「――私の妻から手を離せ」
地獄の底から響くような、低く冷酷な声が回廊を震わせた。父の動きがピタリと止まる。そこには、氷のような怒気を放つ冬真様が立っていた。さらにその背後には、屈強な軍服姿の男が二人と、鳳雷館の警備員たちが控えている。
「く、久城殿……!なぜここに……」
「もう一度だけ言う。その汚い手を、今すぐ千鶴から離せ」
軍の参謀としての圧倒的な殺気。震え上がった父は、慌てて私の腕から手を放した。冬真様はすぐさま私のそばへ歩み寄り、庇うように私を自分の大きな背中の後ろへ隠した。
「久城殿、どうか誤解なさらないでくださいませ」
継母が進み出て、気味の悪い猫なで声を出した。
「私どもはただ、地味で無教養な千鶴には、名門伯爵家の奥方は荷が重いのではないかと心配しておりまして。その点、美弥子でしたら社交にも慣れておりますし、きっと久城殿の輝かしい未来のお役に立てるかと……」
美弥子様が頬をほんのりと染め、恥じらうように俯いてみせた。
「久城様……。私でしたら、何の取り柄もない姉よりも、ずっとあなたを愛せますわ」
「……愛せるだと?」
冬真様の声はひどく静かだった。
「私が醜いと嘲笑され、周囲が蔑む中、外見に惑わされず、私の心を見てくれたのは千鶴だ。……私が外見を変え、地位を確立した途端に尻尾を振って現れたような薄情な女と、妻を取り替える理由がどこにある」
絶対的な拒絶。美弥子様の目に、屈辱の涙が浮かんだ。
「何よ、私の方が……私の方が、ずっと美しいのに……!」
「それが何だ」
冬真様は一言で切り捨てた。そして、私をさらに強く抱き寄せながら、鼻で笑うように言った。
「それに、お前より千鶴の方がよほど美しい。今日も男どもの視線から千鶴を隠すのに、どれほど苦労したと思っている」
(え……?)
冬真様の切って捨てたような無慈悲な言い分に、美弥子様の顔が醜く歪む。
父が焦ったようにすり寄り、口を挟んだ。
「し、しかし久城殿!我が篝宮家と久城家は、今後も仕事上の付き合いが――」
「ああ、それも今日で終わりだ」
冬真様が冷酷な目で顎をしゃくると、背後に控えていた軍人が無表情に一歩前へ出た。そして、腕に抱えていた分厚い革張りの書類束をバサリと広げた。
「篝宮家が経営難の穴埋めとして行ってきた架空売上の計上、ならびに偽会社三社を用いた循環取引の証拠書類です」
「なっ……!?」
淡々と告げられた罪状に、父の顔からサッと血の気が引いた。
「な、何を馬鹿な!でっち上げだ!」
喚く父を、冬真様は虫ケラでも見るような目で見下ろした。
「お前がトカゲの尻尾切りにしようとしていた大黒商会の番頭は、とうに憲兵隊が保護している。奴は、お前が主導した不正のすべてを自白し、裏帳簿も提出したぞ」
「あ、あいつ……裏切ったのか……っ!」
決定的な証拠を突きつけられ、父は膝から崩れ落ちた。震える唇からは、もはや言い訳すら出てこない。
すると、事態の深刻さに気づいた継母が、サッと青ざめた顔で父から距離を取り、すがりつくように弁明を始めた。
「あ、あなた……まさかこんな犯罪に手を染めていたなんて……!く、久城殿!私は何も知りません!すべてこの愚かな夫が勝手にやったことで――」
「白々しい」
冬真様の氷のような声が、継母の言葉を鋭く切り裂いた。
「千鶴の実母の遺産を不当に奪い取り、着服したのはお前だろう、後妻殿」
「っ……!?」
「本来千鶴が相続するはずだった有価証券や信託財産を、偽造した委任状で次々と売却した。その偽造書類の筆跡鑑定もすでに終わっている」
「ち、違います!私はただ、家計を助けようと……!」
「お前がもっと金を使いたいと喚くから、私が危ない橋を渡る羽目になったのだろうが!」
