやん。タブレットもええなって思っただけや」
それと友人間の情報共有に少し羨ましくなったなんて言えない。と、教授が教室に入ってくる。
「あ、時間ですね」
「そうやね」
十分で意外と会話ができるものなのだと驚かされた。
俺は椅子に背を押し付けて伸びをする。
真清の交友関係に羨ましく思えて、行動力に驚かされて……。
タブレットにした理由ひとつで色んな感情が混ざり合うとか変な感じだ。
自然と真清に意識が向くとともに、視線を向けてしまう。
それに気がついたのか、真清も一緒になって椅子に背をつけて視線を合わせてくる。
「先輩どうしたんですか?」
「十分で真清のこと知れて充実した時間になったから、案外短くないねんなって」
言葉にしてから、うれしかったのは真清のことを知りたかったんだと自分の気持ちを理解できた。
満足した俺は背筋を伸ばしパソコンと向き合う。
しかし真清は椅子にもたれかかったまま、戻ってこなかった。
——俺、変なこと言ったか?
もしそうだとしたら、どんな顔をすればいいのか分からない。
真清にどう思われたのか意識すればするだけ気になってしまいそうで、俺は講義に齧り付いた。
集中した講義は時間が過ぎるのが早く、途中で真清が身体を起こしたことに気がつかないくらいだ。
今日は珍しく講義が終わっても、真清は教室から出て行かない。
——やっぱり俺なんか言っちゃったんか?
「あーー」
真清が突如出した気だるそうな声に、びくりとする。
「な、なに?」
「友達が遊びに行くって言ったのに間に合わないらしいんで暇なんですよー」
「そうなんや」
「手結先輩、二限ないですもんね」
俺はいつも真清が教室を出た後に、ダラダラ帰宅する。
——なんで知ってん……
「ないな」
「おしゃべりしましょーよ!」
「ええけど……」
——廊下に出れば俺以外に友人めっちゃおるやろ……という言葉は飲み込んだ。
「先輩て何専攻してるんですか?」
「マーケやで」
「もうすぐで希望専攻出さなきゃいけないんですけど、マジ迷ってるんすよね」
「専攻か。懐かしいな」
聞ける先輩もいなくて、複数ある専攻のどれを選べば良いのか右も左も分からなかったのを思い出す。
結局、興味だけで選んだのがマーケと呼ばれているマーケティング専攻だ。
スーパーで目に入った商品が俺だけではなく、ほかのお客さんにも興味を持たれる仕組みがおもろそうと思っていたからだ。
「一年くらい前の話ですよね⁉︎ 懐かしいんですか?」
驚かれるのも無理はない。
興味の持ったものにしたからなんとかなってるが、他の専攻よりも忙しい、らしい。
当然のことながら、忙しさを比べる人はいないので噂程度のことだ。
「最近は専攻取ってる講義が多いせいで、なかったときのことの方が懐かしく思えんねん」
「そういうもんです?」
「多分」
そもそも語り合う友達がおらん。とは、言えなかった。
真清は友人以外にも先輩の知り合いも俺だけじゃなくて、どんな専攻が忙しいとか厳しい教授の話しとか知っているんだろうな。
俺の交友関係が広かったら、もっと真清に教えてあげられるんに……
憧れてるだけとか思ってても、心のどこかでやっぱり先輩でいたいのかもしれない。
そう思うと情けなくて仕方なかった。
——そんな俺と一緒にいるの真清はええんやろうか。
廊下に一歩出てしまえば友人とかいるはずなのに、俺と話すことを選んでくれた真清の気持ちが気になって仕方ない。
「もしかして帰りたいですか?」
俺がどんな顔をしていたのか全く分からなかったけど、勘違いさせてしまう表情でもしていたのだろう。
「ちゃうちゃう! 変な感じやなって思ってた」
「嫌ってこと?」
——んなわけないやん。
「講義の時間以外で話さへんかったから」
「無理してないです?」
「してるわけないですやん」
俺は思わず笑ってしまった。
真清は少し目を見開くと口を開いた。
「なんか先輩て……」
「なんや?」
「あ、いや、おとなしい人だと勝手に思ってました」
「あー、よう言われんねん。思ってたんとちゃうって」
人見知りだから、初めからこのテンションでは話せないだけだ。
