──まつ毛が完全に上下を向いてしまうほどに開かれた目に、俺の金髪頭が映っていた。程なくして気まずそうに逸らされた横顔からは、動揺とともに宛のない苛立ちが感じ取れてしまった。
「道重さん、」
数刻前、俺はとあるパーソナルジムに到着した。今井さんから「友樹は毎週水曜と日曜にトレーニングしているんだよ」と聞いて、送り迎えを担当している今井さんの代わりを買って出たんだ。
アポ無しで押しかけるなんてちょっとストーカーみたいだなと思ったけれど、頭をブンブン振って余計な思考を追い払った。
「ちょっと今いいですか」
「……っ、」
濡れ髪に水を滴らせた道重さんは、俺を手で払いのけ、ロッカーから荷物を取り出しそそくさと帰る準備をした。なぜか一切目が合わないし、合わせてもくれない。それどころか、ギクシャクした空気から逃れるみたいにカバンのチャックも閉めないまま出口の方へ向かおうとしている。
「待って、道重さん。話したいことがあるんですっ」
ついでに「今日は俺が迎えなんです」と伝えると、慌ただしく動いていた白いソックスがパタっと歩みを止めた。俺は呆然と立ち尽くす後ろ姿に急ぎ足で近づき、彼を注視しながらしばし次にかける言葉を考えた。
どんな風に表現すれば自分の思いを正確に伝えることができるのだろう。難しい。初めて感じた視点に、思考回路が絡まってしまいそうだ。
しかし、ぶつけられた想いに応えない人生は間違っている。
少なくとも俺は、そんな不誠実な人間でありたくない。
「……一度、話す時間をくれませんか」
いろいろ思考をめぐらせてみたけれど、出てきたのは結局飾り気のない至極シンプルなセリフだった。
ゆっくりと振り返った道重さんは、数多の感情を噛み砕けず、なんだか今すぐに泣いてしまいそうな顔をしていた。
♦︎
俺たちは無言で歩いていた。ひとことも会話をしていないはずなのに、異様に口の中が乾いて仕方なかった。チラリと隣を盗み見すれば、同じく口を固く閉ざしている道重さんが気まずそうに車が行き交う大通りを眺めていた。
道すがら立ち寄ったコンビニで、炭酸の飲み物を買った。道重さんは無難なペットボトルのお茶を手に取っている。「俺が払いますよ」と申し出たけれど、彼は力なく首を横に振り、電子決済でササっとお会計を済ませてしまった。
コンビニを出た後も、口の中が苦くなるほどの沈黙が肩の上に重くのしかかる。緊張しているからか、視界がぼやけてふらつきそうになった。このままでは埒が開かないと、子供用の風邪薬のような味の炭酸を煽った。シャワシャワと泡が弾けきる前に飲み込み、勢いをつけて言葉を押し出した。
「俺、嫌じゃないです」
藪から棒に繰り出された話題に、きっと何のことかと困るだろうと「前回のことは今でもなんて言えば分からないんスけど……」と補足じみたものをくっつけてみる。しかし無言の空気に小っ恥ずかしくなったのには変わりなくて、慌てて次の言葉を探した。
「あの時はすいません、俺、何も言えなくて。びっくりして、でも俺、不思議と嫌だって感じなかったんです、今日はそれを伝えたくて会いに来たんですけど、」
息と言葉に詰まって、結局それ以降は話せそうな話題が見つからなかった。仕方なく苦し紛れに道重さんの方を振り返ってみた。二つ上の先輩は少し離れたところで立ち止まっている。勇気を出して顔に焦点を当ててみれば、神妙にひそめられた両目が向けられていた。その視線を受けてもなお、この気持ちと望む関係に名前をつけることはできなかった。
「……」
「すみません、俺、経験が足りなくて。本当に、何て言えばいいのか分からないんですが」
しかし、ヒリヒリと皮膚が擦り切れるような緊張感の中にいても、今までと違う信念が胸の中に熱を帯びて宿っていた。
「俺はもっと道重さんのことが知りたいです。もっと一緒に勉強したいです。話したりこうして迎えに来たりしたいです」
「……」
「これが今の俺が出せる精一杯の答えです」
言い切ってしまうと謎の解放感に包まれた。道重さんは、しばらくの間固まるように耳を傾けていたが、俺の話に一区切りがつくとふと肩の力が抜け、そのままふらついて倒れそうになっていた。バランスを崩した身体が尻餅をついてしまう前に、急いで駆け寄り彼の両二の腕を掴んで抱き止め、脇の下に自分の腕を通して支え上げた。
「あっ、」
