夜になると、私は久城邸の寝室へ通された。
篝宮家で私が住んでいた物置部屋が十個は入りそうなほど広い部屋だった。ふかふかの赤い絨毯の上に西洋式の大きな寝台が置かれ、天井からは花を模した電灯が柔らかな光を落としている。
私は寝台の端にちょこんと座り、夫となる人を待った。緊張していないと言えば嘘になる。夫婦になった以上、初夜に何が行われるのかは知識として知っている。けれど逃げ出す場所も、戻る家もない。ならば、相手の言葉をよく聞き、自分にできることを考えるしかなかった。
やがて重い扉が開き、洋装の寝巻きに着替えた冬真様が入ってきた。
上着を脱いでいても、その体は壁のように大きい。冬真様は寝台には近づかず、数歩離れた位置で机の上へ一枚の書類をバサリと置いた。
「読め」
私は書類を手に取った。婚姻に関する契約書だった。
婚姻期間は三年。
寝室は別とし、互いに愛情を求めない。
私は久城家の妻として公式行事に同伴する。
その見返りとして、衣食住を保障し、三年後の離縁時には邸宅と終身年金を与える。
「随分と手厚いのですね」
思わず口にすると、冬真様の眉間に深い皺が寄った。
「喜ぶところか?」
「離縁後の生活まで保障していただけるのでしょう?」
「フン、まぁ、金が目当てなら、これ以上ない条件だろうな」
低い声に、明らかな棘と侮蔑があった。私は書類から顔を上げた。
「金が目当て、とは?」
「とぼけるな」
冬真様は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「お前の父親には、相場の十倍にもなる莫大な支度金をくれてやったはずだ。大金を受け取って嫁いできた女が、純真ぶるのも大概にしろ」
その言葉で、私はすべてを悟った。あの父親が、私を対価にして久城家から多額の金を引き出していたのだ。私の懐には一銭も入っていないし、嫁入り道具すら用意されなかったというのに。
「……存じませんでした」
「白々しい」
冬真様は吐き捨てるように言った。
「すでに聞き及んでいることかと思うが、これは契約結婚だ。私には軍部内で重要なポストに就くため、一時的にでも『家庭を持つ安定した人物』という体裁が必要だ。特に旧家出身の奥方、という肩書きを。まぁ、なんせこんな見た目だからな」
彼の言葉には、自分自身を深く蔑むような、諦めに似た響きがあった。
「こんな見た目」と自嘲する冬真様を、私は静かに見つめ返した。
机上の瓦斯灯(ガスとう)の柔らかな光に照らされた彼は、実家で聞かされていた「野蛮で恐ろしい白豚」という言葉とはまるで結びつかない。
確かに、体は大きい。が、異国の血を引くという銀色に近い灰色の髪は、絹糸のように美しく撫でつけられ、雪のように白い肌は透き通るようだ。何より、私を見下ろす薄青い瞳は、冷酷どころか、冬の朝の澄み切った湖面のように静かで、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
(……この異国の容姿のせいで、きっと理不尽な苦労もされてきたのね)
古い体質が重んじられる軍という組織の中で、他人と違う外見を持つ彼がどれほどの偏見や差別に晒されてきたのか、想像に難くない。実力で若くして参謀の地位に上り詰めてなお、旧家の娘という「確かな後ろ盾」を必要とした背景には、彼なりの孤独な戦いがあったのだろう。
そう考えると、頑なに心を閉ざして悪ぶる彼が、少しだけ不器用で痛ましい人に思えた。
私は、彼が抱いている「大金目当ての強欲な女」という誤解を真っ直ぐに解くために、静かに口を開いた。
「私は嫁入り道具もいただいておりません。父からは、身一つで嫁げと言われました」
冬真様の目がわずかに細くなる。だが、すぐに冷ややかな表情へ戻った。
「ならば、どういうつもりでこの婚姻を受けた。相手が私のような男だと分かっていて嫁いできたのか」
詰問するような低い声に、私は姿勢を正して真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「父から嫁げと命じられましたから。それに……」
「それに、何だ」
「軍の参謀を務められるほど優秀な方が、私のような者を妻に選んでくださったのです。とてもありがたいお話だと思って参りました」
私の言葉に嘘がないか探るように、冬真様は苛立ったため息を吐いた。
「フン、どうせお前も、腹の中では私のことを醜い白豚だと思っているのだろう」
「醜い、ですか」
私は改めて冬真様を見た。大柄な体。色素の薄い白い頬。黒い洋服の襟元には肉が乗り、腹部もかなり張り出している。
「旦那様は、確かに少々、余分なお肉がおありだと思います」
冬真様のこめかみが引きつった。
「少々?」
「……申し訳ございません。かなり、でしょうか」
「随分と正直な女だな」
「嘘をつく方が失礼かと思いまして」
「では、やはり醜いと思っているのだろう」
「いいえ」
私はきっぱりと首を振った。