慣れてしまえば、そこまで緊張はしないし笑って話せる。
——まぁ、大学の講義で話した人たちとは慣れるところまで行かなかったから、高校生までの話しやけど。
『思ってたんとちゃう』的なことは言われたのはこれが初めてではない。そういうものだと受け入れているが、褒められているわけでもない。言ってきた人が嬉しそうにするわけでもないから、どんな気持ちで言ってきてるんやろ。くらいには思っていた。
しかしその気持ちまで話してくれる人はいなかったため、真清から出た言葉に驚かされる。
「思ってたのとというか初めの頃と印象違うなーみたいな……嫌とか全くないですよ?」
——この話し続くんか……
「どっちかというか、心開いてくれてるみたい」
「心は開いてんで。元々、真清のことは知っとったし」
真清に「えっ? どういうことですか?」と問われ、「自分、有名なんに気づいてへんのか」と事実半分嘘半分を伝えた。
——ほんとは真清の入学式から知ってんねん。
俺は有名じゃないですよ、とか笑って流される程度の話のつもりだったのだが、真清の反応は俺が思っていたものとは全く別の方向だった。
「他の人にも心開いてるんですか?」
「他の人ってなんや。そんなこと気にしてどうすんねん」
「俺はただの人見知りやし……話せるまで時間かかるだけや」と俺が続けると、眉間にシワを寄せる。
「俺だけが知ってたいって思ってしまいました」
「なんの話しやねん」
俺が他の人と話しているのを見たこともないはずだ。そんなこと気にして何になんねん。
「なんの話……わからないです。ただ気になっただけですもん」
ツンと唇を突き出して不満そうに見えるのに、首を傾ける真清は不思議そうにしている。
そして、なぜか俺の話が続く。
「先輩」
「今度はなんや」
「標準語移らないんですか?」
「友達は移ってるけど、俺は……特に移ってへんと思う」
百八十度変わった会話についていけるか一瞬不安になった。ただ、真清が聞き上手かつ話し上手だから、あんまり緊張していない。
「そうなんですね。俺の関西にいた友人は、めっちゃ標準語になったんで先輩も移っちゃわないかなーって思いました」
「『めっちゃ』って、逆に移ってんで」
俺が笑うと、真清が今は関東でも使われてますから。と流し目になる。
——それにしてはイントネーションまで完璧やったな。
俺とよく話すようになったから、移った可能性を考えたら少しうれしくなった。
すると、俺たちしかいない教室に騒がしい声が飛んでくる。
「真清ー! まじごめん‼︎」
「遊びに行くって言ったのどこの誰だよ」
「起きれなかったんだよ。学食奢るから許して」
「本日の定食な」
俺との会話よりテンポが速い。ポンポンと出てくる言葉は、真清と今来た真清の友人を行き来して、俺は静かにする。
——無理してるんは、真清ちゃうか? でも、話しかけてきたのは真清やし。
蚊帳の外状態になった俺を気に掛けられることなく真清が席を立ち上がる。
「先輩、また来週!」
俺はうんともすんとも答えられなかった。
ふたりなら大丈夫になれてきたけど、それ以上の人数の前では話せない。
でも真清と講義の前以外でこんなに話せたのは、というか大学でこんなに話せたと思うと俺は、会話をできたということだけで口元がゆるりと上がっていく。色々話せた。ただ、その中でも、引っかかることがあった。
「『標準語移らないんですか?』か……」
移ってないわけじゃない。
真清と話し始めてから、何度か標準語が出そうになってた。
——抑えてたんや。関西弁を直したくないから。
初めて真清と話したのは水曜一限じゃない。
二年生の春。
入学式の日が講義の開始日だと間違えて登校してしまった俺に、話しかけてきたのが真清だった。
『新入生?』
『あ、えと……』
『体育館て、こっちで合ってる?』
突然話しかけられた挙句、続け様の質問に答えられなかった。けど、答えるしかなかった。
——体育館は逆の方向やから、教えなあかん。
心の中では言えると思っていたのに実際は、『あ』とか『え』とか、言うつもりのなかった言葉が混ざる。
