あいはことばを選ばない


 どうかしてる。ほんとうに、どうかしてる。
 綺麗な人とはいえ、男の道重さんにあんな気持ちを抱くなんて。
(しかも少し……いやだいぶ変わった人なのに)
 喫茶店を出た後は狼狽(うろた)えてよく覚えていない。ただ予想だにしない展開に頭が真っ白になり、黒く煌めく瞳にじっと見つめられ自分が自分でなくなるみたいで怖くなったことだけは覚えている。
 表面を溶かされ、内側からも何かを変えられてしまっている気がして正気ではいられなかった。
(まさかあんなことになるなんてな、)

 翌日、学校に行っている間も熱に浮かされたままで、授業になんてろくに集中できなかった。家内安全、無病息災、これ以上のものは望まない平凡な暮らしをしてきたはずなのに、突如として訪れた変化はまるで青虫からいきなり蝶に変体するみたいな恐怖だ。

「海馬〜」
 現代文の先生が俺を呼んでいる。漢字の小テストが返却されている最中で、先生は白いテスト用紙を持ちながら退屈そうに空中でヒラヒラと踊らせていた。
「海馬、今回のは成績良かったぞ〜?」
「え、マジっすか」
「補習組から脱出だな、このまま頑張れよ」
 返された答案用紙を確認すると、確かに六十七点という絶妙な点数を叩き出している。いつも五十点を越えられず赤点続きの人間だった身としては、決して高くない数字でも快挙だ。
(まぁ、これも道重さん効果か……?)
 彼と話す目的で漢字を少しずつ覚えているせいか、知っている単語が増えてきたのは事実。一緒に簡単な漢字を練習したり読み上げたりして、そのたびに喜んでくれることが嬉しくて、文章に対する抵抗感がなくなってきたのはいいことかもしれない。おかげで放課後に居残りをしなくてよくなったのならなおさらだ。

 いいや、そんなことは半分どうでもいいんだ。浮き立つのか浮き足立つ気持ちなのか分からないこの状況はどうしたらいい。無意識に唇を手で触れ、唾を飲む。あの時どうしてあんな展開になったのだろう。道重さんは何を考えていたんだろうか。
 一人では抱えきれないもやもやした気持ちをなんとかしたくて、授業の後に比較的仲のいい本田に助けを求めた。
「本田ぁ〜」
「うわ、なんだようざいな」
「なぁ、聞いて欲しいんだけど」
「え、何だよ好きな子でもできたんか〜?」
「……」
「えっ図星⁉︎ マジか!」
 どこの女の子だよ、と調子の良い本田は机に身を乗り出してニヤニヤしながら聞いてくる。口が軽いことを懸念しながらも、俺は道重さんに出会った経緯から話した。念のため、相手が男だということは伏せて。時代は性別に対して新しい価値観を生み出しているけれど、まだ誰もを信用できるほど浸透してはいない。
 しかも今回は、自分自身が驚いているんだ。
「それで昨日会った時のことなんだけどさ、」
「おうよ」
 話を続けようとして、ぐっと唇を噛んだ。喋っていたら思い出してきた。喫茶店から逃げ出してきた後、とりあえず近くの公園に行ったんだ。木陰のベンチで二人並んで座って、息が上がってしんどそうにしている道重さんを休ませていた。その間お互いに無言だった。というよりも、何を話せば良いのか分からなくて、言葉が出ないまま時間が過ぎていった。
 流れが変わったのはそれから少し経った頃だ。それまで下を向いて呼吸が整えていた道重さんは、意を決したようにぐっと奥歯を噛み締めた後、真顔で身体を起こして──
「──突然『好きだ』って言ってきたんだ」
「はァ⁉︎ どういうことだよ展開早ぇーよ! ついていけねぇよ!」
「いや、俺も分からない、何がどうなってるのか」
 あの時の道重さんは、真剣な、というよりも鬼気迫る表情で、例によってあの黒目がちな瞳をまっすぐこちらへ向けながら俺を「好きだ」と言った。
 しかもそれはいつものフリップではなく、『声』だったんだ。

