(ああ……終わったのね)
私を縛り付け、心を削り続けてきた暗く冷たい呪縛が、音を立てて崩れ去っていく。残ったのは、ただ、ひどく晴れやかで静かな心だけだった。
「千鶴」
冬真様に呼ばれ、ゆっくりと顔を上げる。先ほどまで篝宮家の者たちを冷然と見据えていた薄青い瞳が、今はひどく痛ましげに揺れていた。
「頬が赤く腫れているじゃないか」
冬真様の大きな手が、私の左頬へそっと伸びる。けれど、触れれば私が痛むと思ったのだろう。指先は、肌に届く直前でピタリと止まった。
「たいしたことではございませんわ」
「そんなわけがあるか」
低く押し殺した声。明らかな怒りを含んでいる。けれど、その怒りが私へ向けられたものではないことは、もう十分に分かっていた。
「遅くなって、すまなかった」
冬真様は、悔しげにギュッと唇を噛んだ。
「私がもう少し早く来ていれば、お前にこんな傷を負わせずに済んだのに」
「いいえ、旦那様が謝ることではございません」
「いや、私がもっと早く気づくべきだったんだ」
冬真様の視線が、腫れた頬から私の腕へ落ちる。父に力任せに掴まれた場所には、白い肌の上に赤い指の跡がくっきりと浮かび上がっていた。冬真様はその痣を見て、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「あの……旦那様」
私は、先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「どうして私の実家のことを?お仕事でお調べになっていたのですか?」
「あの散歩の日から、お前の過去が気になっていた」
「散歩の日……」
庭の梅が咲き始めていた頃のことだ。なぜ、いつも笑っていられるのか。冬真様にそう問われ、私は初めて、母の教えと実家での孤独な暮らしについて口にしたのだった。
「私は、お前の夫でありながら、お前のことを何一つ知らないのだと思い知った」
冬真様は、苦しげに眉を寄せた。
「好きな食べ物も、お前がどう育ったのかも。お前は私のことを知ろうとして、食事の好みも、体調の変化まで覚えていった。それなのに私は、お前がいつも笑っているのをよいことに、何も聞けなかったんだ」
「旦那様……」
「だから、内密に調べさせた。最初に見つけたのは、お前の母上が遺した財産のことだった」
冬真様の言葉によれば、私が成人した際に受け取るはずだった土地や、母方の祖父母から受け継いだ証券などがあったらしい。だが、その大半が篝宮家の借財返済や、あの母娘の浪費に流用されていたのだという。
「金の流れを追ううちに、妙な支払いがいくつも見つかった。軍の調達を隠れ蓑にして、大黒商会から篝宮家へ定期的に大金が渡っていた。さらに調べれば、実態のない取引が多く行われていたことが分かった」
「そんなことが……」
「今夜、ようやくすべての証拠が揃ったんだ。……本当は、検挙自体は明日の朝に行う予定だった」
冬真様は少し言いにくそうに、わずかに視線を伏せた。
「あの証拠書類は、夜会の後に屋敷へ持ち帰って、先にお前へ見せるつもりだったんだ。いくら酷い家だったとはいえ……実家が潰れるとなれば、お前も思うところがあるだろう。明日いきなり踏み込んで、お前を驚かせたくなかった」
「旦那様……」
私の心を気遣って、わざわざそんな手はずを整えてくださっていたなんて。
胸がいっぱいになって言葉に詰まる私を見て、冬真様はギリッと悔しそうに奥歯を噛み締めた。
「だが……まさか、あいつらがこの場で、お前に手を上げるとはな」
彼の手がぎゅっと固く握りしめられる。
「こんなことになるなら、もっと早く検挙するべきだった。お前を、あんな奴らに会わせるべきではなかったんだ」
「いいえ」
私は首を横に振り、微笑んだ。
「旦那様は、助けに来てくださいました。それに、これくらいのこと、実家にいた時に今までにも何度も――」
「何度も?」
冬真様の声が、凍りついた。私は、しまったと思った。
「いえ、その……」
「千鶴」
冬真様はゆっくりと息を吐き、怒りと悲しみを鎮めるように目を閉じた。
「もう二度と、それを『これくらい』などと言うな」
命令するような口調なのに、その声はひどく優しくて、震えていた。
「お前が痛い思いをしたなら、それは私にとっても、一大事なのだ。ちっとも『たいしたことがない』わけがないだろう」
胸の奥が、きゅうと締め付けられる。こんなふうに、自分の痛みを、自分のことのように大切に扱われたことがあっただろうか。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
長年の癖で、条件反射のように謝罪が口をついて出た。すると、冬真様の眉間に深い皺が刻まれた。
「なぜ、お前が謝る」
「私の実家のことで、旦那様や久城家にまで、多大なご迷惑を――」
「お前は何もしていない」
「ですが」
「悪事を働いたのは、篝宮家の者たちだ。お前ではない」
冬真様は、今度こそ私の頬へ触れた。腫れていない方の右頬を、手袋を外した大きな手のひらでそっと包み込む。
「お前はもう、謝らなくていいんだ」
その温かい言葉を聞いた途端、私の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。これまでずっと、自分を守るために纏っていた見えない鎧が、音を立てて崩れ落ちていく。
「あ……」
急に、視界がふらりと揺れた。
「千鶴?」
体から急速に力が抜けていく。冷たい床へ倒れ込むと思った瞬間、冬真様の強靭な腕が私をしっかりと抱き留めた。
「千鶴!おい、しっかりしろ!」
ひどく焦った声が耳元で響いた。大丈夫だと、伝えなければ。
けれど唇は動かず、安心しきった私の意識は、心地よい深い闇の中へと落ちていった。
