いつか幸せになる君へ

「嫌いではない」とか「嬉しくはない」とか、曖昧で伝わりづらい言葉を選んでしまうのは、もしかすると自分自身で決め切れていないからかもしれない。そういう人には決断力のある人がお似合いだろうし、似た者同士だと上手くいかないかもしれない。ところで、「かもしれない」と語尾につける人ほど優柔不断で、何も自分では決めれないと思っただろうか。そういう勘の鋭い人が苦手。「あなた、何も決められないのね」と言われたことを思い出す。自分のことなら決められるけど、相手もいるとなると決めるのは相当難しい。

他人からの視線を気にする性格だった。自分がしたいことと、他人に喜ばれることは違っていて、いつも選ぶのは後者だった。したいことなんて後回しにしても良くて、まずは他人に喜ばれることをするべきだと。そんな考えで生きてきたのだけど、気付くと誰かの予定だけが埋まっていて、後回しにしていた「したいこと」をする時間なんて残されてはいなかった。「これ頼んでもいい?」と言われると断れなくて、引き受けているうちに自分の意見を見失ってしまい、曖昧な言葉でしか話せなくなった。

こういう生き方をしているからだろうか。同じような話し方をする人と出会う機会が増えた。「最近、無理してないですか」と訊ねると、「無理はしてないです」と返してくるような人。それに加えて光を失った目をしていて、明日にでも消えてしまいそうな。その人が「ビールとか飲むんですか、そもそもお酒は飲むんですか」と居酒屋の席で訊いてきた。無理して飲んでいたせいで火照った顔を見たのだろう。「飲もうと思えば」と返した。その人は枝豆を掴んで、皮のままかじって実を食べた。「へぇ」と言い、また枝豆を掴んでいる。

曖昧な言葉を選んでしまうのは、これまでに自分が選んだ言葉を否定された結果であって、そういう人を否定するべきではないと思う。愛されたい人が「愛されたい」と素直に言えることも、会いたい人がいるときに「会いたい」と真っ直ぐに言えることも、それはまだ否定をされたことがないだけであって、否定をされたときに「愛さなくてもいいけど」とか「会えたらいいな」みたいに曖昧へとなっていくのかもしれない。そんなこと言ったところで否定をする人はするし、曖昧になれない人は曖昧になることはないけど。

真似をして皮のままかじっていた実が、1つだけ口元から逃げるようにして落ちていった。それが地面に着くまで数秒あって、でも手を伸ばしたところで間に合わない。地面に落ちた実は後ろから来ていた店員さんに踏まれてしまった。「あっ」と言う間もなく。「落ちましたね、悲しいですか」と訊ねられる。「悲しくはないね」と言いながら潰れた実に目線をやると、もう実とは呼べないほどの形をしていた。落とさなければ僕が食べていて、誰にも踏まれることはなかった実。少しだけ悲しい。言葉と思いは、結び付かないらしい。

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