窮地に陥った父が血走った目で継母を怒鳴りつけた。
「あなたが事業に失敗して、借金を作るからでしょう!?そもそも千鶴を久城家に売り飛ばす計画だって、あなたが――」
「貴様、この期に及んで自分の罪を棚に上げる気か!」
互いの罪をなすりつけ合い、公衆の面前で醜く罵り合う両親。その見苦しい内部分裂を前にして、美弥子様はパニックを起こしたように頭を抱えて金切り声を上げた。
「ああっ、もうやめてよ!お父様もお母様も最低!私の輝かしい未来をどうしてくれるのよ!」
狂乱した美弥子様は、両親を突き飛ばすと、すがるような目で冬真様へと向き直った。
「く、久城様!私は何も知りませんわ!悪いのはすべてこの両親です!私は関係ありません、どうか私だけはお見逃しを……そうだわ、私を妻にしてください!私の方が――」
「黙れ」
冬真様は、まるで汚物でも見るかのような、底知れぬ嫌悪を込めた瞳で彼女をねめつけた。
「己の虚栄心のために千鶴を虐げ、罪が明るみに出れば見苦しく親を売り飛ばす。お前のような底意地の悪い女など、視界に入れるだけでも虫唾が走る」
「ひ、ひどい……っ」
絶対的な拒絶と侮蔑の言葉に、美弥子様はついに言葉を失い、へたり込んで顔を覆った。
「諸々の違法行為については、参謀本部と警務局の取調室でたっぷりと絞らせてもらおう」
「ま、待ってくれ久城殿!!」
完全に退路を断たれた父は、床に這いつくばり、無様に冬真様の軍靴に縋り付こうとした。
「これが明るみに出れば、我が篝宮家は完全に破産してしまう!頼む、義父である私をどうか見逃して――」
「自業自得だ。連れて行け」
冬真様が冷酷に言い放つと同時に、警備員たちが父の両脇を強引に固め、床から引き剥がそうとした。
「やめろぉぉっ!離せ!」
引きずられそうになった父は、必死に手を伸ばし、今度は私に向かって喚き散らした。
「千鶴!助けてくれ千鶴!お前からも久城殿に言ってくれ!私はお前の父親だろう!?家族を見殺しにする気か!」
その言葉に、私は静かに父を見下ろした。私を見る父の顔には、かつて私を物置へ追いやり、冷たい目で見下ろしていた時の威厳など微塵も残っていなかった。ただ己の保身のために、散々蔑んできた娘に涙を流して縋り付く、ひどく惨めで滑稽な姿だった。
私は一歩前へ出ると、床でもがく父を静かに見下ろした。
「……父親、ですか」
私の静かな声に、父がハッと顔を上げ、希望にすがるような目を向けた。
「支度金も持たせず、厄介払いのように私を久城家へ売り飛ばしたあの日。あなたは私に『二度と篝宮の敷居を跨ぐな』と仰いましたね」
「そ、それは……っ、言葉の綾だ!お前を立派な家に嫁がせるための親心で――」
「ええ。ですから、そのお言葉通り、私はあの家へ帰るつもりはありませんし、もう篝宮の娘に戻るつもりもございません」
私は、怯える父の目を真っ直ぐに見据えた。
「今の私は、久城千鶴です。私の大切な家族は、今私の隣にいる旦那様だけ。――どうか、二度と私の名前を呼ばないでください、篝宮様」
ピシャリと告げられた決別の言葉に、父は絶望に顔を歪め、もはや言葉にならない悲鳴を上げた。
「あ……ああ……っ」
もはや抵抗する気力すら完全に失った父は、警備員たちに両脇を抱えられ、ズルズルと回廊の奥へと引きずられていく。
「いやよ!爵位を失うなんて!貧乏な生活なんて、絶対にいやぁぁっ!」
狂乱して泣き叫ぶ美弥子様も、真っ青な顔の継母も、容赦無く連行されていった。
遠ざかる彼らの悲痛な叫び声が回廊に木霊したが、私はただ静かに、その無様な背中を見送っていた。最後まで怨嗟と絶望の籠もった目で私を睨んでいた彼らの姿を見ても、私の心には恐怖も、怒りも、一欠片の同情すらも湧かなかった。