「……それで?」
「いや、それからは何もない。ただそのまま公園で別れただけ」
「ちげーよ、YESかNOか返事したのか!?」
「……言ってない」
 何だよそこははっきりしろよ男だろー? と変な顔で茶化す本田に内心少しイラッとしたが、ごもっともだとも理解している。とはいえ、あの状況では恋愛偏差値の低い俺にはどうもできなかった。不意の告白にも、相手が男ということにも、口を閉ざすのに十分すぎるほどの衝撃を受けた。けれどなによりも驚いたのは、自分がそれを静かに受け入れられそうな気がしたことなんだ。

 道重さんはそれから何か言おうとしていた。しかし口は空振りのまま、次第にゆっくりと閉ざされていった。少年のような道重さんの、お気に入りの風船が萎んだ様を見たような表情が今も忘れられない。
 それから彼は視線を隠して、一瞬横顔に見えた堪えきれない悔しさだけを残して俺の元を去ろうとしていた。
『道重さん!』
 俺は彼を追いかけた。案の定、彼は砂の地面にうねる桜の根っこにつまづいて転びそうになっている。思いもよらぬ告白を受けて反応には困ったものの、今井さんから道重さんを任されている以上、このまま一人にはしておけなかった。
『ちょっと待って、道重さん、』
 肩を捕まえて、正面に回り込んだ。
『さっきの何ですか、どういう意味ですか……っ、』
 俺はただ、本当にわけがわからなくて質問をしたいだけだった。だけどすぐに、やらなきゃよかったって後悔した。
 道重さんは両手で顔を隠していたけど、どうしようもないほど落ち込んで、悲しみに満ちた表情をしてるだろうってことがはっきりわかる雰囲気だったんだ。
 傷つけるようなことをしてしまったか、いや何も返事をしなかったんだからそれが悪かったんだ。どうしよう、謝ろうかと考えているうちに、今度は突然凄い勢いで抱きしめられていた。 

『うわっ……』

 しがみつく腕は強く、触れ合うほど近い頬の奥には、悔しさを噛み潰すような奥歯の軋(きし)みを感じる。きっと両目も固く閉ざしているだろう。この雰囲気はもしかしたら泣いているのかもしれない。
 彼がなぜ突然告白して、なぜ急に落ち込んで俺を抱きしめているのか──自分がもっと察しの良い人間ならよかったのに、と思えてもどかしかった。そんな今の俺にできることといえば、テンパりながらただただ背中に手のひらを当てて静かにさすり続けることだけだった。
『道重さん、道重さん、落ち着いて。ちゃんと聞きますから一旦座りましょう』
 なんとか引き離し、両肩に手を当て正面から顔を見た。なぜかやっぱりとてもつらそうな顔をしていた。それを目にしたら、落ち込んでいる理由が俺が思っていることとは別なところにあるのではないかと思えてきた。
 道重さんに複雑な言葉は話せないだろう。声を出せること自体今知って驚いてるくらいなんだから。でも表情は口ほどに語りかけてくる。悲しみのどん底の顔でも絶対に俺を捉えて逃すまいとするまっすぐな瞳を、その奥に輝くものを。心は事故の前と変わらずに、言葉だけが出ない不自由に胸を痛め、もがき苦しんでいるのかもしれない。
 言葉にしなくちゃやりきれないほどの思いが胸の奥にあるからこそ、それに抗う強い願いが、あんなに綺麗な瞳を睨むような鋭さに研ぎ澄ますのだろうか。

『……す、き』

 百万の意味を込め、もう一度苦々しく放たれた言葉を、俺はふたつの瞳で聴いた。相変わらず俺の気持ちはぐちゃぐちゃなままだったけれど、心の叫びに似たその言葉からは、安易に逃げ出せやしないと悟った。