あなたを貸し出しできませんか

「なんだこれ……!」
 ブルーの付箋に書いてあるその言葉に唖然とした。——こんなの他の客に見られたら——耳まで真っ赤になった光生はボードからそれを剥がしてクシャリと握り潰す。
『あなたを貸し出しできませんか』
 そんな言葉が付箋には書いてあった。

 事の始まりは、数か月前に遡る。
 北沢光生(きたざわこうき)がブックカフェ【ストーリーズ】をオープンさせたのは一年前。学生の頃のバイトとサラリーマン生活でコツコツ貯めた資金で念願の店を開いた。インテリアや食器はシンプルに。コーヒーはこだわりを。BGMは流さない。あくまで主役なのは『本』なのだ。自分のセレクトした本を並べるとともに、それだけでは偏りすぎるから話題の本も取り入れて。オープン当初は、とあるインスタグラマーに取り上げられたこともあり、そこそこ客が来ていた。しかし似たようなカフェが次々とオープンし、次第に人々はそちらへ流れていった。このままではまずい。そう考えた光生が始めたのが、本の貸し出しだった。本がきちんと戻ってくるか心配ではあったが、テスト期間中に大きなトラブルはなく、すべて無事に返却された。
 そしてもう一つ、『貸し出し希望の声』を設置した。店内の目立つ場所にボードを掲げ、【ストーリーズ】に入れてほしい本や、貸し出してほしい本を付箋に書いて貼ってもらう。すべての希望を叶えることは難しかったが、なかなか好評で、リクエストの付箋はいつも貼られていた。
「おぉ、この本かあ。話題だもんなあ」
「マニアック過ぎて誰も読まないだろ」
 客同士がそれを見ながら言葉を交わし、コミュニケーションのきっかけにもなっている。
 そんなある日、いつものように付箋をチェックしているとある題名に目が入った。
「これ……」
 そこに書いてあったのは、光生が一番好きな小説【スカイドラゴン】だ。出版社が倒産し今は絶版。人気があまりなかったからどこを探しても手に入らない。自宅にあるのは読み過ぎてカバーがボロボロだ。三十年以上も前のこの作品を知っていてリクエストする人がいるなんて、と光生はその付箋を手にした。少し筆圧の薄い、丸みのある字だったが、不思議と男性が書いたような気がした。もっとも、この店の客の九割が男性なのだから、そう思っただけかもしれない。それは女性が苦手な光生にとっては思わぬ副産物だった。
 窓から注ぐ夕日が付箋の文字を照らす。——うれしい。純粋に光生はそう感じて思わず微笑んだ。

「マスター、この前のリクエストダメだった?」
 常連の増田がカウンター席から声をかけてきた。
「ごめんね。あの本はウチには合わないから」
 リクエストされた本は全て取り寄せしているわけではない。その中で光生がチョイスして【ストーリーズ】に入荷する。入荷の可否を一言添えて付箋に返事を書く。それもまた客とのコミュニケーションに繋がる気がしていた。
「ちぇ、じゃあ次また考える」
 入荷を見送られ、足が遠のく客もいるだろうが増田のように次こそはとリクエストを続けてくれる客もいて【ストーリーズ】の本棚は光生と客同士で作り上げられていた。
「これ借りたいんだけど」
 差し出されたのはカバーが外された【スカイドラゴン】。改めて探してみたが見つからず家にあったのをここに寄贈することにした。
「リクエスト、増田さんがしてくれたの」
 図書館のように貸し出しカードにニックネームを書いてもらい、光生が貸し出し日と返却日を書く。貸し出しはあくまで会員制としていて、ニックネームから個人名と連絡先を検索できるようにしていた。幸い、これまで返却されなかった本は一冊もない。
「いや、リクエスト付箋みてさ、途中まで読んでたなあって思い出したんだ」
 リクエスト付箋にニックネームの記入は不要。つまり誰が書いたのかは申し出がない限り不明なのだ。
「懐かしいよね。もう絶版だったから」
 増田ではないなら、誰がリクエストしてくれたんだろう。そう思いながら光生はサイフォンのコーヒーを見つめた。
 それから数日後。リクエスト付箋にはさまざまな本が書いてある中、光生はどきりと胸が弾んだ。——自分の好きな本がまたリクエストされていたからだ。それは【スカイドラゴン】をリクエストしたあの筆跡に似ている。まさかな、と思いながら付箋を見つめた。その後も数週間おきに、彼の付箋を忘れかけた頃を見計らったように、光生好みの本がリクエストされた。
 光生はこれが同一人物であることを確信し、誰なんだろうかと付箋を見ながら考える。リクエストされた本の貸し出しカードに共通するニックネームを見つけて検索したら誰であるかは調べられる。しかしそれは違う、と光生は頭を振った。——いいじゃないか、誰かわからないけど同じ感度を持つ人がいる、というだけで。
 ペンの蓋を開け、付箋に返事を書く。『入荷は一週間後です。お楽しみに』
 次はどの本がリクエストされるか、光生にとって密かな楽しみとなった。