地獄の底から響くような、低く冷酷な声が回廊を震わせた。父の動きがピタリと止まる。そこには、氷のような怒気を放つ冬真様が立っていた。さらにその背後には、屈強な軍服姿の男が二人と、鳳雷館の警備員たちが控えている。
「く、久城殿……!なぜここに……」
「もう一度だけ言う。その汚い手を、今すぐ千鶴から離せ」
軍の参謀としての圧倒的な殺気。震え上がった父は、慌てて私の腕から手を放した。冬真様はすぐさま私のそばへ歩み寄り、庇うように私を自分の大きな背中の後ろへ隠した。
「久城殿、どうか誤解なさらないでくださいませ」
継母が進み出て、気味の悪い猫なで声を出した。
「私どもはただ、地味で無教養な千鶴には、名門伯爵家の奥方は荷が重いのではないかと心配しておりまして。その点、美弥子でしたら社交にも慣れておりますし、きっと久城殿の輝かしい未来のお役に立てるかと……」
美弥子様が頬をほんのりと染め、恥じらうように俯いてみせた。
「久城様……。私でしたら、何の取り柄もない姉よりも、ずっとあなたを愛せますわ」
「……愛せるだと?」
冬真様の声はひどく静かだった。
「私が醜いと嘲笑され、周囲が蔑む中、外見に惑わされず、私の心を見てくれたのは千鶴だ。……私が外見を変え、地位を確立した途端に尻尾を振って現れたような薄情な女と、妻を取り替える理由がどこにある」
絶対的な拒絶。美弥子様の目に、屈辱の涙が浮かんだ。
「何よ、私の方が……私の方が、ずっと美しいのに……!」
「それが何だ」
冬真様は一言で切り捨てた。そして、私をさらに強く抱き寄せながら、鼻で笑うように言った。
「それに、お前より千鶴の方がよほど美しい。今日も男どもの視線から千鶴を隠すのに、どれほど苦労したと思っている」
(え……?)
冬真様の切って捨てたような無慈悲な言い分に、美弥子様の顔が醜く歪む。
父が焦ったようにすり寄り、口を挟んだ。
「し、しかし久城殿!我が篝宮家と久城家は、今後も仕事上の付き合いが――」
「ああ、それも今日で終わりだ」
冬真様が冷酷な目で顎をしゃくると、背後に控えていた軍人が無表情に一歩前へ出た。そして、腕に抱えていた分厚い革張りの書類束をバサリと広げた。
「篝宮家が経営難の穴埋めとして行ってきた架空売上の計上、ならびに偽会社三社を用いた循環取引の証拠書類です」
「なっ……!?」
淡々と告げられた罪状に、父の顔からサッと血の気が引いた。
「な、何を馬鹿な!でっち上げだ!」
喚く父を、冬真様は虫ケラでも見るような目で見下ろした。
「お前がトカゲの尻尾切りにしようとしていた大黒商会の番頭は、とうに憲兵隊が保護している。奴は、お前が主導した不正のすべてを自白し、裏帳簿も提出したぞ」
「あ、あいつ……裏切ったのか……っ!」
決定的な証拠を突きつけられ、父は膝から崩れ落ちた。震える唇からは、もはや言い訳すら出てこない。
すると、事態の深刻さに気づいた継母が、サッと青ざめた顔で父から距離を取り、すがりつくように弁明を始めた。
「あ、あなた……まさかこんな犯罪に手を染めていたなんて……!く、久城殿!私は何も知りません!すべてこの愚かな夫が勝手にやったことで――」
「白々しい」
冬真様の氷のような声が、継母の言葉を鋭く切り裂いた。
「千鶴の実母の遺産を不当に奪い取り、着服したのはお前だろう、後妻殿」
「っ……!?」
「本来千鶴が相続するはずだった有価証券や信託財産を、偽造した委任状で次々と売却した。その偽造書類の筆跡鑑定もすでに終わっている」
「ち、違います!私はただ、家計を助けようと……!」
「お前がもっと金を使いたいと喚くから、私が危ない橋を渡る羽目になったのだろうが!」
