愛さなくていいから、私を愛でろ

世界が祝福しているかのような、素晴らしい日だった。
空は青々とした晴天で、穏やかな風が花々の香りを運び、鳥が祝いの歌を囀る。

千は人生で一番美しく着飾らせられ、神社へと続く参道を歩いていた。
神社の鳥居までは村人が数人付き添っていたが、ここから先はついて行けないのだと。

重い、重い花嫁衣裳。
千は汚さないように慎重に歩く。

内心は、これから夫婦になるのだから迎えに来てもいいのではないか、なんて神に対してふてぶてしいことを考えているが、考えているだけなので不信心だとは言われないだろう。

長い長い階段の先にようやく見えてきた拝殿。
村人が毎日欠かさず手入れをしているため、建てられて二百年余りだが未だ綺麗だ。

「……着いた」

だが、拝殿についたところで誰も見当たらない。
言い伝えでは、ここを守る土地神さまはそれはそれは美しい人間の男のような外見をしているそうだ。

千は辺りを見渡し、手水舎やご神木などうろうろと彷徨ってみたが、誰もいない。
まさか、神さまなんてものはただの言い伝えで、私はここで餓死するのか!
ここまで育ててくれたのは……いやいや、考え直そう。
親のいない私を育ててくれた人たちの本意を疑うものではない。

「う~ん」

賽銭箱の裏にある階段に腰を下ろし、のどかな空気で眠くなりながら考える。
輿入れ準備は朝から大変だったのだ。
だというのに、一番に見せたい花婿は不在。
なんだ。日付間違いか?
村人がこの日を待ち遠しすぎて、明日とかひと月先とか、間違えたのか!?

千は親がおらず、村の一番豪華な家の豪華な部屋で村人たちに代わる代わる世話されてここまで大きくなった。
肩にある神の花嫁である印が千を蝶よ花よと村人に育てさせた。
そのため、千はだいぶ楽観主義であり、だいぶ図々しい娘へと育った。

「はぁ~、私の旦那様はすっとこどっこいじゃん……。あ~あ、美男子で愛妻家って聞いてたのに!」

「だぁれが、すっとこどっこいじゃ!」

「うおぁわっ!」

急に聞えた低音の呆れ声に千は思わず、悲鳴を上げて階段を一段落ちてしまう。

「ははっ! 見事な驚きようだな」

楽しそうな声に振り返れば、千のすぐ後ろに恐ろしく美しい男が立っていた。
絹のような長い黒髪、理知そうな瞳は悪戯っぽく和らいで、ツンと高い鼻がこれまた憎らしい。
千はその美貌にあっけにとられ、自分が階段から落ちてしまったことの文句を言おうとした口からは酸素が漏れるだけだ。

腕組をして、尻もちをついた花嫁に手も貸そうとしない、その神はどうした? と言わんばかりの表情でこちらを見下ろしている。
千は慌てて身なり整え、立ち上がり、口を開く。

「千と申します。えっと、この度は――」

「……待て」

千が口を開いたと同時に、その神は先ほどまでの楽し気な表情をひっこめ、戸惑うように遮る。

「お前、わしの名を知ってるか」

神さまって、自分のこと「わし」っていうんだ、なんて変な感想を抱きながら、千は記憶を掘り起こす。
幼い頃から叩き込まれた神さまの情報。

花嫁修業の一環である夫となる相手のことを知る、というものであるが、時間だけはたくさんあった千にとって、文献を読み漁るのは趣味とも言えるため、隅から隅まで読み込んだ。

だが、どこにも神の名など記載されてはいなかったはずだ。
きょとん、とする千に神は落胆したような、怒気を瞳に宿す。
千からしてみれば、知らないものは知らないし、知らないことは自分の落ち度ではない。
事前資料は読んでいる。

「……お前、なんて言われてここにいる」

冷たい低音が神社一体の空気を凍らせる。
先ほどまでの穏やかさはどこへやら。
辺りが暗くなったと思えば、雨が降り出す。
地面を抉るようなその雨に、千はこれは神の怒りなのだと理解した。

