夏と冬が重なれば。番外編


咲夏の心臓は、もうとっくに正常なリズムを忘れてしまっていた。

「……え?!」

彼女の口から漏れたのは、それだけだった。信じられない光景が、頭の中で何度も反芻される。
気づけば彼女の背中は、机の上に仰向けで寝かされている。その上に、彼の影が覆いかぶさっている。

いつも冷静で、どんな時も爽やかに振る舞う彼が、今、咲夏の真上でネクタイを緩めている。

「……で?」

彼の声はいつもより低く、少し掠れていた。
咲夏の鼓膜を直接撫でるような、危険な響きが含まれている。

「俺の前で、他の男の服を羽織って、咲夏は一体どういうつもりなの?」

彼の指が、咲夏の肩に絡む。
咲夏は慌てて、自分が今着ているカッターシャツを思い出す。そうだ、さっきまで怜がいたから咄嗟に借りてしまったものだ。

「俺に、どうしてほしいの?」

あまりにも切なく、そして甘やかで、咲夏の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

(きゃーー!!冬弥くんに押し倒されてる!!どうしよう!!!なんかもつ色っぽい冬弥くんやばい!!だれか助けてぇ!!心臓破裂するううう!!)

咲夏の頬は、みるみる完璧に真っ赤に染まっていた。
彼女の視線は逃げ場を失って、冬弥の深い瞳に吸い込まれそうになる。

「ご、ごめんね?!冬弥くん!今度から気をつけるからっ——」

彼女が慌てて言い訳を始めようとしたその時、冬弥の指が優しく、しかし確かな力で彼女の手首を掴んだ。

「……あっ」

そのまま、ゆっくりと頭上へと導かれる。
抵抗しようと思えばできたはずなのに、でも、なぜか体が言うことを聞かない。

「咲夏はメイドなんだよね?」

冬弥の声が、耳元で囁くように響く。

「じゃぁ、執事の俺の言う事きかなきゃだめだよ?それとも——可愛いメイドには躾が必要かな?」

彼の指が、咲夏の胸元に触れた。
カッターシャツの一番上のボタンが、パチりと外れる。
その音が、異様に大きく聞こえた。

「やっ、冬弥くん!待ってっ!ごめんなさいっ!」

咲夏の声は、もうほとんど羞恥心の入った悲鳴に近かった。
冬弥は構わず、二つ目、三つ目のボタンを外していく。
彼の動きはゆっくりで、一つ一つの動作が、咲夏の心臓をさらに激しく打ち鳴らす。

やがて、カッターシャツが彼女の肩から滑り落ちた。
月明かりが、客間の大きな窓から差し込み、咲夏のメイド服を照らし出す。
黒いワンピースの上に、白いエプロン。
その可愛らしい姿が、月明かりの下で、まるで一枚の絵のように美しく浮かび上がる。

冬弥は、思わずごくりと生唾を飲み込んだ。

「……っ」

彼の指が、ゆっくりと咲夏の首筋に触れる。
そのまま、優しく、まるで壊れ物を扱うように、彼の唇が彼女の首に落ちた。

「ひゃっ!」

咲夏の体が、電気が走ったように跳ねる。
肌に触れる彼の唇の温度が、熱く、柔らかく、そして——怖いくらいに甘かった。

(きゃーー!!!無理無理無理無理無理無理っ!!!)

咲夏の心臓は、もう破裂寸前だった。
彼女の理性は、もう限界だった。
次の瞬間、彼女は無意識のうちに、両手を前に振り上げ、パシッと音を立てて冬弥の目を塞いだ。

「……え?」

冬弥が固まる。

「もうー!!冬弥くん!!ダメぇ!!!もう恥ずかしすぎて死んじゃうーーっ!!!」

咲夏の声は、もう半泣き状態だった。
じわりと涙が滲みそうになる。

冬弥は、その声ではっと我に返った。
彼の視線が、自分の下で今にも泣き出しそうな咲夏の姿を捉える。
彼女の顔は、耳の先まで真っ赤に染まっていた。その姿を見て、冬弥の顔もまた、一瞬で赤くなった。

「――あっ、俺っ!!」

彼は慌てて、咲夏の上から跳ねるように起き上がった。
その拍子に、ネクタイがさらに緩み、乱れた執事服が、彼の動揺を如実に物語っていた。

咲夏は、机の上で体を丸め、顔を隠すように両手で覆った。
心臓の音が、客間に響いているように感じられた。

「……もう、恥ずかしい」

咲夏の声は、くぐもっていた。
でも、その口元は、わずかに綻んでいる。
冬弥は、そんな彼女の姿を見てしばらく何も言えなかった。

月明かりだけが、二人の間を静かに照らし続けていた。