『あ、ちゃ……違う、くて……え、えっと、体育館はあっちで、す』
『ちゃ?』
『ちゃ、ちゃう!』
思わず関西弁が出る。直そうとしてたんだ。
——馴染めてないとか、なんか嫌やから。
『ち、違う。体育館あっち』
恥ずかしさで視界が落ちていく。
『もしかして関西弁⁇』
明るい声で言われた。
——やっぱ、目立ってまうんや……
会話の中で『もしかして標準語?』なんて聞かへんし。
——直した方が……ええよな。
『うん。そう、だよ』
『いいじゃん!』
『何が……』
『地元への愛を感じる!』
キラキラとした笑顔は眩しくて、整った顔立ちがより際立つ。
なんだか気にしていた自分がバカらしくなったと同時に『いい』と言われたことが嬉しくて、直したくなくなった。
——たったひと言で人のネガティブな気持ちを跳ね飛ばす力があるとか、どこのヒーローなんや。
この時からだ。
学校で見かけたら、つい目が追ってしまうようになった。
しばらくして『真清』という名前を知った。
廊下に響く声で呼ばれていたから。
——きっと真清は覚えていないんやろな。
何度かすれ違っても、話しかけられなかったし俺に至っては目を合わせられなかった。
遠くに真清を見つけても、近づけば目を逸らしてしまっていたんだ。
もちろん覚えていないからといって、凹みはしない。
——あんな一瞬の出来事を覚えている方が、びっくりする。
まさかまた話す機会が来ると思ってもいなかったけど、今はただただ水曜の一限が早く来いって思う。
——真清と話せるようになったこの機会を逃せるわけないねん。
水曜一限の九十分間。
この時間が幸せ。
後輩だけどヒーローみたいな人で、みんなに囲まれて明るいけど、水曜一限はふたりきり。
——俺だけの真清みたいで、なんだか心がふわふわする。
俺だけの真清?
なんで、そんなこと思ってるんや……?
慣れないのは、人と話すこと。
極度の人見知りは新学期で、存分に発揮された。
講義が一新されてしまったことで、せっかく話せるようになった人と会う機会がグッと減り、それに伴って人と話すことも減った。
選択授業で仲良くなれた人たちを見つけても新たな交友関係を築き上げていて……気づけばひとりぼっちになっている。
手結という名前の通り、手を結ぶ動作をさせた。
俯いた視線に捉えた隣の男が気になって仕方ない。
赤に黒のラインが何本か入ったスニーカー。俺の履いている靴と見比べる。
「……靴、おんなじ」
視界に入った俺のものではない靴に、呟きを溢した。
関西弁お決まりの【や】が語尾に付いていなくても、靴という単語ひとつでイントネーションが上下し訛りが生じる。
関東に上京して約三年、友達と呼べるほど仲のいい人はいない。
関西にいたときの友人が同じく上京しているけど、同じ大学にはおらず、ここではひとり。
上京して一年が過ぎたころ、久しぶりに東京で再会した関西にいたときの友人の訛りが薄れていて『手結といると大阪に戻った気分だ』と言われた。
ただの感想だとわかっていてもそれほど馴染めていないと感じさせ、複雑な気持ちになったのを覚えている。
——……嫌やな。
そう思って、言い方を直そうとした時期はあったが、もうこの関西弁を直す気はない。
スニーカーを眺めながら自分の足を少し揺らしてみる。
——うれしい。
「ほんとだ! マジ偶然!」
独り言としてこぼした言葉に反応されると思ってもいなくて、自分の世界から引き戻される。
もちろん会話など考えていなかった。
「あ、う、えっと……そう、やね」
顔を上げてようやく見れた男の顔は、ハッとするほど目鼻立ちのハッキリとした人物。さらさらとした黒髪が揺れる。
——かっこいい……
かっこいいし、返事してくれたことに胸がキュッと反応しうれしくなった。
すると「ふっ」という空気が多めの微笑をされる。
からかわれていると返事したことを後悔した。
——何言うてん……調子乗ったわ……
また今年も馴染むことはできないんやろうなと、自分の情けなさため息ついたときだった。
「おそろっちー!」
「おそろっち……」
漫画の中でしか聞いたことない言葉に復唱してしまう。
