あいはことばを選ばない


「実はこの子、言葉が話せなくてね」
 少し時間あるかい? と男性に連れてこられたカフェで、衝撃的な事実を告げられた。言葉を話せない道重に付き添っている男性は今井さんといった。二人は横並びで座り、こぢんまりとしたローテーブルを挟んだ俺は若干の居心地の悪さを覚えながら低すぎるスツールに腰かけていた。先ほど感じていた怒りなどとうに消え失せて、些細なきっかけからまさか想定するはずもないほど重大で深刻な問題に踏み込んでしまった事実に、表情筋の軋むような申し訳なさと小さくない後悔を感じていた。

「そうなんすか、話せないってあれっすか、声が出ないとか」
「それはおそらく失声症だね。この子の場合は、『失語症(しつごしょう)』といって言葉がそもそも分からなくなっているんだ」
 話を聞くと、道重は昨年の夏に交通事故に遭い、その後遺症で話せなくなってしまったのだという。リハビリを続けて少しずつ改善しているらしいが、最初はひらがなやカタカナでさえ読んだり書いたりできず、発音も難しい状態で、なおかつ鎖骨や身体のあちこちを骨折するとても大変な状態だったらしい。

「……そうなんですか。さっきは無礼なことを言ってしまってすみませんでした」
「いいんだよ。こちらこそすまなかったね。朝、友樹の荷物を拾ってくれたのは君なんだってね」
 学生証も届けてくれて感謝しているよ、と今井さんは言った。こんな人もいるのかと、自分の思い込みだけで勝手に決めつけてはいけないと深く反省したが、その傍ら、斜め前から痛いほどの強い視線が気になって、俺の眼は今井さんから道重へと吸い寄せられてしまった。

 俺が今井さんとやりとりをしていた間ずっと、道重は俺のことをじっと見ていた。
 睨むのとは違って、まるで小さな子供が動物園で初めて見るキリンやゾウを沈黙してじっと凝視するのに似ている。
 目は口ほどに物を言うという言葉があるが、まさにその通りだ。その目に敵意はない。むしろ俺に興味があり、何かを言おうとしているのだろうが、今井さんの話を鑑みると、きっと漠然としたイメージを持ってはいても言葉に変えられず、今できる精一杯の意思表示が「まっすぐに見つめる」ことなんだと感じた。
(もしかして、朝のアレも睨んでいたわけではなかったのだろうか)
 道重はおもむろに黒の肩掛けかばんからノートとペンを取り出し、書きにくそうな低いテーブルに広げた。前屈みになって何かを記している。俺も今井さんも、手伝ったり声をかけたりせず、彼のやろうとしていることをただ静かに見守っていた。

『おレ)カゞ`⊂っ』
 出来上がったのは、何かしらの文字だった。

 まるで子供が親にはじめて渡す似顔絵の横に描かれた「おかあさん」「おとうさん」の文字のような、読み取るのは簡単ではないが温かな気持ちは確かに伝わってくる文字だった。
「ありがとう、って言ってるよ、直哉君」
 今井さんはさりげなくフォローを入れた。確かにそう言われれば読める気がするその字からは、当初誤解していたような無礼不躾さは一切感じられない純粋で誠実な人柄が透けて見えるようだった。
 なぜ朝は怯えていたのか謎だが、とにかく悪いやつではないみたいだ。
「あ……うっす」
 道重さんはニコリと不敵な笑みを浮かべ、もう一度ノートにペンを歩かせた。ゆっくり漕いだ自転車の軌跡のような筆跡だが、読み取ろうと気持ちを傾ければ、何を言いたいのかわかる気がする。
『`⊂も ナニ″ ち レニ ナょ レ) ナニ レヽ』
「『……と、も……だちになりたい』友達になりたい、で合ってます? 道重さん」
 道重さんは、今度は嬉しそうに頬を緩ませて頷いた。初めて彼の言葉を直接受け取れた気がして、俺も普段感じない達成感を味わった。
「全然イイっすよ。俺も変なこと言っちゃったし、逆に俺なんかで大丈夫であれば。なんなら連絡先ここに書いておきますよ」
 書いちゃってイイっすか、と一言断りを入れ、道重さんの文字の横にメールアドレスと電話番号をささっと記した。俺も特別字が綺麗なわけではないけれど、隣り合った二人の字面を比べてみると、まるで子どもと大人のようだ。
(見た目では分からないけど結構深刻なんだな……)
 それでもなお、こうして文字らしきものを書けるくらいに復活していると鑑みると、この人は事故以来相当に努力してきたのかもしれない。
(もしかして、大量に持っていたノートってそういうことか)
 道重さんはノートを掴み、顔の近くまで持ち上げてニコニコしていた。何がそこまで嬉しいのかよく分からなかったけれど、とにかく俺と道重さんはこの日をもって『ともだち』になった。
「良かったな、友樹」
 それまで硬い表情だった今井さんも、ふと優しい顔になった。

 特段何か変わるわけでもないだろうと軽い気持ちで連絡先を教えたこの行為が、この先人生が大きく転換するターニングポイントだったって、この時誰が気づいていただろうか。