「大丈夫っす。道重さんこそ大丈夫っすか。怪我とか、ありませんか」
道重さんは半ば俺にぶらさがる格好の中で懸命に頭を横に振っていた。
「……よかったっす。もし筋トレ後で疲れているなら俺の腕に捕まってもらって構わないですから」
言いながら、まだ足元に力が入りきらない様子の彼を立たせ、そっと手を離してみた。道重さんは一人で立ってこそいるが、今はどこか頼りなく見えた。いや、それはおそらく俺の願望からくる色眼鏡でそう見えているのかもしれない。もどかしさすら覚え、未だ茫然としている道重さんの無造作に放られた右手を掴み、自分の方へ引き寄せてありったけの思いをぶつけた。
「これからも一緒にいていいですか」
それは願いにも近かった。この想いはこれから先どう変化するかはまだ分からないし、道重さんが望んでくれるかは分からない。
しかし、俺は今、この人と離れたくないと強く思っている。それは尊敬からなのかもしれない。はたまた、先輩の背中を追う憧れに似た感情なのかもしれない。
とにかくこのまま他人に戻ることだけは嫌だという拒絶反応が今の俺を満たしていた。
それが数日考えて出た俺の『答え』だった。
「……」
「俺、道重さんと知り合えたことが嬉しいっす。真剣に考えたいんです」
「……」
「だから、もう一度ともだちになるところからやり直させてくれませんか」
二つ年の離れた先輩の、素の顔を見た気がした。相変わらず道重さんからの言葉はなかったが、紅潮した顔と、まっすぐに向けられた曇りのない瞳の下で握り返された手が燃えるように熱かった。
「あ……」
道重さんは口をパクパクさせ、何かを言おうとしていた。自由な方の長い指は数回トントンとこめかみをつつき、耳まで真っ赤にしながら目をつぶって必死に言葉を絞ろうとしている。
その間も俺と繋がった手の力を緩めようとする気配はなかった。
「……行、こう」
「道重さん?」
「また、いつか」
断片的な会話のかけらを発したあと、切れ長な目を細めた道重さんは再び口を閉じた。
笑みをたたえている。でもほんのり悲しそうにも見える。
夕焼けが橙色に頬を照らす。逆光で強調された髪の輪郭を眺めながら、道重さんが何を言いたかったのかを考える。またいつかどこかへ行こう、なのか。もう帰ろう、またいつか会おう、なのか。解釈はいくつかできそうだが、彼から明日もその先の未来も共にできる可能性を口にしてくれたのは、大きな前進に感じられた。
「……ありがとうございます」
そうと分かるとどっと全身の力が抜けて、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。今井さんから最後通牒を言い渡された時から、道重さんと会えなくなる恐怖に苛まれ、早くこの気持ちを伝えなければと焦っていた。両手で顔を覆い、そこはかとなく湧き上がる喜びのような感情を噛み締める。
今日初めて、微力ながらも自分の手で望む未来を手繰り寄せられた気がする。
(よかった……っ)
動悸とともに肺から深いため息が漏れ、半ばその反動で道重さんを見上げた。後光に照らされたオレンジ色の先輩は、微苦笑を浮かべて、こちらを見下ろしていた。しかし、少し嬉しそうでもあった。
(道重さん……)
きっとこれからもこうしてひとつひとつ丁寧に生きていかなければ、こんな立派な人の隣に立つことは罷りならないのだろう。そもそも、俺も俺で課された人生に対して真剣にならなければ、こうしてそばにいてくれる人や与えられたものに対してありがたさや大切さを知ることはない。
何気ない出会いもすべて奇跡なんだ。彼との出会いは、そんな大切なことに気づかせてくれた。
(そう考えると、『ともだちになる』そのものも、簡単そうに見えて実はかなり難しいことかもしれないな)
俺も早く道重さんに追いつきたい。現状が変化した安堵と同時に、生き方そのものを変えていく決意を固めた。
「な、や」
道重さんはこちらに手を差し出していた。名前を呼んでくれたと気づくのにそう時間はかからなかった。
「か、帰、る?」
彼はジェスチャーで自身と俺とを交互に指をさした。どうやら「一緒に帰ろう」と言ってくれているみたいだ。
俺はその細くも大きな手を取り、颯爽と立ち上がった。
「……はい」
そして、夕日の沈む通りを二人で歩いていった。