 ある日ふと彼に目が入った。蛍光色のカバーが目を引く本は光生が気にしている薄い筆圧の男のリクエストでハーフアップの男がそれを読んでいる。彼はあまり見かけない客で、何故か目が引き寄せられたのはカバーのせいだけではない。本を読む姿勢も、ページをめくる所作も美しく感じたのだ。女性らしいとか、そういうことではなく——それにもしかしたら彼があのリクエスト付箋を書いてくれているのかもしれないと見てしまう。
 しばらくすると彼は立ち上がり本を持ってきて貸し出しカードを渡してきた。
「……はい、返却日は二週間後に」
「ありがとう」
 ふわりとした声。幾分か彼の方が背が高く見上げる格好だ。光生は思わず話しかけた。
「この本好きなんですか」
 すると彼は頷く。
「ええ。読みたいと思っていたので、嬉しいです」
 ——微妙なその返事に光生は少し落胆した。リクエストしたなら、その旨を伝えてくるだろうから。
「このお店のイメージに合いますね」
 そう言うと彼は本を受け取り会釈した。長い指に視線を移しながら光生は微笑んだ。

『シマ』
 それが彼のニックネームだった。他の貸し出しカードも見てみようか、などと無粋な思いが湧いてきては頭を振る。だめだ、そんなことはしたくない——でも知りたい。
 十一時の開店を前に、光生はルーチンにしている観葉植物への葉水をやりながら、ため息をついた。頭の中の彼を思い出しながら果たして『シマが薄い筆跡の男』かもしれないと気になっているのか、他の要因で気になっているのか——自分ですら分からなくなっていた。昨日も訪れたシマと少しだけ言葉を交わした時、胸が疼くのを感じていたからだ。
 葉水をやり終え、店内の掃除をしてリクエスト付箋が増えていないか確認する。どれも回答済みの付箋ばかり——と思っていたら一番下に無回答の付箋を見つけた。そこに書いてあったのは、本のタイトルではない。
『あなたを貸し出しできませんか』
 一人しかいない店内で、光生は思わず声を出した。
「なんだこれ……!」
 ブルーの付箋に書いてあるその言葉に唖然とした。——こんなの他の客に見られたら——耳まで真っ赤になった光生はボードからそれを剥がしてクシャリと握り潰す。その筆圧は薄くてほんの少し丸い文字。間違いなく光生が気にしている客のものだった。
 しばらくするとカランとドアが開く音がして振り向いた。視線の先にはスーツ姿の増田がいる。
「ちょうど近くまで営業で来ていたからさあ、コーヒーちょうだい。……ってどうしたの。顔が赤いよ」
「い、いやなんでも。いつものでいい?」