すると、男は口を閉じたまま口角だけを上げ目尻は下がる。その優しそうな表情にトッと心臓が早くなる。
「名前は?」
聞かれると思ってもなかったから、何も考えずに先に出たのは下の名前。
「手結……西賀手結。三年です」
「手結! 先輩?!」
ハッキリと発音させて下の名前で呼ばれたことで、目に開きを感じた。
思ったより動揺しているのかもしれない。
——つい下の名前を先に言ってしまったのは俺やけど……その距離感は困る。
「俺は真清! 安東真清です!」
「真清」
俺を真似て、下の名前から言われる。
——いや、真清も下の名前で呼ばれることが多いからか。
真清、真清……心のなかで繰り返す名前は、真清が入学したときから知っていた。
——ずっと目で追いかけていたから。
あの時から、俺にとって真清はヒーローみたいな存在。
大袈裟と他人に言われるかもしれないが、それほどに救われたのだ。
真清はひとりでいる姿を一切見たことがないくらい男女問わず囲まれているような陽キャ。遠くで見てることしかできなかった。
見てるだけで満足していた。
——でも……せっかく話せたんに、ここで“さようなら”したらまたおんなじことになんねん。
人見知りな性格だからといって、ここで引き下がれる性格ではない。
単に話すのに時間がかかるだけだ。
——俺やって話せるし。
と、意気込んでも俺から話しかけるまでは時間がかかった。
それでも運のいいことに一回話した次の週の同じ講義で、真清に話しかけられる。
「手結先輩。隣いいですか?」
「うん」
前の席も後ろの席も空いているのに、俺の隣で講義を聞く。
真清の隣にいるなんて、後期がどうなるか、不安でたまらなかった数週間前の俺が考えもつかなかったことだ。
ぼうっと教授の声に耳を傾けていると、俺の方へ身体を傾けた真清に小声で話しかけられる。
「この講義、難しいですね」
「そうやね」
俺が返事しかできなくても、真清は続けて話してくれる。
——講義中やけど……
「週の真ん中で、しかも一限だから余計キツいです……」
項垂れて机に頭を乗っけると、こちらを仰ぎ見る。なんだか大型犬が伏せをしてるみたいに見えてしまった。
言葉は出ないのに、手が真清の髪の毛に触れたくて微量に動く。
——ダメ。
俺は必死に意識を会話に戻した。
「たしかに一限はキツいな」
「先輩、全然平気そー」
真清が前の席にまで届きそうなほど長い足を伸ばす。
机から飛び出た先にある靴を視界が捉えた。
青を基調とした中に白いラインのある靴。
——今日は違うんや。
真清はいつも同じ靴を履いてくるというわけではなかった。むしろ、毎日変わるくらいだ。
——たまたま隣に座って同じ靴を履いていたなんて……
思い出しては勝手にうれしくなってしまう。
——あの日が、まだ後期が始まったばかりで良かった。
この講義をとった人が内容が難しいと、どんどん人が減っていった後だったら……多分、隣には座ってなかった。
「真清」
「はい? なんですか?」
「講義が難しくても、俺がおるから……」
——だからこの時間だけは一緒にいたい。
「なに、それ……」
「来なくなったら寂しいってことや」
水曜の一限しか話せない後輩。
この時間だけが唯一話せる時間だ。
話し初めてから、何度か廊下で男女に囲まれている真清を見たけど話しかけられることは叶わなかった。
——真清も俺に話しかけなかった。
俺は真清にとって、いろんな人と話してるうちのひとりでしかない。
——それでもいい。
現状、水曜一限があるおかげで話せなくなるということがないから、少し前の俺よりはかなりの進歩だ。
講義が始まる四十分も前に到着してしまった教室には誰もいない。
——漫画読みすぎて眠れへんかった。
毎週同じ席に座る。
まだ時間があるし、隣に来るとしたら真清だ。
時間の余裕よりも真清しか来ないだろうという安心感の方が強く、俺は顔を伏せてうとうとする。
「先輩?」
——真清の声……起きなあかん。
もう講義の時間なんか。
すると俺の心を読むように、言われる。
「まだ時間じゃないですよ」
「う、ん……?」
寝ぼけて頭が回らない。
——まだ時間じゃないん?
