ひとしきり笑った俺は、涙が出そうになる目をごしごしと擦りながら、驚いて固まっている彼女の姿を再びじっと見つめた。今までにないほど心が軽くなっている。
それと同時に、この突飛で愛らしい女の子のことが、どうしても気になって仕方がなくなってしまった。
「俺、観月冬弥。君は?」
咄嗟に、柄にもなく自分から自己紹介の言葉を口にしていた。いつもなら一歩引いて相手を見る俺が、どうしてか自分を知ってほしいと焦っている。
すると彼女は、少し恥ずかしそうに頬を染めながら、小さな手を胸の真ん中にゆっくりと当てた。
そして、潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめ返してくる。
「私っ……安達、咲夏……!」
その名前が彼女の唇から零れ落ちた瞬間、示し合わせたかのように、柔らかい春の風がふわりと吹き抜けた。
風に誘われて、彼女の髪が滑らかな曲線を描いて柔らかく揺れる。
舞い散る桜の花びらの隙間から差し込む光が、彼女の輪郭を優しく縁取っていた。
その姿があまりにも幻想的で、綺麗で。
(今俺は、天使と会話してるんじゃないだろうか……)
大げさかもしれないけれど、本気でそう思ってしまうくらい、俺は彼女から視線を外すことができなくなっていた。
他人の嘘や計算を見破るための俺の鋭い観察眼は、今、彼女の圧倒的な純粋さに完全に敗北していた。
―――もっと知りたい。
―――――また会いたい。
そしていつか、その心地のいい声で、俺の名前を呼んでくれないだろうか。
胸の奥底で小さな芽を出したばかりの、だけど決して無視できないこの感情の名前を、俺はもう、ちゃんと知っている。
だけど、これ以上ここにいたら、自分の心臓の音が彼女に聞こえてしまいそうだった。
急に猛烈な気恥ずかしさが込み上げてきて、俺はすぐさまベンチから立ち上がると、足元に置いていた鞄を拾い上げた。
「じゃあ、安達さん。起こしてくれてありがと。……また学校で!」
なるべく平静を装って、これまでの人生で一番、裏も表もない本物の笑顔をにっこりと彼女に返し、俺にとって今日一番特別な名前を呼ぶ。
それだけ言い残すと、俺は逃げるようにして校門の方へと歩き出した。
一歩進むたびに、背中に彼女の視線を感じて、胸のドクドクという高鳴りがさらに激しくなっていく。
しばらく歩いて、ふと思った。
――さっきの出来事は、全部俺が見ていた夢だったんじゃないだろうか。
あの桜の木の下には、本当は誰もいなくて、ただ春の幻を見ただけなんじゃないか。
そんな妙な不安に駆られて、木からどんどん遠ざかっていた足を、俺はたまらず止めた。
確かめるように、もう一度、ゆっくりと後ろを振り返る。



