あいはことばを選ばない


 『ともだち』になったはいいが、文字が分からない人間と遊ぶとか一緒に過ごすとか、生まれて初めての経験だからどうすればいいかまるで見当もつかなかった。

 週末、今井さんから「友樹と会ってくれないか」と連絡があった。バイトの前ならイイっすよと二つ返事をして、待ち合わせの場所に指定されたのは市立図書館。勉強が苦手な俺にはほとほと無縁な場所で面食らい、内心バックれようと思ったけれど、基本的に暇だしバイト以外にすることもないので、とりあえず行ってみることにした。
 ──それに、道重さんが笑った顔が妙に忘れられなかった。

「よく来たね」
 休日なのにすまないね、と短髪でスマートな今井さんは、紺色のステンカラーコートを身につけ、入口の近くで待っていた。その見上げるような長身の隣には、隠れ潜むように頭ひとつ分小さい道重さんがいた。
「いえ、暇だったんで」
「友樹が君のことをいたく気に入ったみたいでね。あの日帰ってからも君のことを話していたんだよ」
 話していた、ということは話せるのだろうか。ちらっと道重さんを見たけれど、そんな素振りはない。

「あの……えっと、俺どうしてたらイイっすか、正直会うって言ったらカフェとかゲーセンとかを想像してたもんで……」
「ごめんごめん、そりゃそうだよね。友樹は最近ここで"読める本"を探してトライしてるんだけど、その間隣で一緒にいてあげてほしいんだ」
 それだけでいいからと今井さんは言うが、俺は腑に落ちなかった。そもそも図書館なんて孤独に文字を追うだけの退屈な場所で、わざわざ他人を呼びつけてまで来るところではないだろう。それに道重さんは言葉が解(わか)らないんじゃないか。勉強のできない俺が隣にいる意味がますます見つからない。
 今日行ってみてつまらなかったら、二回目は断ろう。
 道重さんは猫のように大きな目を細めてにこりと笑い、早く入ろうぜとばかりに立てた親指で建物の中を指さした。俺が変な顔をして渋っていると、彼はサラサラした髪を揺らして近づき、あの時と同じく不敵な笑顔を浮かべて俺の腕を掴んだ。

♦︎

 手を引かれて中へ入ってみると、道重さんはずらりと並ぶ本棚の間を迷うことなく突き進み、数冊の本を手に取って窓辺の席についていた。今井さん曰く毎日ルーティンで通っているそうで、その様子は慣れたものだ。所作の分からない俺は黙ってそれについて行き、向かいの席に座る。最初の数分間は育ちのよさそうな坊ちゃんの絵画のような読書姿を眺めているだけに留まった。
(しかし、改めてまじまじ見ると本当に綺麗な人だな)
 中性的というのだろうか、整った身なりから覗くすらりとした四肢と、襟元が開いた白いシャツから無防備に晒された長い首。さらにその上に乗る顔は彫刻のように美しい。綺麗な女の人とすれ違って見つめたり一瞬振り返ったりしてしまう時と近い感覚すら覚えるくらいだ。
(いったいどんなモン食ったらこんなふうになるんだ)
 俺の生まれ育ちとは大違いで、状況的にはある意味別の種族同士の初の交流を試みているみたいだ。

 とはいえ手持ち無沙汰で、俺はスマホを取り出してこっそりゲームでもしようかと考えた時だった。いつの間にかすぐ隣まで接近していた道重さんが、俺の肩先をトントンと指で叩いた。
「あっもう一冊読み終わったんすか⁉︎」
 神妙な顔つきでそうではないと首を横に振っている。
 少し離れた席にいる今井さんは未だ何のリアクションも起こしていない。なんですか、と聞き返そうとする前に、道重さんは俺の椅子へグイッと押し入るように座り、いつの間にか手にしていた新聞を机の上に広げていた。
(うわっ近い近いっ……!)
 しゅるしゅる、ットン──長い人差し指が新聞の見出しを軽やかにタップし、意味ありげな目がこちらを見つめる。綺麗な顔があまりの至近距離にあることに不覚にもドキッとしてしまったのは気づかなかったフリをして、今度こそは「なんですか」と口に出してみた。

