あいはことばを選ばない





 ──勉強をするようになるまで、波という言葉を浪とも書き表せることを知らなかった。無知の知を得ることもなく、ただ千波万波に揺蕩(たゆた)う藻屑の如き人生だった。

 しかし、浮かんでは流されの人生だったとしても、自分の意志でその形を変えていける。たとえ思い描いたものが完璧に実現されなくても、意志のあるところに道は開ける。
 選び掴み取ったひとつひとつの小さなものたちが自分の未来を形作ってゆく。

 文字と言葉の大海原はどこまでも果てしなく、今も毎日進んでは押し戻されながら理解を深めようと戦っている。大変だが、苦しいとは一度も思わなかった。もう遠い昔の思い出の中にいる憧れの人が教えてくれた生き方の中を、自分も同じようにできている気がして嬉しさの方が勝っていたから。


 あれこれやらなければならないことが一区切りついたところで、俺は大量の手土産を携えながら下宿先から地元へ向かう列車に乗った。今までお世話になった人へ挨拶に回りながら、新しい職場での勤務が始まるまでの少しの間、生まれた地で過ごすつもりでいる。
 ここで道重さんとの別れから現在までの道のりを少し話そうと思う。大学受験は二度失敗し、二浪したのちにようやく大学入学が叶った。卒業後は一度社会人として働きながら、ロースクールに通学しつつ司法試験を乗り越え、現在は司法修習生考試という弁護士の資格を得るための最終試験を終えたところだ。
 あれから十年経って、俺は遂に夢を手にした。波に押し流されそうになりつつも、やっと一つの大陸に上陸できたのである。虎穴に入り荒波に呑まれ目が回るほどの忙しさだったが、やっと自分の進みたい道を見つけて歩めた、そんな確信があった。
 その証拠に、このネイビーのスーツも、もう着慣れたものだ。

 もちろんここまで来られたのは自分一人の力ではない。奨学金を借りることはもちろんのこと、高校時代のバイト先の店長や道重さんのご家族にも融資を賜わり、また学部の教授や先輩、同期、学食のおばちゃんもありがたいことにみんな味方になって助けてもらった。
 あんなに反対していたお袋も、俺が大学にいる間は仕送りをして支えてくれた。
 やはり身内に応援されるのは心強いものがあった。

 特急列車の窓の外を眺めれば、流れゆく景色の至る所に桜が誇らしげに咲いている。
 そういえば、十年前にあの人と出会ったのも、桜の季節だった。
(……)
 俺は目線を手元に移した。仕事のメールを返した後、ほんのり強張った手で黒いスマートフォンのメッセージアプリを開き、トーク一覧を遡るように下へスクロールする。だいぶ下の方に、懐かしいやりとりを見つけた。トークルームに入れば、まだ青すぎる二人の会話が生き生きと花を咲かせている。

 実に十年ぶりに、連絡を入れてみた。


 矢のように過ぎゆく時の流れは徐々にスピードを緩め、車内のアナウンスとともに列車が停車した。
 不安と緊張に押し潰されそうになりながら、数年越しに生まれ故郷へ降り立った。正月も盆もここへはほとんど帰れなかった。駅を出ると、懐かしい地方都市の景色が広がる。お袋と店長がロータリーまで迎えにきてくれていた。
「おかえり」
「お疲れさん。見ない間にスーツも似合うようになったなぁ」
 二人は口々にそう言って俺を迎え入れた。お袋たちも綺麗に整えてはいるが、この十年で白髪とシワが増えたように思う。黒いミニバンの後部座席に乗り入れると、すかさずあれこれと近況を報告し合った。お袋は運転している店長の隣、助手席に座りながら黙って話を聞いている。後から聞いた話だが、この数年で二人はいい感じになっているみたいで、籍を入れることも視野に入れてるらしい。生まれてはじめて家族の会話みたいなものをした気がした。

「このあと道重さんのお宅にまっすぐ向かっていいね?」
 お袋は昔では考えられないくらいに穏やかな口調で、こちらに振り返りながら聞いてきた。
 俺は返事をしながら頷いた。顔が下に向いた時点で気づいたが、自分の口角も自然と上がっていた。

♦︎

 懐かしの図書館は、俺がまだ地元にいた頃と何も変わっていない。
 四角いガラスドームのようなモダンなデザインの外観。ここに縁が生まれたのは、紛れもなく道重さんが俺の下手な音読を喜んで聞いていたあの日だった。それから何度も彼と足を運んだ。時には図書館には寄らずに近くでお茶をすることもあった。出会ってすぐの告白は一生分驚いたけれど、今思えばあの事件(・・)が人生の転機だった。
 今ではどんなに細い裏道でもこの場所に辿り着ける自信がある。

 思い出に浸る隙もなく正面玄関の自動ドアを突っ切って、本の海の中を泳ぐみたいに進む。本人から送られたメッセージによると、道重さんはここにいるという。

 最初は昔みたいに本を読んでいると思っていた。しかし利用者向けのテーブルにはそれらしき人はいない。ふと、視点を変えて探してみる。
 ……いた、見つけた。エプロン姿の彼は壁際のコーナーにて本を数冊抱えて梯子にのぼり、所定の位置に収納する配架作業をしていた。
 こっくりとした黒髪は以前より短くカットされているけれど、遠目から見ても透明感のある佇まいは顕在だった。

「……道重さん」
 忍足で近寄り声をかけると、彼はびく、と肩を震わせた。そして梯子に捕まるみたいにして身を屈め、急いでこちらを振り返る。大きく見開かれた漆黒の瞳は相変わらず綺麗で鋭い。それがとても懐かしかった。

