住み慣れた部屋のはずが、どうしようもない居心地の悪さに苛まれる異様な静けさ。言い表せない不快感を拭い、楽しかったはずの数ヶ月間を覚めてしまった夢と同じく忘れ去ってしまえはしないかと、異様な執着心が体を勉強に縫い付けた。
脳みその入り口にほど近い、空っぽになってしまった思い出の箱へと知識は次々流れ込んでくる。これまで不安定なトランプの塔を積むのと等しい労力を必要とした勉強は、ゴミ箱に缶を投げ入れるが如く簡単なものになった。面白いほど簡単に積み上がり、取り出すのも苦ではない。
バイトの時間が来ると急に頭が切り替わる。漠然としていた自分自身の輪郭は、様々な経験で沢山の面を持ち、それを失った事でバイトと勉強のたった二つだけ、コインの裏表と変わらなくなったと感じる。
ひたすら海の真ん中に取り残された小舟をコンパスに従って夢中で漕ぐように進み続けた。夢を与えてくれた人は離れていってしまったが、俺はもう前みたいに無知で惨めな自分には戻りたくなかった。成長しない自分に未来はない。
どんなに苦しくても、臥薪嘗胆を貫かなければ元の木阿弥だ。
そんな八月も下旬に差し掛かった頃、珍しく俺の家に来客があった。覗き窓を確認してみれば、スーツを纏い、キリリとした顔立ちの女性の姿があった。玄関ドアを開けると、その人は肩のあたりで切り揃えられた髪を垂らし、深々と頭を下げていた。
「お世話になっています。道重友樹の母です。友樹から、預かったものをあなたに返して欲しいと頼まれまして」
道重さんと似ているこの女性は、少し前まで親交があった彼の母親だった。彼女が菓子折りと共に持っていた某百貨店の紙袋、そこから取り出されたのは俺がいつの日か彼に貸したグレーのフーディだった。
なんだか泣きそうになるのを堪えて、あまり綺麗ではないですが、と前置きをして家に招き入れた。
乱雑な食卓では話が進まないと思い、俺は隣の自室へ案内した。たった今使っていた勉強道具たちを掻っ攫って畳に置き、ローテーブルを綺麗にすると、彼女は「そんなに気を遣わなくていいのよ」と言いながら濃いグレーのスカートを膝で折って迷わず正座した。
申し訳なさと不甲斐なさに重い空気が肩にのしかかる。
「本当にありがとう、あの子に付き添ってくれて。これから忙しくなるところ、お時間取らせてしまってごめんなさいね」
「……いえ、こちらこそ、ほとんどお役に立てずにすみません。最後も友樹さんを怒らせてしまって、本当は謝りたいんですけど」
「あら、どういうこと? 海馬さんに対しては怒っていなかったわよ。あの子からは感謝の言葉しか聞いていないわ。自分が足手纏いになるのが嫌だって憤慨はしてたけど」
「はい……?」
「……なにか食い違いがありそうね」
話を聞けば、道重さんは法学部を目指す俺に余計な負担をかけたくないと自ら身を引いただけなのだという。勉強に本腰を入れようとしている俺に対して、俺からの送迎や介助を受けることで貴重な時間や労力を奪ってしまっている危機感と申し訳なさを覚え、半ば強引にあのような行動を取ってしまったとも説明をされた。
(は、嘘だろ……)
当然、当時は俺を労るためには見えなかったし、説明もなく突然追い出されたのだから、彼の気分を損ねてしまったと考えるのが妥当だと思っていた。そうしたらこの数週間の苦しみは一体何だったんだろう。特大の肩透かしを受けたようで、そうと知った途端急に身体の力が入らなくなってしまった。
「そう、なんですか……」
「あの子、言葉足らずでごめんなさいね。とにかくあなたに非はひとつもなくて、『会わない』選択肢を取ることでしか、あなたを応援できないと思ったらしいの。本気で夢を掴んでほしいと言っていたわ」
その証拠ではないのだけれど、と彼の母親は見るからに頑丈そうな手提げからゴソゴソと何かを取り出した。小ぶりなストーンが添えられたサーモンピンクのネイルをし、手入れの整った手がこちらに差し出したのは、彼の部屋にあった最新版の六法全書だった。
「え……これ」
「ええ。あなたに託すって聞かないの。あの子もこれから違う高校で、新たな夢に向けて頑張るそうよ。だからこれは、彼が彼の決意としてあなたに受け取ってほしいんですって」
最初は状況をはっきりと呑み込めなかった。道重さんにとってこんな大切なもの、受け取れるわけがないと感じた。それに、これだけ俺を振り回しておいて、思うところがないわけない。一方的に関係を切っておいて、正直今さら調子が良すぎるとも感じてしまう。
しかしこれが道重さんの望む形なのだとすれば、俺は今、重大な局面に立たされているのかもしれない。そもそも、俺も俺であのまま生活すれば、いつかどこかで破綻していたかもしれない。それか、すべてが中途半端なまま何事も成し遂げられず、夢に対する熱意も形骸化した未来もあったかもしれない。
俺も彼も、そのどちらも望んでいない。彼は夢を叶えるための退路を優柔不断な俺の代わりに断ち、進むべき道を示して応援してくれているのかもしれない。
(道重さん……)
──彼の愛情は言葉よりもずっと深いのかもしれない。
「ありがとうございます……っ」
優しい笑みを浮かべたお袋さんから恐る恐る重量のあるそれを受け取ると、堪えていた感情が堰を切ったように溢れて止まらなかった。彼と別れてから枯れるまで泣いたはずなのに、そんなのは比較にならないほど大量に流れ出る。
それと同時に、これから目指す道はそう甘くないこと、そしてすべてを失っても進み続ける覚悟持て、と暗に叩き込まれた気がした。これは俺への忠告だけではなく、もしかしたら彼自身への戒めも含んでいるのかもしれない。これはそれぞれの道を一歩一歩進んでいくための、彼からの叱咤激励なんだと俺は捉えた。
(──道重さん、どうか、どうか、お元気で。
あなたの幸せが、俺の一生の願いです──)
頬に伝う涙を拭うことも忘れ、黒い鈍器に似た本を腕に抱き、情けない声を上げて泣いた。
「す、すみません……、取り乱してしまいまし、た」
「いえ、いいのよ。私も陰ながらあなたを応援するわ。もしかしたらその本はあまり使わないかもしれないけど、何か困ったことがあればいつでも連絡してちょうだいね。私たち家族や親族も、ここまで友樹のことを想って行動してくれるかたを蔑ろにしたくないの。特に海馬さん、あなたといる時の友樹は、失語症がなかった頃の元気なあの子のようだったから……」
彼のお袋さんもそこで花柄のハンカチを取り出し目頭に押し当てた。それ以降はあまり会話をしなかったけれど、俺といた期間が、彼の人生の一助となっていたことを知った時は心の底から嬉しかった。
ほんの少しでも彼のためになっていたら嬉しい。離れていても、これからの人生もう一度も交わらないルートを歩んでいるとしても、彼や彼のような人々を支える人間に、俺はなりたい。
二人でたくさん泣いた後、固い握手を交わし、彼のお袋さんは帰っていった。それと同時に、人生をかけた俺のひと夏の恋も、静かに幕を閉じた。
その日からは、無心になって勉学に人生を捧げた。逆境の中にいても絶対に諦めない心。目標に向かって毎日歩き続ける忍耐力。大切なことは全部あの人から教わった。
本当の愛を教えてくれた、あの人から。