私を縛り付け、心を削り続けてきた暗く冷たい呪縛が、音を立てて崩れ去っていく。残ったのは、ただ、ひどく晴れやかで静かな心だけだった。
「千鶴」
冬真様に呼ばれ、ゆっくりと顔を上げる。先ほどまで篝宮家の者たちを冷然と見据えていた薄青い瞳が、今はひどく痛ましげに揺れていた。
「頬が赤く腫れているじゃないか」
冬真様の大きな手が、私の左頬へそっと伸びる。けれど、触れれば私が痛むと思ったのだろう。指先は、肌に届く直前でピタリと止まった。
「たいしたことではございませんわ」
「そんなわけがあるか」
低く押し殺した声。明らかな怒りを含んでいる。けれど、その怒りが私へ向けられたものではないことは、もう十分に分かっていた。
「遅くなって、すまなかった」
冬真様は、悔しげにギュッと唇を噛んだ。
「私がもう少し早く来ていれば、お前にこんな傷を負わせずに済んだのに」
「いいえ、旦那様が謝ることではございません」
「いや、私がもっと早く気づくべきだったんだ」
冬真様の視線が、腫れた頬から私の腕へ落ちる。父に力任せに掴まれた場所には、白い肌の上に赤い指の跡がくっきりと浮かび上がっていた。冬真様はその痣を見て、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「あの……旦那様」
私は、先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「どうして私の実家のことを?お仕事でお調べになっていたのですか?」
「あの散歩の日から、お前の過去が気になっていた」
「散歩の日……」
庭の梅が咲き始めていた頃のことだ。なぜ、いつも笑っていられるのか。冬真様にそう問われ、私は初めて、母の教えと実家での孤独な暮らしについて口にしたのだった。
「私は、お前の夫でありながら、お前のことを何一つ知らないのだと思い知った」
冬真様は、苦しげに眉を寄せた。
「好きな食べ物も、お前がどう育ったのかも。お前は私のことを知ろうとして、食事の好みも、体調の変化まで覚えていった。それなのに私は、お前がいつも笑っているのをよいことに、何も聞けなかったんだ」
「旦那様……」
「だから、内密に調べさせた。最初に見つけたのは、お前の母上が遺した財産のことだった」
冬真様の言葉によれば、私が成人した際に受け取るはずだった土地や、母方の祖父母から受け継いだ証券などがあったらしい。だが、その大半が篝宮家の借財返済や、あの母娘の浪費に流用されていたのだという。
「金の流れを追ううちに、妙な支払いがいくつも見つかった。軍の調達を隠れ蓑にして、大黒商会から篝宮家へ定期的に大金が渡っていた。さらに調べれば、実態のない取引が多く行われていたことが分かった」
「そんなことが……」
「今夜、ようやくすべての証拠が揃ったんだ。……本当は、検挙自体は明日の朝に行う予定だった」
冬真様は少し言いにくそうに、わずかに視線を伏せた。
「あの証拠書類は、夜会の後に屋敷へ持ち帰って、先にお前へ見せるつもりだったんだ。いくら酷い家だったとはいえ……実家が潰れるとなれば、お前も思うところがあるだろう。明日いきなり踏み込んで、お前を驚かせたくなかった」
「旦那様……」
私の心を気遣って、わざわざそんな手はずを整えてくださっていたなんて。
胸がいっぱいになって言葉に詰まる私を見て、冬真様はギリッと悔しそうに奥歯を噛み締めた。
「だが……まさか、あいつらがこの場で、お前に手を上げるとはな」
彼の手がぎゅっと固く握りしめられる。
「こんなことになるなら、もっと早く検挙するべきだった。お前を、あんな奴らに会わせるべきではなかったんだ」
「いいえ」
私は首を横に振り、微笑んだ。
「旦那様は、助けに来てくださいました。それに、これくらいのこと、実家にいた時に今までにも何度も――」
「何度も?」
冬真様の声が、凍りついた。私は、しまったと思った。
「いえ、その……」
「千鶴」
冬真様はゆっくりと息を吐き、怒りと悲しみを鎮めるように目を閉じた。
「もう二度と、それを『これくらい』などと言うな」
命令するような口調なのに、その声はひどく優しくて、震えていた。
「お前が痛い思いをしたなら、それは私にとっても、一大事なのだ。ちっとも『たいしたことがない』わけがないだろう」
胸の奥が、きゅうと締め付けられる。こんなふうに、自分の痛みを、自分のことのように大切に扱われたことがあっただろうか。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
長年の癖で、条件反射のように謝罪が口をついて出た。すると、冬真様の眉間に深い皺が刻まれた。
「なぜ、お前が謝る」
「私の実家のことで、旦那様や久城家にまで、多大なご迷惑を――」
「お前は何もしていない」
「ですが」
「悪事を働いたのは、篝宮家の者たちだ。お前ではない」
冬真様は、今度こそ私の頬へ触れた。腫れていない方の右頬を、手袋を外した大きな手のひらでそっと包み込む。
「お前はもう、謝らなくていいんだ」
その温かい言葉を聞いた途端、私の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。これまでずっと、自分を守るために纏っていた見えない鎧が、音を立てて崩れ落ちていく。
「あ……」
急に、視界がふらりと揺れた。
「千鶴?」
体から急速に力が抜けていく。冷たい床へ倒れ込むと思った瞬間、冬真様の強靭な腕が私をしっかりと抱き留めた。
「千鶴!おい、しっかりしろ!」
ひどく焦った声が耳元で響いた。大丈夫だと、伝えなければ。
けれど唇は動かず、安心しきった私の意識は、心地よい深い闇の中へと落ちていった。