どれくらい寝ていたのか知りたくて身体を起こす。
「寝ててもいいのに」
薄目の隙間から見えた優しく笑う真清が見えた。
思わず目を逸らし、スマホを傾けた。
——八時五十分。
あと十分で講義は始まるし終われば真清は、友人たちの輪に交じってしまう。
「もう時間やん」
「え? 十分もありますよ」
笑いながら「先輩の時間感覚わかんないー」と言われる。
俺は真清だから十分しかないと思うだけ。
——この講義以外の十分はめっちゃ長く感じんねん。
俺にとって真清は、ヒーローのような人で憧れでもある。
後輩とか関係なくて憧れていた人と話せるうれしさから、少しでも長くただそばにいたい。
——『ただそばにいたい』?
自分で思った感情に戸惑う。
見ているだけ、話せているだけで満足しそうになっていたなんて嘘みたいに欲が出てきてしまう。
——なんで?
よくわからない感情を隅に置き、講義のためにノートパソコンを引っ張り出している横で、タブレットを開く真清がいる。
いつもはノートに手書きだったはずだ。
——タブレットにしたんか?
俺がジッと見ていると、真清に気づかれた。
「あ、見てください。タブレットにしたんですよー。パソコンもあるんですけど、重くて持ってくるのめんどくなっちゃいました。最近、友人がタブレットに直接書き込んでるの見て、『それいい!』ってなったんですよね」
「へぇ」
「学校終わりに遊びにいく時も快適です!」
真清のカバンは、タブレット以外に何が入れられるんだ? というレベルに小さいし、確かにパソコンは重たい。
——帰りに遊びに行く真清にとっては、そっちのがええんやろな。
「あ、遊んでるだけじゃないですよ? バイトもしてます!」
相槌も打たずにいたためか、焦りをあらわにする。
——遊んでることくらい知ってるし、俺が何か言う権利なんてないんやから焦らんでもええのに。
まるで自分のことを知ってほしいと主張するように言われた気分になった。
——真清は意識なんてしてないんやろうけど……
「なんも言ってないやん。タブレットもええなって思っただけや」
それと友人間の情報共有に少し羨ましくなったなんて言えない。と、教授が教室に入ってくる。
「あ、時間ですね」
「そうやね」
十分で意外と会話ができるものなのだと驚かされた。
俺は椅子に背を押し付けて伸びをする。
真清の交友関係に羨ましく思えて、行動力に驚かされて……。
タブレットにした理由ひとつで色んな感情が混ざり合うとか変な感じだ。
自然と真清に意識が向くとともに、視線を向けてしまう。
それに気がついたのか、真清も一緒になって椅子に背をつけて視線を合わせてくる。
「先輩どうしたんですか?」
「十分で真清のこと知れて充実した時間になったから、案外短くないねんなって」
言葉にしてから、うれしかったのは真清のことを知りたかったんだと自分の気持ちを理解できた。
満足した俺は背筋を伸ばしパソコンと向き合う。
しかし真清は椅子にもたれかかったまま、戻ってこなかった。
——俺、変なこと言ったか?
もしそうだとしたら、どんな顔をすればいいのか分からない。
真清にどう思われたのか意識すればするだけ気になってしまいそうで、俺は講義に齧り付いた。
集中した講義は時間が過ぎるのが早く、途中で真清が身体を起こしたことに気がつかないくらいだ。
今日は珍しく講義が終わっても、真清は教室から出て行かない。
——やっぱり俺なんか言っちゃったんか?
