物置令嬢の契約結婚 ~旦那様が健康になっていくのが楽しいだけだったのに、いつの間にか溺愛されています〜

 体に優しい温かい食事と、向かい合って座る食卓での穏やかな会話。そして、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら歩く、お庭の散歩。私たちが共に過ごす何気ない日々の積み重ねは、目に見えないほどゆっくりと、けれど確実に冬真様を変えていった。

 最初の変化は、本当にささやかなものだった。散歩の途中で息を切らすことがなくなり、朝、寝室から出てくる足音が軽くなった。眉間に寄っていたシワが薄くなり、会話をするときの声に柔らかな張りが生まれた。そして、いつしか軍服の帯革(ベルト)の穴が、一つ、また一つと内側に変わっていったのだ。

 そんな小さな変化が降り積もり、数ヶ月の季節が巡る頃には――冬真様の体つきは、見違えるほど精悍なものへと変わっていた。

 重たげだった脂肪はすっきりと落ち、元々大柄だった体躯は、しなやかな筋肉で美しく引き締まっている。軍の激務と不眠が刻んでいた目の下の深い隈もすっかり消え去り、雪のように透き通る白い肌は、健康的な血色を取り戻していた。

 ある日、屋敷に呼ばれた仕立屋が、採寸をしながら目を丸くして驚いていた。

「いやはや、久城様。以前のお召し物がまるでぶかぶかでございますね。すっかり精悍になられまして……お見事でございます」

 そうして仕立て直された新しい軍服は、引き締まった長身に隙なく似合い、まるで彫刻のように美しかった。

「ふふふ、やはり、私の目に狂いはありませんでしたね」

 姿見の前で軍服の着心地を確かめる冬真様を見て、私が満足げに頷くと、彼は鏡越しの私を見てふっと息を吐いた。

「……また鼻筋の話か?」

 新婚初夜に交わされたひどい会話を、からかうように持ち出す冬真様の横顔はとても穏やかだった。『かなりお肉が余っておいでです』と私が正直に言い放ち、彼が苛立ちを隠さなかったあの夜から思えば、私たちの関係はずいぶんと変わったものだ。

「鼻筋だけではございませんよ。伏せられた銀色の睫毛も、やっぱりお綺麗です」
「お前は本当に、相変わらずだな」

 呆れたように笑う彼の横顔は、出会った頃の刺々しさが嘘のように穏やかだった。

 その日は、新調したばかりの軍服を着て出仕した冬真様の仕事帰りに合わせて、私たちは少しだけ帝都の街へ出かけることになった。
 来たる夜会に向けて、私に必要な小物などを揃えるためだと言って、わざわざ時間を割いてくれたのだ。

 活気あふれる目抜き通りを歩き始めてすぐ、私はある異変に気がついた。
 すれ違う人々が、次々と足を止め、はっとして冬真様を振り返るのだ。特に若い令嬢たちは、歩み寄る冬真様の姿を見るなり頬をぽっと赤く染め、扇子や手鏡で顔を隠しながらひそひそと囁き合っている。

「ねえ、あの方……どこの貴公子かしら」「軍服を着ておられるわ。異国の血を引いておいでなのかしら、銀色の髪が陽に透けて綺麗……」「まるで俳優みたいね」

 周囲のざわめきに、私は思わず瞬きをした。無理もない。雑踏の中でも頭一つ抜けて背が高い冬真様は、ただ立っているだけで目を引く。無駄な肉が落ちたことで、もともと端正だった骨格が際立ち、氷のように澄んだ青い瞳と相まって、息を呑むほど完成された美丈夫へと変貌を遂げていたのだ。

(旦那様が素敵な方だということは、最初から知っていたけれど……)

 こうして他人の客観的な視線に晒されてみると、その事実が唐突に、そして強烈に現実味を帯びて迫ってくる。かつての面影は、もうどこにもない。今私の隣を歩いているのは、誰もが振り返り、憧れの眼差しを向けるような見目麗しい男性なのだ。

 急に自分の隣にいる人がひどく遠い存在のように思えて、私が立ち止まって見上げていると、冬真様が不思議そうにこちらを振り返った。

「どうした、千鶴。歩き疲れたか?」

 周囲の熱を帯びた視線など全く気にも留めていない様子で、彼は歩み寄り、人混みから私を庇うようにすっと背中に大きな手を添えた。見下ろしてくる端正な顔立ちが、あまりにも近い。澄んだ青い瞳に私の顔が映り込んでいるのが見えて、ドクン、と胸の奥が妙な音を立てた。

「え、あ……いえ、疲れてなどおりません」
「本当か?なんだか顔が赤いぞ。さては人当たりでもしたか」

 心配そうに眉を寄せた冬真様は、手袋を外すと、その大きな手のひらで私の額にそっと触れた。ひんやりとした心地よい手が触れた瞬間、自分の顔がカッと火を吹くように熱くなるのがわかった。

「ち、違います!熱なんてありません!ただ、少し日が眩しいだけで……っ」

 私は慌てて彼の手から身を離し、両手で自分の頬をパタパタと仰いだ。

 周囲の令嬢たちが、遠巻きに冬真様を見つめて頬を染めているのが視界の端に入る。冬真様が健康になられたことは、心から嬉しい。彼が本来の美しさを取り戻し、世間から正当な評価を受けるのは喜ばしいことのはずだ。それなのに、なんなのだろう、この胸がスッキリしない感じは。

(私は最初から、旦那様の素敵なところを知っていたのに……)

 外見だけでなく、口調は冷たくても本当は優しいところも、不器用に照れるところも、私だけが知っていたはずだった。それなのに、今さら外見だけを見て彼を持て囃す周囲の視線が、なんだか無性に面白くないのだ。

「……変な奴だな。具合が悪いなら無理をするなよ」

 私が一人でそんなよくわからない感情に振り回されている理由など露知らず、冬真様は不器用に私の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出してくれた。気遣ってくれるその横顔の美しさに、私はまた少しだけ鼓動を早めながら、慌てて彼の隣に並んだ。