名前のない魔女は、祝福を受けられない

 帰り道――彼女はいつも、白線の上を歩きたがる。
 彼女はなぜか、小学生が作った自分ルールのような狭くて小さい世界を望んでいるようで、そういうことにしか興味を持たない。
 ある日、私は聞いてみた。
「白い線から、はみ出たらいけないの?」
 彼女は私の顔を不思議そうに見ると、目を細めてほんの少しだけ笑った。もちろんその間にも、白線から出ないよう、バランスをとり続けながら。
「別に、悪くはないよ。ただ、この方がわかりやすいじゃない」
「わかりやすいってどういうこと?」
 口に出してから、はっとした。これ、心の底から出た疑問だ。
「うーん、何て言えばいいんだろう。人生にもこんな風に線が引かれていてさ、そこから落ちないように生きた方が楽だって、そんな感覚がずっとあるの。それだけだよ」
「やっぱりよくわからないわ」
「そりゃ、あなたにはわからないでしょう。見るからにそういうタイプじゃないもの」
「そうなの?」
「うん。気づいてなかったの? でもとにかく、私よりあなたの方がずっと自由なんだよ。白線なんかに縛られない、そんな人生を送れると思うよ」
 私たちが歩いている歩道の左手、道路を挟んだ反対側には小学校があり、フェンスの向こうで、スポーツ少年団らしき児童たちがグラウンドに白線を引いている。練習前の準備をしているのだろう。
 彼女は、少しの間その光景を眺めていた。何かを考えているように見える。
「あの、石灰で白線を引くやつって名前なんだっけ...? 何でもいいか。とにかくあなたは、あれを使って縦横無尽に駆け巡るみたいに、線を引けるはず。丸を描いたり三角を描いたり、ときには絵なんかも描けちゃうかもしれない」
 彼女はそう言ってから、少しだけ目を伏せて、最後に小さく呟いた。
「私もそんな人間になりたかった……なんてね」
「はぁ……紬はいつも、”他人に理解してもらう気がゼロ”な説明しかしないよね。そんなんでどうすんのさ。私たち、もうすぐ大人になるんだよ?」
 彼女の抽象的な話に、私がツッコミを入れるところまでは、「いつものやり取り」にすぎないはずだったのだが、最後に説教臭いことを付け足したのが余計だったようだ。
 その後の紬は、珍しくムキになって、私に突っかかってきた。
「『大人になる』ってなに? なれるわけないじゃん、大人になんて。周り見てみなよ、『学生時代から精神年齢、1歳も変わってません』みたいな人が、他人にモノを教えてたりするんだよ? 『大人になる』って、ただの幻想でしょう」
「違うよ。年齢的に『成人』になるとか、そういう話だよ。ムキになりすぎ」
「へぇー。じゃあマイミ―は、誕生日を迎えて、成人になった瞬間から大人になれるんだ。すごいね。周りの”大人”たちにも教えてあげなよ、なり方」
 挑発的な言い方をされて、私は思わずカチンと来てしまった。昔から、このモードに入ったときの彼女は、本当にめんどくさい。
「ねぇ、何ムキになってんの……? 周りの大人から何言われたのか知らないけど、私に当たらないでほしいな」
「……あなたには言われたくない」
 紬は、急に言葉少なになった。昔からの付き合いだからわかるけど、こういうときの彼女は、本当に怒りかけている。早めに解散しよう。
「とにかく、紬の抽象的な話はわかりにくいって言いたかっただけ。小難しい本とか映画の影響受けて、かっこつけるのやめなよ。最近、絵の方も”変なの”ばっかり描いてるじゃん。……じゃあ、また明日ね」
 
 そう言って手を振ったとき、彼女はふいに足を止めた。
 白線の上から片足を外して、アスファルトに降ろす。
「……もう、いいや」
 とても小さな声だった。最初は聞き間違いかと思った。
 でも続いた言葉は、はっきりと耳に届いた。
「あなたとは、一生わかり合えないのかも」
 反射的に振り返ったときには、もう彼女は背を向けて歩き出していた。
 伸ばしかけた私の手が、空を切る。
 そのまま追いかけることもできたのに、なぜか足は動かなかった。
 夕焼けの中に溶け込んでいく後ろ姿を、ただ見送るしかなかった。
 ――これが、私と紬の最後の会話になった。