「あーー」
真清が突如出した気だるそうな声に、びくりとする。
「な、なに?」
「友達が遊びに行くって言ったのに間に合わないらしいんで暇なんですよー」
「そうなんや」
「手結先輩、二限ないですもんね」
俺はいつも真清が教室を出た後に、ダラダラ帰宅する。
——なんで知ってん……
「ないな」
「おしゃべりしましょーよ!」
「ええけど……」
——廊下に出れば俺以外に友人めっちゃおるやろ……という言葉は飲み込んだ。
「先輩て何専攻してるんですか?」
「マーケやで」
「もうすぐで希望専攻出さなきゃいけないんですけど、マジ迷ってるんすよね」
「専攻か。懐かしいな」
聞ける先輩もいなくて、複数ある専攻のどれを選べば良いのか右も左も分からなかったのを思い出す。
結局、興味だけで選んだのがマーケと呼ばれているマーケティング専攻だ。
スーパーで目に入った商品が俺だけではなく、ほかのお客さんにも興味を持たれる仕組みがおもろそうと思っていたからだ。
「一年くらい前の話ですよね⁉︎ 懐かしいんですか?」
驚かれるのも無理はない。
興味の持ったものにしたからなんとかなってるが、他の専攻よりも忙しい、らしい。
当然のことながら、忙しさを比べる人はいないので噂程度のことだ。
「最近は専攻取ってる講義が多いせいで、なかったときのことの方が懐かしく思えんねん」
「そういうもんです?」
「多分」
そもそも語り合う友達がおらん。とは、言えなかった。
真清は友人以外にも先輩の知り合いも俺だけじゃなくて、どんな専攻が忙しいとか厳しい教授の話しとか知っているんだろうな。
俺の交友関係が広かったら、もっと真清に教えてあげられるんに……
憧れてるだけとか思ってても、心のどこかでやっぱり先輩でいたいのかもしれない。
そう思うと情けなくて仕方なかった。
——そんな俺と一緒にいるの真清はええんやろうか。
廊下に一歩出てしまえば友人とかいるはずなのに、俺と話すことを選んでくれた真清の気持ちが気になって仕方ない。
「もしかして帰りたいですか?」
俺がどんな顔をしていたのか全く分からなかったけど、勘違いさせてしまう表情でもしていたのだろう。
「ちゃうちゃう! 変な感じやなって思ってた」
「嫌ってこと?」
——んなわけないやん。
「講義の時間以外で話さへんかったから」
「無理してないです?」
「してるわけないですやん」
俺は思わず笑ってしまった。
真清は少し目を見開くと口を開いた。
「なんか先輩て……」
「なんや?」
「あ、いや、おとなしい人だと勝手に思ってました」
「あー、よう言われんねん。思ってたんとちゃうって」
人見知りだから、初めからこのテンションでは話せないだけだ。
慣れてしまえば、そこまで緊張はしないし笑って話せる。
——まぁ、大学の講義で話した人たちとは慣れるところまで行かなかったから、高校生までの話しやけど。
『思ってたんとちゃう』的なことは言われたのはこれが初めてではない。そういうものだと受け入れているが、褒められているわけでもない。言ってきた人が嬉しそうにするわけでもないから、どんな気持ちで言ってきてるんやろ。くらいには思っていた。
しかしその気持ちまで話してくれる人はいなかったため、真清から出た言葉に驚かされる。
「思ってたのとというか初めの頃と印象違うなーみたいな……嫌とか全くないですよ?」
——この話し続くんか……
「どっちかというか、心開いてくれてるみたい」
「心は開いてんで。元々、真清のことは知っとったし」
真清に「えっ? どういうことですか?」と問われ、「自分、有名なんに気づいてへんのか」と事実半分嘘半分を伝えた。
——ほんとは真清の入学式から知ってんねん。
俺は有名じゃないですよ、とか笑って流される程度の話のつもりだったのだが、真清の反応は俺が思っていたものとは全く別の方向だった。
「他の人にも心開いてるんですか?」
「他の人ってなんや。そんなこと気にしてどうすんねん」
「俺はただの人見知りやし……話せるまで時間かかるだけや」と俺が続けると、眉間にシワを寄せる。
「俺だけが知ってたいって思ってしまいました」
「なんの話しやねん」
俺が他の人と話しているのを見たこともないはずだ。そんなこと気にして何になんねん。
「なんの話……わからないです。ただ気になっただけですもん」
