名前のない魔女は、祝福を受けられない

 鼓動が止まらないのはなぜだろう。
 いつもと同じで、ベンチから試合を見ているだけなのに。
 監督が飛ばす過剰な檄も、視界の端でせわしなく給水ボトルを運ぶマネージャーも、今日はなぜか気にならない。
 体育館の中には湿気と熱気が充満し、靴底のきしむ音があちらこちらで響き渡る。
 第三クォーターも終盤。スコアは60対62。うちのチームがわずかにビハインドの状況だが、ほぼ互角の試合と言っていい。
 相手チームはリズムに乗っていて、速攻が決まるたびにベンチが跳ね上がる。スタンドのざわめきも相手側の応援が目立ち、こちらの側はため息混じりだった。
 「ディフェンス!」と叫ぶ先輩たちを嘲笑うように、相手のシュートはゴールに吸い込まれていく。時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる気がした。
「一本!」
 スターティングメンバーは、声を掛け合いながら決死の戦いをしている。
 中学の頃は、それを目の当たりにしても、何とも思っていなかった。
 当事者意識がまったくなかったのだろう。
 なぜなら、自分はただの補欠で、出場機会とは無縁な存在だったからだ。
 でも、今は違う。
 「誰かのためにプレーする」ような感傷的な心持ちではない。「このメンバーで絶対に全国に行く!」という、スポーツ漫画の主人公のような熱い気持ちもない。
 今でも俺自身には、何もない。
 じゃあ、何が変わったというのだろう……?
 俺はあの日、”彼女”に出会ってしまった。ただそれだけなのだ。
 体育館の二階に現れる謎の幽霊。校内で騒がれている、世にも奇妙なポルターガイスト現象の原因。
 どんな形容の仕方をするかは重要ではない。実際のところ俺には、誰にも観測されることのない、ひとりぼっちの、哀しい少女にしか見えなかったのだから。
”圭太君、わたしのことそんな風に思ってたんだ……ひどい。散々な言い様だね”
 想像の中で彼女が、そんな風に語りかけてくる。
 どことなく笑いを含んだ口元。
 ダウナーながらセンチメンタルさを微塵も感じさせない、平坦な喋り方。
 どんな表情をしているのか。全体を見ようとすると、輪郭が霧のようにぼやけて、どうしても掴めない。
 自分に言い聞かせる。
(いい加減気づけよ。もう彼女はこの世界にいないんだって。彼女に俺のプレーを届けることなんて、もうできないんだ)
 ただ、俺の頭の中に、彼女と触れ合う中で得たもの。それだけが残っていて、プレーの中で生かすことはできるんじゃないかって、そういう風に思う。
 だから、今はただじっと待つ。選手交代の笛が鳴るそのときを。
 俺は目を閉じて、少しの間だけ、これまでのことを思い出していた。
 
 
 時は、約二週間前に遡る――。
 
「そして……最後に、森。暫定のメンバーは以上だ。コンディションを見て、試合直前にも入れ替えを行うからな。全員気を抜くなよ」
 試合前のメンバー発表。監督はまたもや俺をベンチ入りさせた。
 出場させるつもりもないはずなのに、なぜ監督は俺を毎試合ベンチ入りさせるのか。
 高校バスケにおいて、ベンチ入りできる選手の人数は十五人。それに対する、うちの部員数は二十六人。
 人数的に余裕がないわけでもない。頭数が欲しいだけなら他の部員でもいいはずだ、と思う。
 しかも今回はただの練習試合ではない。インターハイの県予選である。
 この際、監督に聞きたいことは山ほどあった。
 しかし、一昔前のスポーツ漫画に出てきそうなあの強面監督は話を終えると、バインダーを小脇に抱えてそそくさと部室を去ってしまった。
「――はぁ」
 ため息をつきながらもシューズの紐を結びなおして、俺はスリーポイントエリアへ向かっていった。
 ボールを軽く衝いて手に感覚を馴染ませてから、ゴール目掛けてシュートを放つ。
 ボールはバックボードにぶち当たり、虚しい音を立ててゴールから逸れていった。
 真後ろにある格子窓のすぐ向こう側を、「ラーメン食いに行こうぜ」などと話しながら、男子生徒数名が帰宅していくのがわかった。それを横目に、カゴから次のボールを手に取る。
 俺、森圭太は、部活終わりに毎日シュート練習をしている。