「ご無沙汰してます、覚えてますか? 海馬です」
 彼が何かを発する前に俺の口は喋り出す。もっとクールにいきたかったのに、パーツのズレも一切ない端正な顔立ちの道重さんに直視されたら、高校生の頃の気持ちが突沸するが如く蘇り、平静を保てなくなってしまった。舞い上がる気持ちを宥めつつ、早口になりながら慎重に言葉を紡ぐ。
「……突然来た上にお仕事中すみません。お話ししたいことがあるので、今日仕事の後お時間もらえませんか?」
「……」
「もし了承いただけるなら、"いつもの"稲荷神社で待ってます。無理だったらスルーしていただいて構いません」

 言い終えたあと、全身が突然むず痒さに襲われて、目をまんまるくしている道重さんの返事を聞く余裕も持てず、年甲斐もなくその場から逃げ出してしまった。顔が熱くなり、身が焦げそうになる。こんな気持ちは久しぶりだ。時間だけ過ぎただけで、中身は高校生のあの時から成長していないのかもしれない。
 それと同時に、出会った時の道重さんの気持ちが今なら理解できる気がした。


♦︎


 ──夕暮れ時に差しかかる。
 俺は街角の小さな稲荷神社にいた。街灯の明かりと満開の桜を演出する照明が境内をぼんやり赤っぽく染めている。参道の傍(そば)には、合格祈願や安全祈願の幟旗(のぼりばた)が等間隔で並んでいる。
 
「直哉」
 手水舎(てみずや)で身を清め、貫禄のある拝殿に向かって今までたくさんお世話になったお礼をしていると、キリリと自転車が走行する音がした。
 じゃり、じゃり、と玉砂利を踏みしめる足音とともに、ライトアップされた胴咲きの桜の陰から待ち人が現れる。
「ごめん、少し、遅くなった」
「道重さん、」
「待たせたね」
 荒い息遣いとともに、淡い薄明かりの下でも額に浮かべた汗が光っているのが見えた。高校生の頃の面影は残っているが、年齢とともに大人の余裕を感じる顔つきに感慨深いものを感じた。それはきっと、向こうからもそう見えているのだろう。

 桜色の花びらが舞い落ちるその下で、俺は彼を出迎えた。
 彼は紛れもなく心の底から尊敬し憧れている人物だ。俺に初めて人生という航路の見つけ方を教えてくれた先輩で、誰よりも大切にしている人だった。
 長年待ちわびていた彼が、目の前にいる。
 それだけで、心に深く刻まれるものがあった。

「あれ……すみません、俺、こんなはずではなかったんですが」
 積年の想いが込み上げてきて、涙腺が緩む。うまくいかずに心が折れそうになった時も、託された思いを胸に踏ん張ってきた。言いたいことはいっぱいあったはずなのに、厳重に施錠されていた感情が溢(あふ)れ出し、無言のままその場で縫い付けられたみたいに立ち尽くしてしまった。
 やっぱり、好きだ。どうしようもなく道重さんが好きだと改めて気づかされてしまった。
 
 目頭を押さえたりハンカチで拭いたり試行錯誤をしたが、効果があるものは何ひとつなかった。あまりにも泣きすぎて不能になる俺を見かねてか、道重さんはやれやれと言わんばかりに俺を優しく抱きしめてきた。
 水に溺れたみたいな視界の中でも、彼が笑っているのが見えた。
「……おめでとう。夢、叶えたんだね」
「……はい。ありがとう、ございます」
 どうやら詳細は言わなくても俺の様子ですべて悟られてしまったみたいだ。
 俺も彼の身体を抱きしめ返し、肩口に顔を埋める。

「俺、何年経っても道重さんが好きです。大好きです」
 恋していないと言えば嘘になる。でも、恋人なのかと訊かれたらそうとは答えない。知っている言葉に、世にあまねく人と人との関係性に、俺たちと同じかたちをしたものを俺は知らない。でもひょっとすると、関係性とはすべからくそういうものなのかもしれない。

 桜は咲くもの。あるいは散るもの。はたまた舞うものと答える人もいるだろう。その答えを形取る感動が、人の数だけ存在する。
 抱きしめる肩越しには稲妻に砕かれた桜の巨木。その物静かな根のそばからは胴咲きの枝が伸び、一輪の花を降り注ぐ光へと掲げている。
 胸を打つ高鳴りが思い出を走馬灯のごとく駆け巡らせる。思い出そうとすればするほど、かつて道重さんが与えてくれた感動もこの桜の輝きにそっくりだった。
 俺にとって桜とは、何度でも花開くものだ。

 ざわざわと風が鳴る。まっすぐに俺を見つめる瞳の奥は澄んでいる。それはあの頃と同様に。きっと生まれた時からこんな色をして、これからもどんな不条理だってこの輝きを奪うことはないだろう。

 光満ちる空の下。二人を包む桜吹雪。それらは髪や肩に舞い降りて、ライスシャワーさながらの幸福(しあわせ)を呼ぶ。そのさなか、道重さんの唇が開かれた。言葉にならない想いすら乗り越えて取り戻した言葉によって、今俺たちの十年の歳月が報われようとしている。

「──おれも待ってたよ、ずっと」
 俺たちは互いの手を固く握り合った。努力と研鑽の道を往く同志として、かけがえのない大切な存在として。





 一歩踏み出し歩き始めるのと時を同じく、大きな風がまた吹いた。
 桜たちもまた飛んでゆく。
 それぞれの目指す、どこか遠い場所へと。





【了】