なんだかんだ、それから一週間は感情がぐちゃぐちゃでなんにも手につかなかった。
バイトではミスしまくっていろんな人に迷惑をかけまくった。さすがの店長にもちょっとでかい声で指摘されたりしたけど、最終的には前みたいに俺の心配をしてくれて本当に頭が上がらなかった。
本田のやつからは「脈ありどころじゃない」とか「なんでそこまでいって続きがまだなのか」とかあれこれ言われたが、まあ一般的な状況の男女なら大体あいつの言う通りだと思う。しかし、まだ三日しか会っていなくて、しかも男同士で、相手はつり合わないほどのエリートだ。どれを取っても、俺がアタックされる要素なんてない。やっぱり間違いなんじゃないかとさえ思えてしまう。
しかしあの瞳だけは忘れられない。あの鋭い眼差しを思い出したら、何遍思考を巡らせても、道重さんは俺にそういう意味で好意を抱いているのではないかという結論に辿り着く。まだ実感は湧かないけれど、そうじゃなければ辻褄が合わない。
俺はどうすればいいのだろう。どう返事をすれば……、そもそも恋愛自体がよく分からない。今まで付き合ったのは一人だけだし、あんまり長続きしなかった。イマイチこの人を一生大事にするんだと入れ込む気持ちが理解できないんだ。
それに、好きとかそうじゃないとか以前に、道重さんが何かに苦しんでる姿が嫌になるほど目に焼きついて、言葉にならないくらいに重苦しい気持ちになる。
「──よく来たね」
たまりかねた俺は今井さんとアポを取り、次の週末に会いに伺った。考えようにも、あまりにも道重さんのことを知らなさすぎる。
ITエンジニアだという今井さんは、待ち合わせのカフェでアイスコーヒーをテーブルの隅に置いて、パソコンのキーボードを打っていた。
「すいません、お仕事中に」
「いや、いいんだよ。オレの方こそ仕事しながらですまないね」
短髪でぱっと見無愛想な印象の今井さんは、椅子を引いて正面に座ろうとする俺を一瞥し、またすぐにパソコンの液晶に視線を戻した。納期が迫っているというのにこうして無理やり時間を作ってくれていることに感謝を感じるとともに、この方はここまでしても道重さんという存在が大切なんだと感じ取れた。
「……あのっ、……あの後道重さんの様子どうでした?」
緊張していたのだろうか、途中で声がひっくり返ってしまった。
「ん? ああ、なんだか落ち込んでいたね。詳しくは聞いてないけど、悲しいというより悔しそうにしていたよ」
翌日にはケロッとしてたけど、そう言いながら彼は無表情でコーヒーを啜った。やはりそうだったんだ、あの時道重さんから感じた「悔しさ」は間違いではなかったんだ。
しかし今井さんから発せられた言葉の端々に引っかかるものがある。今井さんと俺とでは、道重さんから受け取る情報量に差がありすぎる。「詳しく聞く」なんて、ほとんど喋らない道重さんに対してどう実践しているのだろう?
「あの……。道重さんって今どれくらい話せるんですか」
「ああ。やっぱり君とはまだ話していないんだね。意外かもしれないけど、簡単なことなら結構話せるよ。短くて単純明快な会話ならね」
「え……そうなんすか」
「でも説明や論理的な言い回しは難しいみたいだね。文字通り言葉が出てこないみたいでね。本人はそこをかなり気にしてるみたい」
仕方ないことなんだけどね、と彼は相変わらず画面を見ながら口をへの字に曲げ肩をすくめた。確かに、道重さんは『好きだ』と言ってきた後も、何かを言いたそうにしていたように見えた。一体それはどんな内容だったのだろうか。でも本人に聞いたところで望む『答え』はないかもしれない。
そもそも『好きだ』の意味だって多種多様だ。本当に俺が解釈しているものと同じなのだろうか。もし友情としての感情ならば……、ではあの獲物を狩るような強い眼差しはなんだったのだろう? いいや、自分の中でぐるぐる考えてもキリがない。
膝の上に置いた手にぐっと力を入れた。
「……実は俺、道重さんに告白されたんです」
やっとのところで吐き出すと、今井さんの手が一瞬止まった。しかしそれも刹那なことで、数秒後には何事もなかったようにキーボードをカチャカチャと打ち鳴らしていた。
「そう」
「え、驚かないんスか? 俺びっくりしちゃって……」
「あんまり驚かないかな。友樹の初恋の相手はオレだったしね。八歳くらいまでべったりだったくらいだし」
初恋、相手はオレ、即座に理解するのは相当に困難な情報が流れ込んで目が回りそうになる。混乱し、どう問い返そうか四苦八苦する脳内の独り言が凄まじい勢いで膨らんで大渋滞を起こしていた。
そんなこと知る由もない今井さんは、実にあっさりと、驚くような事実をもう一つ告げた。
「あれ、言ってなかったっけ。オレは友樹の従兄。初恋って言っても小さい頃の話」
友樹は十四歳離れた従弟なんだよ、正月に祖父母の家に親戚一同が集まるアレで毎年会っててねと話す今井さん。道重さんの血縁者と知ってから見たら、元々の頼もしさが何倍にも大きくなり、敬意も尚更増してくるような気持ちになった。