「わ、私の肩には生まれつきの痣があり、……花の文様で、神の花嫁の印だと……。十八になった今日、私は神さまに嫁ぐことが決まっていたはずです」

「……なぜ、花嫁なのか知ってるか? その方が都合がいいからだ。花嫁というのは、大事にされるべきものだからな。人身御供なら人間は嫌がるが、花嫁なら大事にされるかもしれない、なんてバカげた妄想ができる。……ふん、これだから人間は」

失望、怒り、呆れ、神の瞳が様々な色で揺れる。
だが、千には知ったことではない。

行けと言われたから来た。なのに、理由も分からず怒られている!
しかも、怖い!
理不尽だ!
千の中で理不尽にさらされた怒りが膨らんでいく。

「わしはお前を花嫁としては扱わん! 妖力供給源だ。それで、村にも恩恵がある。平等じゃ」

はぁ~~~!?
どこが平等だ! 私の幸せはぁ!?

「お前に求めるものは二つ。一日三回、妖力を渡すこと。じゃなきゃ、お前ごと食う」

「……食う?」

神が全く笑っていない色を浮かべて意地悪く笑う。

「知らんのか? わしは神になる前、妖だった。神になったからと言って、食生活は変わらんぞ」

それは文献にも載っていた。
高い妖力を持つ妖で、ここ一体の妖払いや陰陽師を泣かせていたのだと。
あと数百年生きれば、大妖怪になっていたんじゃないかと書かれていた。
理不尽に恐怖にさらされた千は、神の話を聞くやる気をすでに失っているが、神は続ける。

「もう一つ、わしに愛されようなんて思うな。人間の女はすぐ愛だの恋だの騒ぐ」

やる気なく右から左へと流しきろうとしていたが、千にとって聞き捨てならない言葉が聞こえ、瞬間的に顔をあげた。

「うざい……うっざい!」

「は」

蝶よ、花よと育てられた千には耐えがたい。

「私は、生まれた瞬間からお前さまの花嫁ですよ! 私の意思はありません! けど、花嫁だと言われ、育ち、こうして今日、ここにいるのです! それをぐだぐだと!! やかましい!」