 ただし、メインの新体育館は二十時を過ぎると、居残り練習をしたい部活動生でごった返す。いくら広いとはいえ、バスケ部だけでなく、バレー部やバドミントン部、ダンスの練習をするグループまでもが入り混じって、とても集中できる状況じゃない。
 そのため、いつからか俺は、全体練習が終わり次第、旧体育館に足を向けるようになった。旧体育館は、現在の新体育館が建てられる以前に主だって使われていた体育館である。設備は古いが、人気がほとんどないので居心地がよく、こっちの方が集中できるのだ。
 なんで毎日、自主練をするかと言うと――。
 要領が良い方ではないので、周りと同じ練習量だけではいつまで経っても差が埋まらないというのもあるが、一番の理由は違う。
 単にシュートを打つのが好きなのだ。
 誰にも邪魔されず、ひたすら自分と向き合えるこの時間が、とにかく好きなのである。
 シュートを放とうと、再度ゴールを見据える。
 そのとき、ふと真上にある二階席に視線が向いた。
 そこには一人の女子生徒が、席に座るでもなく立ちすくんでいた。
 少しウェーブがかった長い黒髪を、窓から見える夜の闇に同化させた彼女は、静止画のようにじっと動かずこちらを見ている。
「何か御用ですかぁ?」
 体育館に忘れ物でもしたのかと思い、声をかけてみたが、返答はない。
 彼女は相も変わらず、直立不動で俺を見下ろしている。
 十秒ほど経っても返答がないため、「おかしな人だな」と思いつつも練習を再開しようとしたところ
「楽しい? バスケットボール」
 二階から返答があった。
 落ち着いているのだが低くはない、涼しげで低体温な声だった。
「まぁ、それなりに」
「そう」
 それきり会話が途切れた。だが、質問の意図が気になって聞き返す。
「バスケ、好きなんですか?」
 数秒の間をおいて彼女は答えた。
「別に。ただ、毎日シュートを外し続けてるのにどうして平気そうなのか、気になっただけ」
 思わず頬が熱くなった。どうやら今まで気づかなかっただけで、彼女は以前から俺のシュート練習を見ていたようだ。
「……まさか、誰かに見られてるとは思わなかった」
 素直に呟くと、彼女は少し驚いたような顔をしていた。
「この時間ならまだ校内に生徒は残っているものでしょう? それに、誰かに見られることを恥ずかしがっていたら練習にならないし」
 彼女の主張はあまりにも正論だったが、人間って、そう容易く割り切れる生き物ではないと思う。
「確かにそうなんだけどね。でも、なんか気にしちゃうんだよ。他人の目とかさ……」
 相手は名前も知らない赤の他人のはずなのに、なぜか本音が出てしまう。
 彼女は初めて少しだけ口元を緩めて、言った。
「よくわからないわ」
「そうだよね。急にこんなこと言われてもわからないよな」
 彼女から指摘され、「コソ練しているのを誰かに見られるのが恥ずかしい」という感性そのものが間違っている、そんな気がしてきた。
「バスケット、詳しくないけど……ひとつ聞いていい?」
「……何?」
「なんでいつもそんなに遠くからシュートを打っているの?」
「三点入るからだよ」
 彼女は少し首を傾げながら質問を続けた。
「距離によって入る点数が変わるの?」
「この線より外からゴールを決めたら点が三点入るんだ。今の部には得意な人があんまりいないから、俺がそこを補えないかなって」
「でも、あなた新入部員なんでしょう? 今はそこまで考えなくてもいいんじゃないの?」
 その通りだと思った。俺は返答の代わりにボールを二、三回衝いて、彼女から視線を逸らした。
「そうかもね。でも俺は――」
 喋りながら次のシュートを打とうとした、そのときだった。
 ふと、また視線を二階席に戻す――いない。
 ついさっきまで確かにそこにいたはずの彼女の姿が、忽然と消えていた。
「え?」
 首を傾げながら、つい反射的に真後ろへ目を向ける。
 
 体育館のど真ん中。――そこに、彼女がいた。
 誰が見ても「模範的」だと感じるであろう制服の着方は、ともするとスクールパンフレットのモデルのようで、正直、体育館という場所の中では、異質な存在感を放っている。
 それでいて今この瞬間、世界に舞い降りたと言われても信じてしまうような清廉さと、静かに――まるで最初からそこにいたかのような自然さを兼ね備えていた。