ツンと唇を突き出して不満そうに見えるのに、首を傾ける真清は不思議そうにしている。
そして、なぜか俺の話が続く。
「先輩」
「今度はなんや」
「標準語移らないんですか?」
「友達は移ってるけど、俺は……特に移ってへんと思う」
百八十度変わった会話についていけるか一瞬不安になった。ただ、真清が聞き上手かつ話し上手だから、あんまり緊張していない。
「そうなんですね。俺の関西にいた友人は、めっちゃ標準語になったんで先輩も移っちゃわないかなーって思いました」
「『めっちゃ』って、逆に移ってんで」
俺が笑うと、真清が今は関東でも使われてますから。と流し目になる。
——それにしてはイントネーションまで完璧やったな。
俺とよく話すようになったから、移った可能性を考えたら少しうれしくなった。
すると、俺たちしかいない教室に騒がしい声が飛んでくる。
「真清ー! まじごめん‼︎」
「遊びに行くって言ったのどこの誰だよ」
「起きれなかったんだよ。学食奢るから許して」
「本日の定食な」
俺との会話よりテンポが速い。ポンポンと出てくる言葉は、真清と今来た真清の友人を行き来して、俺は静かにする。
——無理してるんは、真清ちゃうか? でも、話しかけてきたのは真清やし。
蚊帳の外状態になった俺を気に掛けられることなく真清が席を立ち上がる。
「先輩、また来週!」
俺はうんともすんとも答えられなかった。
ふたりなら大丈夫になれてきたけど、それ以上の人数の前では話せない。
でも真清と講義の前以外でこんなに話せたのは、というか大学でこんなに話せたと思うと俺は、会話をできたということだけで口元がゆるりと上がっていく。色々話せた。ただ、その中でも、引っかかることがあった。
「『標準語移らないんですか?』か……」
移ってないわけじゃない。
真清と話し始めてから、何度か標準語が出そうになってた。
——抑えてたんや。関西弁を直したくないから。
初めて真清と話したのは水曜一限じゃない。
二年生の春。
入学式の日が講義の開始日だと間違えて登校してしまった俺に、話しかけてきたのが真清だった。
『新入生?』
『あ、えと……』
『体育館て、こっちで合ってる?』
突然話しかけられた挙句、続け様の質問に答えられなかった。けど、答えるしかなかった。
——体育館は逆の方向やから、教えなあかん。
心の中では言えると思っていたのに実際は、『あ』とか『え』とか、言うつもりのなかった言葉が混ざる。
『あ、ちゃ……違う、くて……え、えっと、体育館はあっちで、す』
『ちゃ?』
『ちゃ、ちゃう!』
思わず関西弁が出る。直そうとしてたんだ。
——馴染めてないとか、なんか嫌やから。
『ち、違う。体育館あっち』
恥ずかしさで視界が落ちていく。
『もしかして関西弁⁇』
明るい声で言われた。
——やっぱ、目立ってまうんや……
会話の中で『もしかして標準語?』なんて聞かへんし。
——直した方が……ええよな。
『うん。そう、だよ』
『いいじゃん!』
『何が……』
『地元への愛を感じる!』
キラキラとした笑顔は眩しくて、整った顔立ちがより際立つ。
なんだか気にしていた自分がバカらしくなったと同時に『いい』と言われたことが嬉しくて、直したくなくなった。
——たったひと言で人のネガティブな気持ちを跳ね飛ばす力があるとか、どこのヒーローなんや。
この時からだ。
学校で見かけたら、つい目が追ってしまうようになった。
しばらくして『真清』という名前を知った。
廊下に響く声で呼ばれていたから。
——きっと真清は覚えていないんやろな。
何度かすれ違っても、話しかけられなかったし俺に至っては目を合わせられなかった。
遠くに真清を見つけても、近づけば目を逸らしてしまっていたんだ。
もちろん覚えていないからといって、凹みはしない。
——あんな一瞬の出来事を覚えている方が、びっくりする。
まさかまた話す機会が来ると思ってもいなかったけど、今はただただ水曜の一限が早く来いって思う。
——真清と話せるようになったこの機会を逃せるわけないねん。
水曜一限の九十分間。
この時間が幸せ。
後輩だけどヒーローみたいな人で、みんなに囲まれて明るいけど、水曜一限はふたりきり。
——俺だけの真清みたいで、なんだか心がふわふわする。
俺だけの真清?
なんで、そんなこと思ってるんや……?



