あいはことばを選ばない



「こんちは……ってあれ、今井さんは?」
 一週間後、今度は俺の方から誘って道重さんと会った。今井さんに連絡したのだからてっきり二人とも来るのだと思っていたのだが、待ち合わせで指定された図書館の前に立っていたのは美しく佇(たたず)む道重さん一人だけ。
「……、!」
 明るい陽射しに照らされた道重さんはあれこれとジェスチャーをしたあと、はっと思い出してスマホを取り出し画面を見せた。
『急な仕事のため夕方迎えに行きます』
 今井さんからのメッセージだった。……ってことは、今日は道重さんと二人きりか。
 いや待て。『二人きり』という状況。意識したら、急に胸がざわついてきた。相手は女の子じゃないんだからと頭ではわかっていても、身体は勝手に強張ってしまう。まぁ、知り合って日の浅い人間と会話をするのだって気を使うのに、言葉に不自由で意思疎通が難しい、出会って一週間くらいの道重さんだ。緊張しない方がおかしいだろう。

「と、とりあえず中に入りましょうか、」
 カタコトになりながらぎこちなく身を翻(ひるがえ)す。同性なのに目も合わせられないほどそわそわしてしまうのは、道重さんが男にしては容姿が綺麗すぎるからなのか。──それとも。
 突然、脇腹と右肘の間に手がニュッと生えた。ギョッとして振り向けば、道重さんがこちらへむかって前のめりにコケていた。
「うあ、大丈夫っすかっ、」
 ドミノのように俺まで倒れかけ、すんでのところで彼の身体を受け止めた。柔軟剤の香りがする。今井さんによると、体幹の弱さは事故の後遺症によるものらしい。意外と骨格がしっかりしていることに驚きつつ、つま先で踏ん張って体勢を持ち直す。
(うっ……意外と腰にくる)

「道重さん、大丈夫すかっ怪我とか……」
 麻のシャツを抱き俺が顔を覗く前に、道重さんは面を上げた。絹糸のような髪の下から発光しているみたいな美しい顔が現れ、二つの瞳がこちらを凝視する。何かの解を得たような、妙な表情を浮かべて。どぎまぎしながら「俺の顔に何かついてます?」と返してみたが、道重さんは首を縦にも横にも振らず、穴が開くほど見つめてくるだけだった。
「ほら、図書館入りますよっ、」
 やがて恥ずかしさに汗をかいてきて、慌てて彼から手を離した。これではなんか抱き合っているみたいじゃないか。回れ右をして彼に背を向けても、背後からの熱い視線を感じずにはいられなかった。

 数歩進んだところで、今度は右手首に長い指が巻きついていた。手を掴まれたと理解し、驚いて振り返ると、嬉しそうに目をきらめかせた道重さんがニッと悪戯っぽく笑って、図書館とは反対方向に歩き出していた。
「……え、道重さん⁉︎」
 まろやかな筋肉がついたその背中は、何も語らずに俺を引っ張っていく。心拍数がはね上がる。いやはや、彼の考えがまったく分からない。どうして図書館に入らない? この人は言葉を練習するために好き好んでわざわざこの場所を指定しているんじゃないのか?
 そのために俺もこの一週間漢字の勉強をしてきたのに。

 とにかく目的地だったはずの建物がどんどん遠ざかっていく。ちらほら咲き始めた桜並木を散歩する犬みたいに手を引かれて歩くこと五分。
 道重さんは個人経営っぽい小さな喫茶店の前で足を止めた。

「……、」
「え、もしかして喉が渇いたんスか?」
 違うと言わんばかりに首を横に振る二つ上の先輩は、身体の正面をこちらに向けて、カバンからゴソゴソとノートを取り出し、何かを開いて見せた。