「鼻筋はすっと通っていますし、睫毛も綺麗です。瞳は冬の朝の湖のような色をしていらっしゃいます。髪も銀糸のようです」
「見え透いた世辞はよせ。初めてあった男の何がわかる」
「世辞ではありませんわ。それに、容姿のことだけではありません」
私は言葉を重ねた。
「旦那様が、私のような者の意思を無視しない、優しい方だということは分かります。初めて会った女が寝室で待っているというのに、無理に触れようとはなさらず、先に契約という形で距離を置いてくださいました。それは、私を気遣い、私自身に選ばせようとしてくださったということでしょう?」
「勘違いするな。私は、愛情などを期待されても困ると言っている。お前を娶ったのも、旧家の娘という利用価値を買ってのことだ」
「ですが、それだけでしたら、わざわざ契約の中に『離縁後の暮らし』まで用意する必要はございませんよね」
「……離縁した妻が路頭に迷えば、外聞が悪いだろう。単なる体面の問題だ」
頑なに自分を悪く見せようとする旦那様がおかしくて、私は少しだけふふっと笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「いいえ。ですが、私には分かります。契約書のことだけではございませんわ」
「何の話だ」
「婚礼の際、介添えの方がお祝いの杯を落としかけたでしょう。あの時、旦那様は高価な杯が割れる心配や、儀式を邪魔されたと怒鳴るのではなく、真っ先に彼女の手にお怪我がないかを目で確認なさいました」
冬真様は、完全に虚を突かれたように目を見開いた。私がそんなところまで見ているとは思わなかったのだろう。
「私は、自分より弱い立場の人を踏みつけて平気な方を、立派だとは思いません。でも旦那様は、そのような方ではないのでしょう?」
「……お前は」
冬真様は何か言いかけて、きゅっと口をつぐんだ。
これ以上悪ぶってみせても私には通じないと悟ったのか、それとも、思いがけず自分の行いを真っ直ぐに褒められて、どう返せばいいか分からなくなったのか。結局、彼はバツが悪そうにフイッと顔を背けてしまった。
「はぁ……もういい、どうせ何を言っても無駄なのだろう。好きにしろ」
「はい。ありがとうございます」
「契約書には明日、署名をもらう。今夜はこの部屋を使え。私は別室で寝る」
「おやすみなさいませ、旦那様」
返事はなかった。乱暴に閉められた扉を見つめ、私はふわりと微笑んだ。怒らせてしまっただろうか。けれど、分厚い背中から覗いていた耳は、なぜか少し赤かったように見えたのだ。
篝宮家で私が住んでいた物置部屋が十個は入りそうなほど広い部屋だった。ふかふかの赤い絨毯の上に西洋式の大きな寝台が置かれ、天井からは花を模した電灯が柔らかな光を落としている。
私は寝台の端にちょこんと座り、夫となる人を待った。緊張していないと言えば嘘になる。夫婦になった以上、初夜に何が行われるのかは知識として知っている。けれど逃げ出す場所も、戻る家もない。ならば、相手の言葉をよく聞き、自分にできることを考えるしかなかった。
やがて重い扉が開き、洋装の寝巻きに着替えた冬真様が入ってきた。
上着を脱いでいても、その体は壁のように大きい。冬真様は寝台には近づかず、数歩離れた位置で机の上へ一枚の書類をバサリと置いた。
「読め」
私は書類を手に取った。婚姻に関する契約書だった。
婚姻期間は三年。
寝室は別とし、互いに愛情を求めない。
私は久城家の妻として公式行事に同伴する。
その見返りとして、衣食住を保障し、三年後の離縁時には邸宅と終身年金を与える。
「随分と手厚いのですね」
思わず口にすると、冬真様の眉間に深い皺が寄った。
「喜ぶところか?」
「離縁後の生活まで保障していただけるのでしょう?」
「フン、まぁ、金が目当てなら、これ以上ない条件だろうな」
低い声に、明らかな棘と侮蔑があった。私は書類から顔を上げた。
「金が目当て、とは?」
「とぼけるな」
冬真様は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「お前の父親には、相場の十倍にもなる莫大な支度金をくれてやったはずだ。大金を受け取って嫁いできた女が、純真ぶるのも大概にしろ」
その言葉で、私はすべてを悟った。あの父親が、私を対価にして久城家から多額の金を引き出していたのだ。私の懐には一銭も入っていないし、嫁入り道具すら用意されなかったというのに。
「……存じませんでした」
「白々しい」
冬真様は吐き捨てるように言った。
「すでに聞き及んでいることかと思うが、これは契約結婚だ。私には軍部内で重要なポストに就くため、一時的にでも『家庭を持つ安定した人物』という体裁が必要だ。特に旧家出身の奥方、という肩書きを。まぁ、なんせこんな見た目だからな」
彼の言葉には、自分自身を深く蔑むような、諦めに似た響きがあった。
「こんな見た目」と自嘲する冬真様を、私は静かに見つめ返した。
机上の瓦斯灯(ガスとう)の柔らかな光に照らされた彼は、実家で聞かされていた「野蛮で恐ろしい白豚」という言葉とはまるで結びつかない。