窮地に陥った父が血走った目で継母を怒鳴りつけた。
「あなたが事業に失敗して、借金を作るからでしょう!?そもそも千鶴を久城家に売り飛ばす計画だって、あなたが――」
「貴様、この期に及んで自分の罪を棚に上げる気か!」
互いの罪をなすりつけ合い、公衆の面前で醜く罵り合う両親。その見苦しい内部分裂を前にして、美弥子様はパニックを起こしたように頭を抱えて金切り声を上げた。
「ああっ、もうやめてよ!お父様もお母様も最低!私の輝かしい未来をどうしてくれるのよ!」
狂乱した美弥子様は、両親を突き飛ばすと、すがるような目で冬真様へと向き直った。
「く、久城様!私は何も知りませんわ!悪いのはすべてこの両親です!私は関係ありません、どうか私だけはお見逃しを……そうだわ、私を妻にしてください!私の方が――」
「黙れ」
冬真様は、まるで汚物でも見るかのような、底知れぬ嫌悪を込めた瞳で彼女をねめつけた。
「己の虚栄心のために千鶴を虐げ、罪が明るみに出れば見苦しく親を売り飛ばす。お前のような底意地の悪い女など、視界に入れるだけでも虫唾が走る」
「ひ、ひどい……っ」
絶対的な拒絶と侮蔑の言葉に、美弥子様はついに言葉を失い、へたり込んで顔を覆った。
「諸々の違法行為については、参謀本部と警務局の取調室でたっぷりと絞らせてもらおう」
「ま、待ってくれ久城殿!!」
完全に退路を断たれた父は、床に這いつくばり、無様に冬真様の軍靴に縋り付こうとした。
「これが明るみに出れば、我が篝宮家は完全に破産してしまう!頼む、義父である私をどうか見逃して――」
「自業自得だ。連れて行け」
冬真様が冷酷に言い放つと同時に、警備員たちが父の両脇を強引に固め、床から引き剥がそうとした。
「やめろぉぉっ!離せ!」
引きずられそうになった父は、必死に手を伸ばし、今度は私に向かって喚き散らした。
「千鶴!助けてくれ千鶴!お前からも久城殿に言ってくれ!私はお前の父親だろう!?家族を見殺しにする気か!」
その言葉に、私は静かに父を見下ろした。私を見る父の顔には、かつて私を物置へ追いやり、冷たい目で見下ろしていた時の威厳など微塵も残っていなかった。ただ己の保身のために、散々蔑んできた娘に涙を流して縋り付く、ひどく惨めで滑稽な姿だった。
私は一歩前へ出ると、床でもがく父を静かに見下ろした。
「……父親、ですか」
私の静かな声に、父がハッと顔を上げ、希望にすがるような目を向けた。
「支度金も持たせず、厄介払いのように私を久城家へ売り飛ばしたあの日。あなたは私に『二度と篝宮の敷居を跨ぐな』と仰いましたね」
「そ、それは……っ、言葉の綾だ!お前を立派な家に嫁がせるための親心で――」
「ええ。ですから、そのお言葉通り、私はあの家へ帰るつもりはありませんし、もう篝宮の娘に戻るつもりもございません」
私は、怯える父の目を真っ直ぐに見据えた。
「今の私は、久城千鶴です。私の大切な家族は、今私の隣にいる旦那様だけ。――どうか、二度と私の名前を呼ばないでください、篝宮様」
ピシャリと告げられた決別の言葉に、父は絶望に顔を歪め、もはや言葉にならない悲鳴を上げた。
「あ……ああ……っ」
もはや抵抗する気力すら完全に失った父は、警備員たちに両脇を抱えられ、ズルズルと回廊の奥へと引きずられていく。
「いやよ!爵位を失うなんて!貧乏な生活なんて、絶対にいやぁぁっ!」
狂乱して泣き叫ぶ美弥子様も、真っ青な顔の継母も、容赦無く連行されていった。
遠ざかる彼らの悲痛な叫び声が回廊に木霊したが、私はただ静かに、その無様な背中を見送っていた。最後まで怨嗟と絶望の籠もった目で私を睨んでいた彼らの姿を見ても、私の心には恐怖も、怒りも、一欠片の同情すらも湧かなかった。
