名前のない魔女は、祝福を受けられない

 気がつくと、三人は資料室の床に倒れていた。いつの間にか蛍光灯は消えている。
 窓から見えるのは、見慣れたはずの校舎。けれど、その雰囲気はどこか異様だった。
 真夜中のはずなのに、月も星も見えない。ただ深い闇がぬるりと張りついているだけだ。
 教室の扉が半開きになり、風もないのにカタカタと震えていた。
 三人とも、体が重く、意識がうまく繋がらない。
「……なんだ、これ」
 常川が呻き声を漏らし、上体を起こした。
「さっきまで俺、普通に椅子に座ってたよな……?」
 蓮井も額に手を当てて、首を縦に振る。
「一瞬、記憶が飛んだ……?」
 清水は周囲を見渡し、眉をひそめた。
「でも……何か変じゃない? 音がしない。夜の校舎って、もっと外から部活動の声とか、車の音とか聞こえるはずなのに」
 彼らの声は、どこか水に沈んだように鈍く響く。
 足を踏み出すと、床板はじんわりと柔らかく沈み、現実の感覚が遠ざかっていく。
「夢の中ってことはないだろうな……?」
 常川の笑い声は乾いていて、すぐに飲み込まれるように消えた。
「方波見の――か?」
 蓮井が問いかけると、全員が同じ疑問を抱いていたようで、静寂が室内を支配した。
 清水がスマホを取り出し、ライトを点ける。小さな光が闇を押し返すが、すぐに心細くなるほどの暗さに包まれる。
「……圏外だ……」
 苦い声が静寂に溶ける。
 やがて、廊下の方から――かすかに、光が瞬いた。
 「うわっ! なんだ!」
 常川が思わず声を上げる。
 清水は眉をひそめ、彼を制するように低い声で言った。
「落ち着いて……光源を確かめましょう」
 蓮井が無言で立ち上がり、二人に言う。
「……何かが、呼んでいる……のか?」
 三人は互いの影を確かめるように寄り添いながら、静まり返った廊下へと足を踏み出した。

 足音を忍ばせながら、校舎の奥へと進んでいく。
 暗闇の中、スマホのライトの弱い光だけが頼りだった。
「蓮井……さっきの話の続き、聞かせてくれよ。ここが本当に方波見の精神世界の中だとしたら、えらいことだぞ」
 常川が前を見据えたまま囁く。
「……いや、いいんだ。あれはただの憶測に過ぎない」
 蓮井は、珍しく口を濁した。
「とりあえず、何があるかわからないし……職員室で何か使えそうなものを探しましょう」
 清水が小声で提案する。
 職員室の引き戸を開けると、見慣れたはずの机やロッカーが、夜の闇に沈んで不気味に見えた。
 常川がロッカーを漁って声を上げる。
「お、金属バットあったぞ。野球部のやつかな」
 清水も木刀を手に取り、重さを確かめながら小さく頷く。
「こっちは剣道部の備品かしら。あるいは、不審者が来たとき用とか……」
 倉庫からはバールと、イベント用の備品と思われる拡声器が見つかった。蓮井はそれらを抱えたまま、ぼんやりと言う。
「……何が出てくるかわからないし、持っておいて損はないか」
 胸の奥に広がる得体の知れないざわめきが、三人を黙らせていた。
 三人は手に入れた備品を携え、廊下に戻る。
 そのとき、暗闇の先でふっと小さな光が瞬いた。
「……今の、見えたか?」
 蓮井が声を潜める。
 廊下の角に淡い光が浮かび、まるで灯りに誘うようにまた瞬いて消える。
 次に現れたのは階段の手前だった。
「……狐火? さっきも光ったわよね」
 清水が言う。
「光に案内されるなんてファンタジー映画か何かかよ」
 常川はぼやきながらも、手元のバットを強く握った。
 三人は互いに視線を交わし、ためらいながらも光の後を追った。
 それは校舎の中を上へ上へと導いていく。二階、三階……そして屋上へと続く階段の手前で、光は一段と強くなった。
「これは……エネルギー体か何かじゃないか? 持ち主に近づくほど力を増すような――そうだとしたら、この先に何かが待っているかもしれない」
 蓮井が無意識に言葉を漏らす。
 屋上の鉄扉は、まるで最初から開け放たれていたかのように隙間をつくり、風が屋内へ吹き込んでいた。
 夜気が頬を撫で、微かなざわめきが耳に届く。
 三人はゆっくりと扉を押し開けた。

 屋上に足を踏み入れると、季節外れなほど風が冷たく、金属製の柵がきしむ音が夜の静寂の中に響いた。
 街に明かりはなく、都市全体の輪郭が靄のようにぼやけて、どこか現実感を失っている。
 三人の足音が硬い床に反響し、手に握ったライトの光が長く揺れた。
「……何だここは……」
 常川が小さく声を漏らす。
「屋上なんて初めて来たぞ……ここが現実じゃないからか?」
 蓮井も眉をひそめ、状況を理解しようとしていた。
「いや、まだわからん。とにかく慎重に……」
 三人は冷静に周囲を見回し、手元の武器を握りしめる。
 
 そのとき給水タンクの裏から、黒い影がゆらりと現れた――。
「……あなたたちね? 私の世界を脅かす不届き者は」

 ダウナーでありながら、凛とした声に、三人は思わず息を呑む。
 暗闇の中から、影はじっと三人を見据えている。
 ”方波見紬”が、そこにいた――。
 キャンバスを抱え、少し傾いた足取りで給水タンクの陰から現れたその姿は、“映画”の中で見たのと同じ、どこか神秘的で、夢の世界の少女のようだった。