♦︎

『(キ みを よ く 知 リ 十こ レヽ』

 道重さんは俺の手を掴み、でっかい犬みたいにぐいぐい進む。『君をよく知りたい』、いきなりそんなことを言われて動揺しながら店に入って、出るに出られずそのままコーヒーを一杯いただく流れになってしまった。
(しかもあれ、何で前もって書いてたんだろ)
 予想もしない展開に目が眩みそうになる。喫茶店といえばコーヒーだが、いろいろ種類があるみたいでなにやら難しい名前がいっぱいだ。紅茶もあるが、そっちはもっとわけがわからない。しかも緊張して余計に文字が頭に入ってこなくて、どれにすればいいのか悩んでいたその時、ふと目の前でまんまるに艶々(つやつや)と輝いている瞳と目が合った。
「あ、道重さん先に頼みます?」
 彼はサラサラと髪を揺らしながら首を横に振る。その後ろでは、カウンターに座った常連らしきお客さんが物珍しそうに異色な組み合わせの俺たちをチラチラ見ている。
「え〜っとじゃあ俺はこのメロンクリームソーダで……」
 俺がラミネートされた写真入り手書きのメニュー表を指差し、カウンター奥のマスターに声をかけると、道重さんは注文するどころかいそいそとノートとペンを取り出した。そしてあろうことかまるで絵の模写をするみたいにメニューを見ながら何かを書き始めたのだ。
(乂 ロ冫勹……ああ、メロンクリームソーダか……って何で今⁉︎)
「ほら道重さんも早く頼んでください! 気になるのあったら読み上げますから!」
 マイペースに字の練習をしている先輩を急かして何とか注文を完了させた。俺が先に頼んだ手前、ツレの方はまだかと言わんばかりの店主の視線が鋭く突き刺さって痛い。
 ちなみに道重さんは『抹茶ラテ』だった。……ギリギリ読める漢字でよかった。

『──メロン、クリーム、ソーダ
 メロン、クリーム、ソーダ
 メロン、クリー』

 眺めていると、もうすでに同じ単語を三つは書いている。何が目的なのだろう。確かに道重さんは気になった言葉があるとすぐに書き取って練習する人みたいだけど、それがどうして俺が頼んだ飲み物なんだろう。
 しばらくして、注文したドリンクが運ばれてきた。壮年の店主から訝しがられながら飲み物を受け取っても、道重さんはすぐには手をつけず、俺への質問をまとめたノートをフリップ芸よろしく胸の前に掲げてみせた。
『好きなたべものはなに』
「カレーっすかね」
『すきな色』
「強いて言えば青っす」
『好きなまんがは』
「ノコギリメンだと思います。……て、いつまで続くんスかこれ」
 探偵か何かのように、俺の顔を時々覗きながらいつものノートにプロファイルしていく。まるで美術部のモデルにでもなった気分だ。個人情報という俺の一部を道重さんのものにされる感覚にこそばゆさと気恥ずかしさを覚えたが、文字をうまく認識できない難しさは俺には推し量(はか)れない。これも今の彼にとって大切な作業なのかもしれないと、そっとしておくことにし

『す (キ な 人 レヽる?』

 ブハッ‼
 緑の液体を思い切り吹き出してしまった。

(え⁉︎)
 一気に顔に血が集まり心臓がバクバクと暴れだした。道重さんは真剣な眼差しで見つめてくる。なにを考えてこんなことを聞いてくるんだろう。もしかして狙われている? いやでもどっちも男だし、自慢じゃないがとても頭が悪い俺は別に惚れられる要素なんてない。そんなことを考える方が失礼だ。
「いや──」
 しかし『別に今はいないっすよ』と言えばいいだけなのに、あろうことかその言葉をごくりと飲み込んでしまった。俺も俺で、恋愛対象は女性のはずなのに、この状況は一体何だ。考えるよりも先に身体がヒートアップして、心が勝手に意識してしまっている。その間にも道重さんは大きな目をしかと開いて追撃よろしく直視してくる。
 本当にどうかしていると思うが、手には汗が噴き出し、はいともいいえともまともに答えられず、ただ異様に速い鼓動の音だけがけたたましく鳴り響いていた。

(なんだこれ……)

 シン……と静まり返ったレトロな店内。やかましい珍獣を観察するかのような視線が集中していると気づくのにそう時間はかからなかった。道重さんから視線を少しずらせば、店主をはじめとした人生の先輩方が、興味津々に首を伸ばして俺たち二人を覗き見ていた。
(〜〜〜〜‼︎)

「……道重さん、行きましょうっ!」

 気恥ずかしさに半ばパニックになりながら、たまらず目の前の手を掴んで代金をテーブルにはたくように置き、一目散に店を逃げ出した。