「今日もこの時間がやってきたんだな」
 背後から、気づかぬ間に近くにいた今井さんが穏やかな声でそう言った。どういうことですか、と聞き返すと、今井さんはいつものことなんだと前置きをして詳細を話してくれた。
「友樹はもともと活字オタクみたいなところがあってね。普通では考えられないけど新聞とか辞書とか好きだったんだよ。それはもう親戚同士で集まる時にもなぜか国語辞典を持ち歩くくらいにね」
「はぁ……」
「言葉が分からなくなったと言っても、友樹は耳で聞いた言葉はまあまあ理解できているらしいんだ。一番難しいのは話すことと読むこと。それでオレは毎回新聞を音読させられてるってワケ」
 軽くため息をついたかと思いきや、こちらを見て、ニヤ、と今井さんはほくそ笑んだ。その一瞬の表情を見て、勘の悪い俺でも何となく察してしまった。
 読んでよ、とねだる声が脳内に直接響いてくるような目線を向ける道重さん。できるなら避けたかったけれど、ここで嫌な顔するのもなんか悪いし、観念してどこから読んで欲しいのか訪ねてみた。
「あ、ココっすか?」
 一面大見出し記事からかと思ったが、意外にも指定されたのは何枚かめくった先にある経済のページ。
「ふく……いやはくか?」
「それは"ひっぱく"だね」
「ありがとうございます。え〜っと、ひっぱくしたこう、れいしゃ、い、い……すみませんなんて読むんすか」
「医療(いりょう)」
「ありがとうございます、こうれいしゃ医療の、げ、現場(げんじょう)? からの声に対して、社会ほけんりょうの……」

 ──なんだこれは、読める漢字がほとんど無ぇ!
 きっと見えてない文字にすら目を輝かせる道重さんと対照的に、文字そのものは見えていようとも知性が足りなくてなかなか先に進めない俺。
 今井さんに時々、いやかなり頻繁に助けてもらい、自力で読み進むというより今井さんの足手纏(あしでまと)いになりながら引きずってもらっている。小さい声で音読しているが、周囲にいる人の耳にも届いてしまっているだろう。顔から火が出るくらいに小(こ)っ恥(ぱ)ずかしいけれど、それでも俺に向かって頭を少し傾け、こんなヘタクソな読み上げをクラシックの名演でも聴くかのように心底楽しそうに聴き続ける道重さんの手前、途中で諦めるわけにはいかない。
 高校受験より格段に難しい強敵とぎこちない戦いを続けること二十分、なんとか一つの記事を最後まで読み終えることができた。

「よく頑張ったね。お疲れさま」
「ほとんど今井さんに読んでもらったようなものじゃないですか……」
「いいや、それでも実際に読んだのは君だよ。みてごらん、友樹の顔を」
「……えっ」

 どっと疲れてうなだれた顔を持ち上げると、そこには徹夜明けにたった一人で見上げる朝日みたいな道重さんの笑顔が輝いていた。
(いやいや、なんでこんなんが楽しめるんだ。変人か?)
 それとも道重さんは何かを伝えようとしているのだろうか。やっぱり言葉はわからない。でも、これはきっと初めから言葉とは異なるアプローチで伝えようとしているんだろうと直感的に理解できる何かがあった。
(俺は漢字が全然ダメだけど、ある意味では似てるところもあるのかもな。これがひらがなカタカナまで分からないとなると、確かに読書どころか日常生活自体がキツいわ)
 道重さんとしてはこんな俺と一緒にしてほしくないだろうが、それでも文字が読めない大変さはちょっとだけ体験できた気がした。彼はこの前と同じようにカバンからノートを取り出し、頬を緩ませながら何かをゆっくりと書き写した。

『ぅれUレヽ』
 今度ははっきり読めた。道重さんは長いまつげを重ねて心底嬉しそうに微笑んでいる。
 生命力に満ち溢れた光が地平線と雲と街にオレンジ色を塗りつけていくように、まるでその笑顔を見ていると俺まで無条件に幸せな気持ちになってきた。
(あれ……)

 そうか。ハッとした。俗に言う「人の役に立つ」ことってこういう状況を指すのだろうか。
 今までなんとなく生きてきて、意識したのは今日がはじめてだ。

『ぁレ)カゞとぅ』

 窓から差し込むやわらかい陽射しに照らされた姿に、心地よい暖かさで胸が満たされてくる。言葉は語らないけれど、やっぱり道重さんは満足そうだ。同時に、彼が今日俺を呼んだことの本当の理由に気付けた気がした。
(道重さん、寂しかったんかな……)
 元々文字や文章が大好きだったなら、周りの友達だってそういう人が多かったに違いない。そんな中事故に遭って、きっと文字と一緒に周りの人間関係も大部分を失ってしまったんじゃないか?

