あいはことばを選ばない


『すき、だ』
 初めて聞いた道重さんの声。あの時は動揺して何も感じられなかったけれど、改めて思い返してみれば、ウィスパーな中低音で心に響く音色だった。
 そのたった三文字の前に、俺はどう在りたいのだろう。そもそも自分は今の人生に対して、どう感じて、何をしたいと願っているのだろう。

 俺は机に向き合って、散らかったあれこれをなんでもいいからかき分けて床にどかしていく。机の上が平らになってすっきりすると、自分の頭の雑音まで静かになって思考が整理されてくる。
 椅子に座り、ペンを握る。手近にあった使いかけのノートの白いページを開くと、ペン先を紙に落とす直前に走馬灯を見た。

 最初にお袋のことを考えた。俺の方を向いてることより、家事をやったり仕事の準備を急いだりしてるところを思い浮かべた。小さい頃から「いつも構ってやれなくてごめんね」が口癖だったけれど、夜遅くまで仕事をして俺をここまで育ててくれた。
 次に想像したのは店長だった。有名なチェーン店のいちフランチャイズ店を経営する、俺の目に映る現実のなかでいちばん初めに思い浮かぶリーダーの姿だった。
 今井さんは思い返すといつもスマートでかっこよかった。意外にも道重さんとは完全に切り離して考えてる自分がいて不思議だ。地続きの世界にいる、自分にはなれないけど素敵だと思える生き方をする先人だった。こんな人が先生ならいいなって思う。

 それから道重さんのことを考えた。
 事故に遭う前のあの人と会っていたら、俺も他の友人たちのように疎遠になっていったのだろうか。

 沢山の人の生き方を考える。何になりたいか、どんなふうに生きてゆきたいかを。
 みんなそれぞれの事情があって、それぞれの人生と責任を背負いながら日々を生きている。
 人と出会い、人生を思うと、通り過ぎる雑踏のひとりひとりが替えの効かない特別な人生を歩き続けているという当たり前の事実に突き当たった。
 じゃあ、俺はどうだろう。俺は、俺の人生を、当事者としてまっすぐ向き合って舵取りをしてきただろうか。答えはノーだった。少なくとも、今日までは。

「なんだっけ……そうだ、ウェビング、ウェビングだ」

 『人生』という単語を紙の中心に書き、丸で囲った。上に向かって線を引っ張り、漠然と思い浮かべた未来のイメージから言葉にできるものをなんでもいいから書き殴った。
 『理想とする姿で隣に立つことならできる』と店長は言った。俺の知らない父という存在を、思いつくかぎりそのイメージにいちばん近い人が教えてくれた言葉を頼りにして、仕事とかお金のこととかそういうのを抜きにして『なりたい自分』を考えた。
 俺は文字を書きまくった。書きたくてもわからない漢字があっても、スマホを開く手間も惜しくてとりあえずひらがなで書きまくった。

 人生ってなんだろう。夢って、なんだろう。
 命があっても昨日までと同じ人生を生きられなくなってしまった道重さんを知り、生まれて初めて戻らない時間の恐ろしさと価値を重々しく体感した。それは死や人生を変えてしまう出来事への恐怖とともに、これまで多くの時間を惰性で過ごしてきた自分の愚かさへの後悔も多分に含んでいた。
 ペンを滑らす音と一緒に、時計の針の音が重なってくる。こんなに静かな時間ははじめてだ。いつもどこかから聞こえてくる車の音も聞こえなくて、窓を開けたらもう真っ暗だった。

 時計をそっと見上げると、深夜二時を指していた。

 「あとは明日やろう。……明日、明日か。夜が明けたら、明日か」

 ペンを置き、ノートを閉じて、部屋の小さな灯りを消した。
 着替えもせずに床に寝転ぶと、眠気を感じる隙もないくらいあっという間に眠りに落ちる感覚がする。
 とても短い一瞬の転落のようで、まるで今まで続いていた長い長い退屈な人生の最後の瞬間を自覚するような遠い感覚もした。
 閉じた瞳の裏には自転車で走り抜ける宵闇に似た静けさと心地よさがあった。でも、目指す先にあるのはこの部屋ではない。
 きっと新しい何かが、見たこともない出会ったこともない大きな風と波が俺を待っている。
 あとは俺自身が一歩踏み出すだけだ。


「おはよ、」
「おはよう」
「お、なんか頑張ってるじゃん」

 引き戸が少し開く音が聞こえて、お袋に挨拶を返した。昨日とおんなじ格好のまま机にむかって書き物をして、振り返りもしなかったけれど、なんとなくお袋は嬉しそうな顔をしている気がした。