「み、道重さんは……お、男の人が好きなんですか?」
「さあ? どうなんだろうね。歳が離れすぎてあんまりそういう話はしなかったし、学生になってからは女の子と何人か交際していたのは知っているけど。まぁ、君には何か感じるものがあったんじゃないか?」
てっきり男だけが好きな性分なのかと思っていたけれど、一般的な恋愛も普通にする人なんだと聞いて、落ち着くのかひっかかるのかよく分からずそわそわする。ますます俺を好きだなんて、本当に意味がわからない。
さっきからずっと内心がざわめき続けているけれど、今井さんは忙しいんだからさっさとしなきゃと意を決して、昔の道重さんの性格についても質問してみることにした。
俺の言葉を受け取った今井さんは、少しばかり画面から目を離し、宙を見ながらぼんやり考えていた。
「あの子は……うーん、そうだねぇ。前も言ったと思うけど、本や新聞が好きで、いつも辞書とか持ち歩いてるような少し変わった子ではあったよ。好きな対象には前のめりで、周りが見えなくなって注意されることもあったね。ただ、とにかく頭が良かったんだ。将来は弁護士になりたくて勉強も頑張っていた。だから、今の状況は、オレからすると不憫でならないんだよ」
友樹のことは家族や親族たちがみんなでサポートしているんだけど、好奇心旺盛な友樹からすると、物足りない部分はあるのかもしれないね、と寂しそうに続けた。
今井さんから聞いた道重さんは想像に難くなかった。メロンクリームソーダのカナ文字を一生懸命練習してしまうような人だ。しかし同時に、これまで道重さん本人のことばかりに注目していたけれど、考えてみれば、今井さんをはじめとして支えている家族の苦悩も垣間見えたような気がした。
難関高校に通い、優秀で将来を期待された人にとって、身の回りのことが自分だけでは解決できない生活が本当に幸せであるわけがない。そんなことをわかりきったまま無力感に打ちひしがれながらサポートを続ける親族の苦しさや悔しさは、今の俺には想像するだけでも重すぎる。
「言葉の記憶をなくした当初は見ていられないくらい落ち込んでいたよ。持ち前の気の強さと好きな事物を一直線に追いかける性格でなければ、あそこまで回復していなかったと思うね」
「……」
「正直なところ、あの子の脳は以前の状態には戻れない。オレは友樹の望むままの最大のサポートしようと腹を括っているんだ」
ガキな俺がどんなに手を伸ばしても届かないほど大人な今井さんは、なんの迷いもなくそう言いきった。赤の他人の俺には簡単に踏み入れない領域をまざまざ見せつけられたみたいだった。その強い絆の内側にいる今井さんと道重さんにとって、俺はなんなのだろうか。絆を結んだ二人が少し羨ましく思うのと同時に、なぜかほんのり悔しくも感じた。
(いや、どうして悔しいのだろう?)
そりゃ、道重さんと十八年もそばにいた今井さんと数回しか会っていない俺では関係の深さが違うのは当たり前だろう。そんなことを考えている方がおこがましいというのに。
「ところで」
今井さんはキーボードから離した指を組み、珍しく真剣な顔つきで真正面から向き直った。道重さんとどこか似ているけれど、面長で成熟しきった大人の顔をした彼は、俺の脳が情報処理を終える前に厳しい言葉を静かに紡いだ。
「君こそ友樹に付き合っていて大丈夫なのかい」
「はい……?」
「いいや。今は告白の件で悩んでいるのかもしれないが、そもそも友樹が重荷なんじゃないのかい。負担だと思うなら、金輪際無理だときっぱり断ってもらって構わないよ。友樹にもオレから伝えておくよ」
数日付き合わせて悪かったね、と今井さんは表情を作らぬままそっけなく言った。なぜそんな言葉をかけられたのかは分からない。でもよくよく考えてみれば、道重さんと俺はお互いに見知らぬ高校生だったわけで、しかも学力も能力も到底及ばないチャランポランな俺には道重さんを受け入れる器がないと見えたのかもしれない。それに、大切な身内をそんなどこの馬ともしれない不良まがいに盗られるのは不本意とも思われたのかもしれない。
最後通牒だと理解した頃には、そもそも同じ土俵にすら立てない自分への残念さと、このまま道重さんに会えない恐怖をはっきり自覚する自分がいた。
「……いえ、ここで引くのは違います。うまく言葉にならないんスけど、とにかく俺は、もっと道重さんのことが知りたいんです」
♦︎
これ、よかったら見るかい? とその後今井さんから手渡されたスマホには道重さんが中学の頃の写真が映っていた。そこにはおかっぱで幾分幼い道重さんを中心に、三人の学友が笑顔でひしめき合って画角に収まっている。
体育祭だろうか。道重さんは体操服を着て、リレーのゼッケンが秋風に靡いている。クラスの仲間たちと集まって写る姿は青春の喜びに満ち溢れていて、肩を寄せ合い戯れる彼らの笑顔を見るとこっちまで清々しい気分になってくる。