 真意は本人から聞かなければ分からないし、何故俺を選んだのかは今でも不思議だけれど、あの時の『ともだちになりたい』の言葉の重みは想像していたよりもはるかに大きいのかもしれない。

♦︎

 道重さんの趣味はなんだろうとか、昔好きだったことだとしても事故のせいでできなくなって触れるのも苦しい話題になっているかもしれないなとか、バイトの間中ずっとそんなことを考えていた。
 あの後時間がゆるすまで道重さんたちと過ごしたが、俺はすっかり彼のことで頭がいっぱいになってしまった。
(こんな気持ち、初めてだ)
 そうしている間にも彼の顔が瞼の裏に浮かぶ。最初は自分の名前さえ言えなかったんだと今井さんに説明されていた道重さんは、何かを伝えようと、ノートにひらがなやカタカナを必死に書いていた。上手く書けなくて、何度も間違ってバツを書き連ねても、諦めずにやりきっていた。手負いになっても立ちあがろうと努力する、その一生懸命さが輝いて見えて、そんな人から喜んでもらえたことが嬉しくて、とにかく胸の奥深くまで強く刻み込まれてしまった。
(俺は道重さんみたいに正面から努力したことって今まであったっけ)
 おそらく、ない。放任主義の親のもと、競争する相手もなくただただ"生きていた"だけかもしれない。
 とにかく俺も俺で今の自分のままでいるわけにはいかないっていう焦りと、面白い漫画の次の話が待ち遠しくて待ちきれないみたいな気持ちがデコのあたりでお祭り騒ぎを起こしている。

「おい、それパティ挟んでないぞ」
「あ、さーせん」
「おい待て、その番号のソースはケチャップだ」
「うす」
 まあ、当然てりやきバーガーを注文されたのにビックバーガーを出しちゃうようなヘマをニ、三回やらかしたわけだが、店長は特に怒るでもなく、なんなら「親孝行を頑張るのもいいがほどほどにな」と労ってくれた。
(店長も若い頃大変だったのかな、でも聞くのもアレだしな)

 まあなんとか無事にバイトを終えて、自転車に乗って帰路についた。夜の十時にもなると真っ暗だ。道重さんはよく転ぶけど、もしかしたら日の出ている間でも今の俺くらい不安な様子で歩いてるのかな。文字が読めないと、そこいらじゅうに溢(あふ)れてる標識や看板も読めなくて、なんなら道路にでっかく書かれてる『止まれ』すらわからなくて大変なのかな。
 もし、次に会う時は、俺はもう少し知らない漢字がなくなっているだろうか。
 いつもより妙に冴えた頭でいろいろ考えながら家に到着し、おかえりと迎えるお袋にもらってきた廃棄のナゲットを一緒に食べるかと手渡した。

「あれ、なんか珍しいじゃん、直哉が勉強なんて」
 お袋はプラスチック製の小さな食卓でナゲットを頬張りながら言った。たまたま明日提出の課題を思い出して広げてみただけだが、いつも顔を合わせる人間にも目をまんまるくされてしまうのだから情けないものだ。
「明日雹でも降るんじゃない」
「うっせ。ほっとけよ」
 母親の軽口を適当にあしらって、和室のローテーブルに向き直った。
(なんか、俺も負けてらんねぇな)
 俺は一応でも文字が読めるのに、やっぱり問題文すらまともに理解できない。今目の前にある古文なんて宇宙語のようで悔しい。
 せめて、文章の内容が分かるくらいには勉強して、道重さんに質問されてもすらすらと答えられるようになっておかないと。

(……あれ、俺なんでこんなにマジになってるんだ?)

 一瞬我に返るとこの数日で何かおかしなことになっている気もする。しかし、一拍置いて感じるのは、高校生にもなって漢字すらろくに読めない恥ずかしさと、道重さんがオレンジ色の太陽にように微笑んでくれた嬉しさだった。