確かに、体は大きい。が、異国の血を引くという銀色に近い灰色の髪は、絹糸のように美しく撫でつけられ、雪のように白い肌は透き通るようだ。何より、私を見下ろす薄青い瞳は、冷酷どころか、冬の朝の澄み切った湖面のように静かで、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
(……この異国の容姿のせいで、きっと理不尽な苦労もされてきたのね)
古い体質が重んじられる軍という組織の中で、他人と違う外見を持つ彼がどれほどの偏見や差別に晒されてきたのか、想像に難くない。実力で若くして参謀の地位に上り詰めてなお、旧家の娘という「確かな後ろ盾」を必要とした背景には、彼なりの孤独な戦いがあったのだろう。
そう考えると、頑なに心を閉ざして悪ぶる彼が、少しだけ不器用で痛ましい人に思えた。
私は、彼が抱いている「大金目当ての強欲な女」という誤解を真っ直ぐに解くために、静かに口を開いた。
「私は嫁入り道具もいただいておりません。父からは、身一つで嫁げと言われました」
冬真様の目がわずかに細くなる。だが、すぐに冷ややかな表情へ戻った。
「ならば、どういうつもりでこの婚姻を受けた。相手が私のような男だと分かっていて嫁いできたのか」
詰問するような低い声に、私は姿勢を正して真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「父から嫁げと命じられましたから。それに……」
「それに、何だ」
「軍の参謀を務められるほど優秀な方が、私のような者を妻に選んでくださったのです。とてもありがたいお話だと思って参りました」
私の言葉に嘘がないか探るように、冬真様は苛立ったため息を吐いた。
「フン、どうせお前も、腹の中では私のことを醜い白豚だと思っているのだろう」
「醜い、ですか」
私は改めて冬真様を見た。大柄な体。色素の薄い白い頬。黒い洋服の襟元には肉が乗り、腹部もかなり張り出している。
「旦那様は、確かに少々、余分なお肉がおありだと思います」
冬真様のこめかみが引きつった。
「少々?」
「……申し訳ございません。かなり、でしょうか」
「随分と正直な女だな」
「嘘をつく方が失礼かと思いまして」
「では、やはり醜いと思っているのだろう」
「いいえ」
私はきっぱりと首を振った。
「鼻筋はすっと通っていますし、睫毛も綺麗です。瞳は冬の朝の湖のような色をしていらっしゃいます。髪も銀糸のようです」
「見え透いた世辞はよせ。初めてあった男の何がわかる」
「世辞ではありませんわ。それに、容姿のことだけではありません」
私は言葉を重ねた。
「旦那様が、私のような者の意思を無視しない、優しい方だということは分かります。初めて会った女が寝室で待っているというのに、無理に触れようとはなさらず、先に契約という形で距離を置いてくださいました。それは、私を気遣い、私自身に選ばせようとしてくださったということでしょう?」
「勘違いするな。私は、愛情などを期待されても困ると言っている。お前を娶ったのも、旧家の娘という利用価値を買ってのことだ」
「ですが、それだけでしたら、わざわざ契約の中に『離縁後の暮らし』まで用意する必要はございませんよね」
「……離縁した妻が路頭に迷えば、外聞が悪いだろう。単なる体面の問題だ」
頑なに自分を悪く見せようとする旦那様がおかしくて、私は少しだけふふっと笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「いいえ。ですが、私には分かります。契約書のことだけではございませんわ」
「何の話だ」
「婚礼の際、介添えの方がお祝いの杯を落としかけたでしょう。あの時、旦那様は高価な杯が割れる心配や、儀式を邪魔されたと怒鳴るのではなく、真っ先に彼女の手にお怪我がないかを目で確認なさいました」
冬真様は、完全に虚を突かれたように目を見開いた。私がそんなところまで見ているとは思わなかったのだろう。
「私は、自分より弱い立場の人を踏みつけて平気な方を、立派だとは思いません。でも旦那様は、そのような方ではないのでしょう?」
「……お前は」
冬真様は何か言いかけて、きゅっと口をつぐんだ。
これ以上悪ぶってみせても私には通じないと悟ったのか、それとも、思いがけず自分の行いを真っ直ぐに褒められて、どう返せばいいか分からなくなったのか。結局、彼はバツが悪そうにフイッと顔を背けてしまった。
「はぁ……もういい、どうせ何を言っても無駄なのだろう。好きにしろ」
「はい。ありがとうございます」
「契約書には明日、署名をもらう。今夜はこの部屋を使え。私は別室で寝る」
「おやすみなさいませ、旦那様」
返事はなかった。乱暴に閉められた扉を見つめ、私はふわりと微笑んだ。怒らせてしまっただろうか。けれど、分厚い背中から覗いていた耳は、なぜか少し赤かったように見えたのだ。