そこに映る道重さんの姿は、同一人物だと理解はできるものの、ほとんど別人のような感じがした。困難の足枷がない、思うままに自己表現をする、いや自己表現しようなんて考えなくてもおのずと鮮やかな心が表情にあらわれるような、自由そのものを人の形にした姿をしていたんだ。
『──あの子が君に対して何を感じているのかは本人に聞かないと分からないけど。でもきっと、告白の時に友樹が君に見せたかったのはこの姿だったんじゃないかな』
今井さんと別れ、俺は俯きながらバイト先を目指した。カフェの駐車場から出ても、しばらく自転車を押して歩いた。
いつもより自転車が重く感じられるのは自分の気持ちの表れだろう。幸せそうな昔の道重さんを見てしまったことが、想像以上に堪えた。
道重さんを知れば知るほど、魅力的な人となりをどんどん理解する。
それと同時に、彼の失ってしまったものの大きさが否応なしに現実味を増してくる。
この胸のわだかまりをなんと言葉にすればいいんだろう。俺が何か悪いことをしたわけではないというのに、どうしようもなく罪悪感に近い感情が膨らんで、内側から胸を押し破ろうとする。
何かしてあげたいのか? 何かを理解したいのか? そうじゃない。人の苦しむ様を見ている自分の苦しみから逃れたいというのが一番正直なところだろう。
ならどうして目を逸らせないんだろう。言ってしまえば、今井さんのように、どうにもならないことだからと現実を受け入れて無理矢理にでも割り切る選択肢だってあるはずなのに。
この苦しみは誰のものなんだろう。
道重さん自身の気持ちを共感してのものか、支えている家族たちを慮るからなのか、人の人生を壊してしまった加害者にすら同情する気持ちなのか。
きっとその全部なんだ。全部の事情を少しずつでも汲み取ればこそ、人生で初めて向き合うこんなに重い不条理と、何もできない無力感へのやるせなさが心を腫らしてゆく。
告白された日とは違い、今日のバイトは滞りなく進めることができた。いつものルーティンですら客観的に俯瞰しなおすような、いやになるほど冷静な気分だった。
「調子悪いか?」
「……? ああ、違いますよ。悩みがあるっちゃありますけど」
店長はフライドポテトを揚げ終わった古い油を交換しながら話しかけてきた。今日はそれなりに忙しく、ついさっきやっと夕食どきの客足が引いていって静かになったところだった。
店長は洗っている什器を見続けたまま、俺はテーブルに出す紙ナプキンを束からバラして、お互い目を合わせることなく言葉を交わす。
なんとなく、父親がいたらこんなふうに会話するのかなって思った。
「進路か?」
「いえ、友達のことです。病気っていうか、今の医学じゃ治らない障害と闘ってるんです」
「そりゃ大変だな。命には関わるのか?」
「そういうのではないっすね。ただ、元々普通ってかかなり優秀だった人が、心だけその時の性格のまま体の全部がめちゃくちゃ不自由になっちゃって」
そうか、と相槌すると、そのまま店長は口を閉ざした。なんとなく、このまま店長は自分から口を開いてアドバイスしたりしないだろうなってわかった。そういう人だって知ってるからこそ、俺も少しだけ話せたわけだし。
しばしの間、静かな厨房に俺たちの作業する音だけが響いた。ふと、ハンバーガーのバンズにくっついてる白いゴマたちが俺たちみたいだなと思った。張り付けられたその場所からどこにも行けず、剥がれて落ちたら元には戻れない。くっつくも剥がれるも全部は運次第で、自分の力ではなんにもできず、ハンバーガーを食べる他人からしたら気にもならない瑣末なことだ。
「しんどいっすね、なんにもできないのって」
五体満足、不自由を感じない生活を送れていることが罪のようだ。傲慢な考えだと理解していても、そう感じずにはいられない。
「まあ、そうだよな。でもお前はできたら何かをしたいってことか」
「……おこがましく言えばそうっすね。でも仮に何かできたとしても人の人生の責任は取れないし、その人が手伝われることなんか本望じゃないこともわかってるんで。難しいんすよね」
作業に区切りがついたのか、店長は手を洗って俺の方を向いた。俺も少しそっちを向くと、店長は穏やかな雰囲気の中に静かな厳しさを秘めた表情で俺を見据えていた。
「人生、なんとかできるのは自分自身のことだけだぞ」
「そうっすよね……」
「お前自身もそうだぞ」
「えっ」
店長は、一歩、二歩だけ、歩み寄ってきた。
近すぎず遠すぎず、自分と店長の立場と人生が、関わりはあっても決して干渉しないと言っているような間合いだった。
「──お前は、どうありたい。その人の目にどんなふうに映りたい。何もできないわけじゃない。お前が、お前の理想とする姿でその人の隣に立つことだけならできるんだぞ」
店長はそれ以降会話を続けることなく、バイト上がりに「お疲れさん」と俺に一言声をかけるだけだった。
(どう映りたい、なんて考えたこともなかった)
まったく新しい視点だった。それと同時に、俺は自分自身のことすらも何も知らない事実に気づかされてしまった。