 午後三時のアンニュイな時間が【ストーリーズ】に流れる。BGMのない店内で聞こえるのは客の咳払い、サイフォンの湯が沸く音、そしてページを捲る音。自身でくしゃくしゃにした付箋を手で伸ばしながら広げ、光生はそれを見つめていた。
 カタリと椅子を引く音が聞こえ、光生は視線を上げた。立ち上がったのは、シマだ。手にしている本を持ち、ゆっくりと近づいてきた。
「貸し出し、お願いします」
 長い指で本を差し出す。二冊のうち、片方は光生の好きな作品だ。
「……僕のセレクトとあなたのチョイスはよく似ていますね。もちろんウチにある本はこだわりのセレクトですが……この作品好きなんです」
 思わず声をかけると、シマは少し驚いたような顔をしたがやがて口元を緩めた。
「この店に初めて入って本を見た時、自分の好きな作品ばかりで、驚いたんです。リクエスト付箋に気がついて——この店になくて俺が読みたい本は、多分この人も好きなんじゃないかなって思って」
「あなたが【スカイドラゴン】を?」
「はい。絶版になっていることは知っていたけど——まさか入荷されるなんて」
 ——ビンゴだ、と光生は思わず頬を赤らめた。あなたがあの人なんだ。
「あれは僕の家にあったものです。……リクエストに応えたくて」
「え? そんな、申し訳ない」
「いえ、僕が大好きな作品ですから、どうしても読んでいただきたくて。……あの、また、来てください。お待ちしています」
 くしゃくしゃにしたあの付箋のことは——と聞く勇気がなく光生が二冊を手渡すと、シマはゆっくりとうなずき、小さな声で呟いた。
「ありがとうございます。——ところでもう一枚リクエストした付箋が見当たらないのですが、お返事いただけませんか」
 思わず声を上げた光生に、そばにいた男が咳払いした。シマは唇に人差し指で『静かに』とジェスチャーして笑った。

 ***

 無類の本好きであるシマ——平嶋が人に勧められて【ストーリーズ】に入った時、店内にある本たちのセレクトが、自身の好みにあっていることに気がついた。話題の本なども混じっていたものの、いささかマニアックとも取れる、作品や作家たち。
 ——こんなセレクトしてるなんてどんな店主なんだろう。そう感じた平嶋はコーヒーを淹れている金髪の背が低い男が店主だと聞き二度目の来訪時にその姿をじっくりと見て——話がしたいと胸が疼いた。本の話でもいいからゆっくりと。それはもう、一目惚れに近かったのだ。
 本のリクエストができると聞いた平嶋は自分の好きな本を付箋に書いた。何故だか自信があったのだ。彼はきっとこの本たちが好きなんだと。付箋に返事が返ってくるたびに胸がざわざわして暖かい気持ちになっていく。数回やりとりした頃にはすっかりこれが恋心だと気がつき——。あんなキザなセリフを付箋に書いたのだ。
 
 あの日、店の外に出た光生はこう平嶋に答えた。
「ぼ、僕でよければ——貸し出しします」
 すると平嶋は大きな笑顔を見せた。それは初めて見る笑顔。まだまだ知らないことだらけで、知っていることは少ない。
 本が好きだということと——少なくとも、光生を好きでいてくれるらしいということ。そっと手を重ねると、平嶋の指がわずかに震えていた。
「——貸し出し期間は、無制限でお願いします」
 平嶋の言葉に光生はゆっくりと頷いた。

「うまくいったの?」
 増田は焼き鳥を突きながら目の前のハーフアップの男——平嶋にそう言った。平嶋は増田のコップにビールを注ぐ。そして手を合わせて増田を拝んだ。
「はい! 増田さんのおかげで」
「いや俺はただリクエスト付箋があるよっていっただけで——」
 平嶋は増田の営業先に勤めている。ある日、増田と打ち合わせする営業が出先で事故渋滞に巻き込まれ、しばらく会議室で待たせた時、対応したのが平嶋。
『一時間くらいかかるかもしれません』
『大丈夫っす、本読んでおきますから』
 カバンの中から出した本に目が入った。何故ならちょうど平嶋もそれを読んでいたから。思わず話しかけ盛り上がったのはいまから半年前。それからしばらくして勧められたのが【ストーリーズ】だったのだ。
「まさか平嶋っちがオーナー狙ってるなんて」
「ひ、人聞き悪いなあ。でも感謝しています」
 増田に相談したのは、誰かに聞いて欲しかったから。軽口を叩く彼だけどなんだか信頼できたのは——読書仲間だからだろうか。

 ブルーの付箋には、今日も新しい本の題名が書かれている。光生が返事を書いていると、店の奥にいた平嶋と目が合った。彼は、あの日と同じように笑った。
 【了】