名前のない魔女は、祝福を受けられない

 放課後の図書館は、静まり返っていた。
 私は次の作品の参考になりそうな資料を探して、美術書の棚を行き来する。
 色彩論の本や構図の本は見慣れているので、最近はどうにも手が伸びない。
 そんな中、ふと、ある背表紙に目が留まった。
 ――『世界の竜図鑑』。
 なぜか、この本が自分を呼んでいる気がしたのだ。
 何気なく手に取ってみる。
 厚い洋書仕立ての装丁。金箔で縁取られた文字が、ほの暗い照明の中でかすかに光っている。
 本を机に置いて開いた次の瞬間――ページの中から熱気が吹き抜けた。
 古今東西の竜たちが、絵とともに記録されている。東洋の蛇のような竜、西洋の翼を広げた竜。
 だがそのどれでもない、一枚の挿絵に視線が釘付けになった。
 名前は《フェルニゲシュ》――ハンガリーの民話に登場する龍と記述されている。
 黒い鱗を纏い、眼だけが金に燃えている竜。
 絵のはずなのに、向こう側から見返されているような気分にすらなる。
 瞬きをした次の刹那――図書館の天井が消えていた。
 吹き抜ける風の熱さに、思わず息を呑む。
 だがそれ以上に驚いたのは、目の前に竜が――《フェルニゲシュ》がいたことだった。
 まるで、ページの向こうから抜け出したかのような自然さで鎮座している。
 誰からも認識されない自分の前に、同じように世界から切り離されたかのような存在が立っていた。
 私の胸は、不意に熱を帯びる。
 憎しみも、恨みも、すべてを燃やしてしまいそうな炎に似た衝動――。
 それは「怖い」よりもむしろ「近づきたい」という気持ちに変わっていった。
(――あなたも、わたしと同じなの?)
 気づけば私の足は、勝手に竜へと近づいていく。
 その圧倒的な存在に呑み込まれるのではなく、むしろ惹かれるように。
 竜の吐く息が頬をかすめる。熱く、そして不思議なほどに心地よい。
 孤独と孤独が共鳴し合うように、私は竜から目が離せなくなっていた。
 
”……なぜ、ここにいるのだ――?”
 
 ――口を開いたのは竜の方だった。
 その声は低く、深く、しかしはっきりと心に響いた。
「……私、あなたのことが、気になって」
 私は自然と声を出していた。恐怖ではなく、好奇心に似た感覚。
 
”我、か。人の子よ……貴様の心は重いな”
 
 竜はゆっくりと頭を傾ける。鱗の間からかすかに煙のようなものが立ち上る。
 
”孤独で、誰も理解してくれず、世界から切り離されている……それが、今の貴様の感情だろう?”
 
「……そう」
 私は頷いた。胸の奥の熱がさらに膨らむ。
「でも、それはあなたも同じでしょう? 誰からも認められず、孤独で……」
 
”……左様”
 
 竜の瞳が細まった。
 
”確かに、我は孤独だ。だが、貴様と違うのは、何かに恐れをなすことなく、ただ「存在している」ということだ”
 
 その言葉に、不意に胸を突かれる。
 ――私は存在を消すことでしか、自分を守れていない。
「恐れずに……」
 言葉を反芻する。
 心の奥底で、私は気づいていた。
 ――あなたのように強くなりたい、と。
 フェルニゲシュはゆっくりと翼を広げた。
 
”ならば近づくがいい、人の子よ。我の存在に触れ、真の孤独を受け止めるのだ……そして、望むなら――『魔女』となるがいい”

「……『魔女』?」
 思わず口にした私の声には、熱と震えが入り混じっていた。

”そうだ。人の理を超え、孤独を力に変える者……それを、『魔女』と呼ぶ”

 その言葉は胸の奥に焼きつき、ゆっくりと沈んでいく。
 私は息を整えると、恐怖ではなく確かな引力に導かれるように、竜へと一歩を踏み出した。
 その一歩が、私と、周囲の”世界”を変える始まりだった。