いつか幸せになる君へ

「地震大丈夫だった?」という連絡は、果たして愛なのだろうか。そんなことを思った。「どうか無事でいて」という願いには愛が込められているだろうけど、連絡に愛は含まれているのか。心配が含められていて、その中に愛があるのかもしれない。愛ってなんだ。震災が起こったとき、1番に連絡をしてしまう人に抱く感情とか。逃れられない状況で、助けてくれるという保証もないのに連絡をしてしまう人に抱く感情とか。人と人を繋ぐために、もしくは運命を引き起こすためにあるものが愛なのか。「大丈夫だよ」と文字を打ち込んだ。

あるショッピングモールが、地震の影響で爆発した。死者も負傷者もいて、いつもとは違う1日が今日だとして、行方不明者の親族が抱いている悲しみはとても分かり得ない。ネットで地震が起こった場所の情報を眺めていると、駅前の広場に幾人が集まっていて、不安そうな表情をしている人や笑っている人がいて、この人たちは同じ場所にいるというのに、同じ感情を抱いていないことに少し恐怖を感じた。笑っている人にも、「地震大丈夫だった?」と連絡をする人がいるのだろうか。この人だって笑わないと、気が気でないのかもしれない。

震災を通じて、大切な人が当たり前にいてくれることは幻想なのだと気付かされた。「会えなくなる人に向けて」と題して、視聴者からの意見を募集した。未だ震災の影響を受けている人がいて、その光景が画面に映し出されていて観たくなくなったけど、現実から目を逸らすべきではないと思い、その光景を眺め続ける。行き交う人がいて、崩れていく建物があって、地面に敷かれたシートがあって、ただならぬ事態なのだと見て取れた。何分くらい眺めていたのだろう。気付くと募集していた意見が溜まっていた。サイレンの音が聞こえる。

「どうか、幸せになりませんように」とか「会えなくなっても悲しまないでね」という意見が届いている中、「寂しくなったら逢いに来て」という意見が目に留まった。ただ何気なく紡がれた文字だろうけど、その人が震災に遭っているのなら。会いに来ることは一生涯ないわけで、こちら側が寂しくて会いに行こうともこの世にはいないかもしれない。別れ言葉は相手がいないと成立しないことばかりで、ほとんどは相手がいることを前提に紡がれていて、いないという未来を誰も想像していない。寂しいかな、そんなことを思うと。

「地震大丈夫だった?」という連絡も、相手が返してくれる前提で送っているとなると、愛ではないのかもしれない。けれど、その連絡を送る際に「なんでもいいから返信して」と願っているのなら愛かもしれない。「会えなくても私の心の中であなたは生き続けてるからそれだけでいい」という意見も目に留まった。心の中で生き続けられるほうが余程苦しくて、でも心底愛おしい。明日は僕の大切な人が震災に遭うかもしれない。心の中で生き続けるとしても、いてくれる限りは愛を選びたい。
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