名前のない魔女は、祝福を受けられない

 清水は両手を胸の前で組み、目を閉じて祈りを深める。
「……竜に対抗できる”何か”……必ずあるはず。心の底から願えば届くはず……!」
 その声は震えていたが、芯は揺らいでいない。彼女の足元に漂う微光が、次第に強さを増していく。
 蓮井は息を詰めて方波見を見据え、すぐ傍の常川に低く囁いた。
「ツネ……どうにかして奴を僕の射程に入れる。囮になってくれ」
「……は? 無茶言うなよ!」
「お前にしかできない。頼む!」
 その言葉に、常川は頭を抱えた。だが次の瞬間、やけくそ気味に顔を上げる。
「ちくしょう……! やってやるよ!」
 彼は金属バットを握りしめ、方波見に向かって駆けだした。
「うおおおおおッ!」
 その雄叫びは、恐怖をごまかすためのものだった。
 方波見は、まるで時の流れから切り離されたように冷ややかな表情で、迫る常川をただ見つめている。
「……あなた、本当に愚かね」
 常川のバットが振り下ろされる――その瞬間。
 方波見の周囲を包む見えない壁のようなものに阻まれ、衝撃はすべて弾き返された。
 乾いた金属音が夜気を裂くと同時に、常川の体が宙に浮き上がる。
「なっ――ぐあああッ!」
 目に見えない力に叩きつけられたように、彼は屋上から弾かれ、隣接する校舎の屋根へと吹き飛んだ。
 ドン、と鈍い音を響かせて落下した常川は、呻き声を漏らしながら必死に体を起こそうとする。
 だが奇妙なことに、骨が折れてもおかしくない衝撃にもかかわらず、痛みはほとんどなかった。ここが現実ではなく、精神世界だからなのか――体は重く、変な違和感だけが残る。
「くそ……触ることもできねえのかよ……!」
 方波見は微動だにせず、冷ややかな眼差しを常川の方へと向けた。
「私に挑もうなんて、無謀にもほどがあるわ。あなたたちはこの世界でさえ、ただの凡人にすぎない……」
 
 方波見の視線が常川へと逸れた、その刹那――。
 蓮井は手元のバールを思い切り投げた。
 鉄の塊が床を弾く音とともに、方波見の注意がそちらへと向く。
 その一瞬の隙を、蓮井は見逃さなかった。
 息を殺し、地を蹴って一気に距離を詰める。
(今だ――射程に入った!)
 指先に意識を集中し、彼女の心象を撃ち抜くべく能力を発動させようとする。
 だが、方波見はゆるやかに振り返り、冷たい声音で告げた。
「無駄よ」
 次の瞬間、屋上の床が音もなく裂け、足場そのものが崩れ落ちた。
「――ッ!」
 叫ぶ暇もなく、蓮井の身体は重力に引きずり込まれる。
 鉄骨とコンクリートが砕け、舞い上がる粉塵の中で、彼は瓦礫に叩きつけられた。
 轟音と共に、下のフロアに激しく落下する。
「蓮井君ッ!」
 清水の悲鳴が夜空に響いた。
 方波見は、何事もなかったかのように屋上に立ち尽くす。
「あなたたちの抵抗は、砂上の楼閣のようなもの……」
 清水は屋上に立ち、両手を空に掲げた。
「お願い……何か――!」
 声は震えていたが、祈りは迷いなく空へと放たれる。
 方波見と、結晶竜フェルニゲシュの存在に包まれた屋上の空気が、微かに揺らいだ。
 冷たい風が止み、深い藍色の夜空に、わずかな銀色の光の粒が舞い上がる。
 舞い上がる銀色の欠片が、徐々に結晶の形を帯びて、空中で静かに輝き始めていた。
 清水は目を閉じ、光の揺らぎに祈りを重ねる。
 そして、かすかな金属音のような響きが、屋上全体を包む静寂を切り裂いた。
 それは、清水の祈りに応じるかのように、ほんの少し形を持った「力の兆し」だった。
 清水の祈りに微かな揺らぎを感じ取った方波見は、すっと立ち上がり、夜空を見上げる。
「……ふふ、面白い。ちょっとした抵抗ね」
 その瞬間、フェルニゲシュが低く唸る。
 翼を広げ、夜空に蒼い光を反射させながら、街全体を包む闇の中へと姿勢を変えた。
「フェルニゲシュ、街を壊し尽くすのよ――ただし、この学校だけは、私が直接壊す」
 方波見の声には、冷たくも確かな決意が宿っていた。
 竜は命令を受けると、尾を流星のように振り、都市の輪郭をなぞるように滑空していく。
 清水と常川の目に映ったのは、夜の街を覆う結晶の光の帯。フェルニゲシュの翼が影を落とすたび、建物の輪郭がわずかに震える。
 清水は唇を噛み、必死に祈りを続けながら、竜の動きに抗うための力を模索する。
 三人は今まさに、方波見紬の意思と結晶竜の力が交錯する世界の中で、次の一手を迫られていた。
 蓮井は下のフロアに横たわったまま、乱れる息を押さえ、手にした冊子を見つめる。
 それは資料室から持ってきた、かつて方波見が描いた人物画――幸野舞実の肖像だった。紙を走る線は驚くほど繊細で、まるで息づいているかのように柔らかくも力強い。
 蓮井は手を伸ばし、光の届かぬ距離からでもその絵を掲げた。
「方波見……これ、君が昔描いた絵だろ? 覚えているか?」
 声はかすれ、傷ついた体に力を込めるようにして言う。
 屋上の方波見紬の目が一瞬、光を反射する。怒りの色が静かに滲み始めた。
「……それを、私に見せるつもり……?」
 声色自体は柔らかいが、背後の夜風に混ざるその響きは、凍りつくような威圧感を放っている。
 夜空に浮かぶフェルニゲシュが静かに唸った。
 その瞬間、体中の結晶の鱗から放たれた熱線が街に向かって飛び散る――熱線は建物の壁を溶かし、道路を割った。
 街のあちこちから火の手が上がり、霞む街の遠景は赤々と裂けていく。
 方波見は怒りで瞳を光らせ、口元をわずかに動かした。
「……卑怯なことを……するのね」
 蓮井の手元の絵と、方波見の怒りの間に緊張が張り詰める。
 下のフロアから見上げる蓮井は、傷つきながらも絵を握りしめ、方波見に抗おうとしていた。
  屋上にいた方波見は、蓮井のいるフロアに静かに降りる。
「……他人の過去に土足で踏み込むなんて、無粋にも程があるわ」
 彼女の声は冷たく、しかしどこか悦びにも似た響きを含んでいた。