 ふと足元に目をやると、彼女の上履きには、自分と同じ「一年生」を示す緑のラインが入っている。
「は?……いつの間に……」
 思わずそんな言葉が口からこぼれた。
 俺は、音も気配もなく彼女が一階に降りてきた事実に戸惑っていた。階段の音もしなかった。体育館は広いようで、空間のひとつひとつが意外と響く。でも、何も聞こえなかった。
 彼女はただ、静かにこちらを見ている。やっぱり、表情は読めない。
 俺が何か言葉を探して口を開きかけたとき、彼女が先に口を開いた。
「上からじゃ、よく見えなかったから――」
 まるで当たり前のことのように、彼女はそう言った。
「……見えなかったって」
 俺が返すと、彼女は視線を少しだけ横に逸らして、淡々と続けた。
「ボールの軌道とか、力の加減とか。下の方がよく分かると思って」
「それで降りてきたの?」
 彼女は頷きもせず、肯定とも否定ともつかない顔で俺を見ていた。
 やっぱり、妙な人だ。
 でも、なぜだろう。気味が悪いとは、微塵も思わなかった。
 彼女はゆっくりと俺のそばまで歩いてきて、立ち止まった。
「ちょっとだけ、近くで見てもいい?」
 その声は、さっきよりも少しだけ熱を帯びている気がした。
「……いいよ。でも、多分入らないと思う」
「……卑屈な人。もっと自信を持ったらいいのに」
 そんな何気ない彼女の言葉が、なぜかずっと胸に残っている。
 あのときの俺は確かに、ぼんやりと、ただひたすら数をこなせばいいと思い込んでいた。
 最初から、「どうせ俺には無理だ」と、あきらめながら練習をしていた。
 当たり前だけど、そんな心構えでシュートは決まらない。
 「……わかってるよ。俺がダメな奴なんてこと。それでも――」などと心の中で唱えつつ、今度こそボールを衝いて構えを取る。
 シュートモーションに入るとき、ふと感じた。背後から、視線が伸びてくる。
 それが彼女のものだとわかっているのに、いつもより心が静かだった。
 狙いを定めて、放つ。
 ボールはリングに当たりながらも、なんとかゴールに吸い込まれた。
「……入った」
 思わず呟くと、背後から彼女の声が届いた。
「今のは、少しだけきれいだった」
「ほんと?」
「うん。少なくとも、さっきのよりはね」
 そう言って彼女は、初めて少しだけ笑った気がした。
 俺はボールをもう一度キャッチして、ゴールの方を見上げた。
 ほんの少しだけ、自分の中で何かが変わった気がした。重荷に感じていたものがなくなったような、そんな感じ。
「……ありがとう」
 自然と、そんな言葉が口から出た。
 彼女はまたあの、何かを測るような静かな目で俺を見ていたけれど――すぐに、そっけない口調で答えた。
「私は事実を言っただけ。でも――」
 言葉を切って、彼女は少しだけ視線を落とした。
「人って、不思議ね。誰かに見守られてると、少しだけ強くなれるのかな?」
「え、ああ……たしかに」
 それはさっきの俺の体験そのままだった。
 その言葉の余韻が、体育館の静けさの中にじんわりと溶けていく。
「明日もやるの?」
 彼女の問いに、俺は一瞬戸惑ってから
「うん。……見に来るの?」
 と答える。冗談半分のつもりだったが、それを聞いた彼女は首を傾げて考えるような仕草をした。
「都合が合えばね」
 そう言って、彼女はボールカゴのそばを通り過ぎ、体育館の出口へと向かう。
 その背中を目で追っていると、ふと立ち止まり、振り返った。
「圭太くんって言ったっけ」
「あ、うん。圭太。森圭太。……なんで知ってるの?」
「前も上から見てたんだ、あなたたちのこと。そのとき、あなたの友達がそう呼んでたから」
 彼女は、口元だけでうっすらと笑って
「またね」
 とだけ呟くと、夜の校舎に消えていった。
 ”圭太くん”――。
 彼女の声は、なぜだか妙に胸に残った。
 ドアの閉まる音が静かに響いたあと、俺は手元のボールを見つめた。
 さっきのシュートの感触を、もう一度確かめたくて。
 再び構えをとる。
 視線の先に彼女はいない。
 でも、たしかにあのとき感じた“誰かの視線”は、まだ俺の背中に残っていた。
 そして、もう一度シュートを放つ――。
 これが、俺と彼女のファーストコンタクトだった。