人生で一番の大声だった。
眼前の美しい神があっけにとられ、目を丸くしているのを見て、少しだけ気が晴れるが、千にはまだ言いたいことはある。

「お前様が私に条件を突きつけるなら、私にも条件があります! いいですか!? いいですよね!? ね、神さま!」

「お、おう……」

先ほどまでの支配的な表情は一転、千の勢いに押されている。

「一つ、私の死ぬまでの衣食住の保証! ごはんあるんですか? 私の住むところは? 寝るところは? 綺麗なところじゃないと嫌」

「あ、ある……。神には神の住む場所がある。お前は今日から、そこに住む」

「綺麗ですか?」

「お前が見たことなどないほど」

「ならいいです。ごはんは!」

「お前の飯なんて――」

「ごはんは!」

「……わしは人間の食うもんなんぞ作れん。神使にお前が頼めばいい」

怒られた子供のように唇を尖らせて、ぼそぼそと神が喋る。
こいつ、顔だけだな。
千は、不敬にもそんなことを思った。

「もう一つ! 私は、大事に大事に育てられました」

「だろうな。わしのための供物だからな。しかも、供物になった後、虐げて育った花嫁がわしどう告げるか分からんし、そりゃ、忌々しくても大事に育てるだろう」

意地の悪い言葉だが、千の中ではすでに飲み込んだ感情だ。
どうだっていい。

「私は、この日をとても楽しみにしていたのです。……誰か一人のたった一人になれるから」

「……、」

「毎日、私に可愛いと言って頭を撫でてください!」

「……は?」

「だから」

「わし、花嫁として扱わんと言ったが?」

自分の要求を無視するな、と神が眉間にしわを寄せる。
だが、千だって譲れない。
何年、この日を夢見たと思っている。

「花嫁として扱わなくても、可愛いと言って頭を撫でることくらいできるのですよ! お前さまは神なのに、そんなこともできないのですか!?」

「はぁ~!? わしを愚弄するなよ、小娘が! できるし!」

「なら、して!」

交渉は成立だ。
腹立たしいと目の前の神が怒気を全身から発している。
だが、先ほどよりも天気は落ち着いたように思う。
土砂降りだった雨は止み、風が吹き荒れる。

神が千に背を向け、ついて来いと一瞥する。
拝殿の裏に回り、本殿をも素通りする。
足の長さの違いか、ただ単に神の歩みが早いだけか、千は必死にその背を追いかけた。

嵐のような風の中、袂が吹かれ、結った髪の飾りが煽りを受ける。
それでも必死について行く千を神は全く気にかけることはない。

本殿の裏手にある簡素な鳥居。
そこは通ってきた参道の入り口とは比べ物にならない程、汚れており、塗装も剥げている。そして、向こう側は崖だった。

神は振り返りもせず、そこへと歩を進め、鳥居をくぐり――消えた。

「は、え……えっ、……」

目の前で起きた現象に千は目をぱちくりさせ、先ほどまでの苛立ちも怒りも驚きでどこかに行ってしまった。

「え、あの嘘つき! おいてった!」

「誰が嘘つきじゃ! お前もはよこい!」

鳥居の先からそんな怒鳴り声が聞こえ、見えないだけでそこに居るのだと分かるが……あまりにも、

「えぇ、……むり」

あの意地の悪い、顔だけの神が千を騙している可能性だってあるのだ。
そのまま進んで、千は崖の下、なんてこと考えたくはない。

「……私、本殿に住む。別居婚……」

「はぁ!? わしに一日三回、そっちに来いって言っとんのか!」

「そうですよ! どうして、私がそちらへ行けると思うのですか!?」

「……めんどくせぇ!」

そう言って、神はうんともすんとも言わなくなった。
千は腹立たしい気持ちを抑えるべく、本殿の中がどうなっているか確認しようと回れ右をした。

「花嫁さま……?」

小さな声がした。
可愛らしい鈴の音が鳴るような声に千はキョロキョロとあたりを見渡す。

「花嫁さま」

背後から聞こえるその声に、千は振り返る。
すると、神が消えた鳥居からにょっと何かが飛び出していた。
空間から生える、不思議な「それ」に近寄り、確認してみると、動物の手のようなもの。

「なにこれ」

「こちらへ」

手招きされて、千はおずおずと近寄っていく。
犬のようなそれはコロンと丸くて、肉球があり、千は思わず触ってしまう。

「うひゃっ! にくきゅう~」

触っても微動だにしないのをいいことに、千が肉球の心地よさを楽しんでいると――。

「花嫁さま」

その声と共に肉球を弄んでいた手が握られ、ものすごい勢いで引かれる。
一瞬で目の前が白く染まり、ぐらぐらと視界が揺れる。
鳥居の先は崖の下、その認識で身体がこわばった瞬間、千の手のひらが硬いものに触れた。

強過ぎる光でチカチカと焦点が定まらない視界をどうにかこうにか安定させる。
どのくらいの時間が経ったかは分からないが、ようやく視線の先が白いことが分かり、徐々にそれが見た目は柔らかな雲のようなものであることが分かる。
振り返れば、赤く美しい鳥居があり、その先はまるで大きな湖に繋がっている。

幻想的な風景だった。
千は座り込んだまま、その美しい場所に圧倒される。
手触りは固いが、見た目はまるで雲のような地面に、豪華な武家屋敷のような建物。
その隅の方には、雲の土で出来た畑のような何か。

「極楽浄土……」

「花嫁さま、花嫁さま」

再び神社で聞いたあの可愛らしい声に意識が引き戻される。
声の方へと振り向くと、そこには狸が立っていた。
二本の足で立つ狸だった。