一瞬のことだった。想像を超えた展開に、しばらく心が追いつかなかった。
それは花火を見て燃え滾った翌日の日曜日だった。午前中はいつものようにバイトへ行き、午後はジム送迎のため道重さんの家を訪れた。お互いの目が合うと、昨晩の嘶くほどの悦びが身体の疼きを通してじんわり思い出され、喉元が熱くなった。玄関先で身体に触れてきた手の体温も、軽く交わしたキスも全て、克明に覚えている。
問題はジムの後だ。道重さんの家に帰宅し、見るからに疲労が溜まって重くなった彼の身体を支え、部屋へ運び入れた。一旦そのままベッドへ直行し、寝かせる。半分微睡みかけながらもありがとう、と言ってくれた。目を伏せ「当然です」と彼に口づけをしながら返答したところまでが輝かしい記憶だったかもしれない。
少し時間があるからと、俺は部屋の中央のローテーブルに勉強道具を広げた。
──積み上げてきたものが崩れたのはそれからだった。
「なおや、それ……」
か細い声に気づいて振り返ると、てっきり眠りについたと思っていた道重さんが上半身を起こしてこちらを凝視していた。最初は何のことか分からず曖昧な返事をして、様子を伺った。
「……あ、すみません。ちょっと勉強しようと思って。邪魔でしたか」
「ちがう、それ、それ」
道重さんはベッドから足を降ろし、バランスを取りながらゆっくり歩いて近づいてきた。足元がふらつきながらも、なぜか視線は前方一点に集中している。訳もわからずその視線の先を辿ってみると、俺の勉強道具に紛れていた赤い参考書があった。道重さんは勉強に使うローテーブルへたどり着くと、隅に置かれていたそれを震える手で拾い上げた。
「……」
「あ、参考書のことですか? 俺進学を考えてて」
「……」
「まだまだ過去問を解くまでにはなってないすけど。とりあえず見通しを立てたくて買いました」
やっぱ難しいっすね、と言い終わった直後に妙な違和感が耳を撫でた。聞こえる言葉の有る無しに関わらず明らかに返事の間合いが変わったことに気が付いたんだ。問いかけたり存在に気づいたりすること自体が取り返しのつかない災厄を招く神や怨霊に等しい何かに、道重さんの存在が置き換わったように感じる。
耳の根にこだまする鈴の音と聞き違えた耳鳴りが、抵抗の及ばない現実を縁取る沈黙こそが恐怖の本質なのだと否応なしに教え込んでくるようだった。
「……もう、帰れ」
「はい?」
「もう、くるなっ、でていって」
「急に何ですか、道重さんっ」
「もう会わないっ」
怒り、それとも悲しみの表情を湛えていたのだろうか。強引に追い出す怒涛の勢いはまっすぐ顔を見ることも問いかけることも許さず、混乱と動揺の濁流のなか唐突に関係性から締め出された。整えられた庭の草木。玄関扉まで続く足元の敷石。遠くから聞こえる蝉の声が止むまで立ち尽くしていれば家族の誰かが招き入れてくれるに違いないいつもの情景。ただそこに、さっきまで繋がっていた関係性だけが見えなくなっている。
緊密な間柄から、扉に手をかければ通報される、不審者と何も変わらない身分にまで打ち捨てられて、俄かに信じることは難しい。
本当に何が起こったのか理解できなかった。以後はメッセージを送っても返信はない。それまで関係を持っていたのがまるで嘘のようだ。一方的な途絶に取り付く島もなく、一週間はただ呆然と日常をやり過ごした。
(俺、何かしたのか……? 別れたのか?)
別れを実感させられると、次にやって来たのは途方もない悲しみだった。あんなに好き合っていたのに、花火が開いた後のごとく理由も分からず一瞬で消えてしまった。最も近くで感じていた高貴な精神性も、燃え盛る体温も、今はもう、ない。生きがいにしていた、というよりも人生の目標や支えを外され、胸にはぽっかりと埋められないほどの大きな穴が空いている。次第に怒りにも変換されていった。
でも、一体なぜあんなことになったのだろう。道重さんは怒っていたのか。悲しんでいたのだろうか。思い返すと、参考書を手にした時から様子がおかしくなっていた。道重さんが目指していた大学とは違うけれど、同じ"法学部"のそれだったからだろうか。考えてみれば、道重さんは事故を受けなければ弁護士を目指していたのだから、俺の状況は恨まれて当然かもしれない。無神経なのは俺だった。
夢のきっかけ、初めて惚れた人。夢を続ける理由。もう、家に帰ればまともな会話もできない『選んだ道を否定する家族』しかいなくなってしまった。勉強漬けで学内の交友関係も失った。自転車置き場が隣り合う本田とすら、もう会話もしない。清水先輩だって向いてる方向こそ同じでも下の名前も知らない。
今、たったいま、孤立したんだと理解した。孤独とは異なる、自分の選択ゆえの孤立に違いなかった。回り回って飼い犬を散歩中の全く関わりのない隣人にさえ嘲笑され、自分以外の人間が敵に見えてくる。でも一番憎みたいのは紛れもなく自分自身だ。
やりきれなさに涙が出て止まらなかった。
店に並べられたまだ息のある魚たちのごとく、無力に口を喘がせながら見知った門を自分の意思で押し開け他者としての世界へ戻っていく。望み絶えると書いて絶望という言葉は今の自分に当てはまるだろうか。いや、戦地で捕まり今にも極刑と同等の拷問を受ける徴兵された一般人くらいでなければ当てはまらないだろう。こんな程度を失意の底だと勘違いする無知で無能な人間だから、苦しみの中で努力する彼に見限られたに違いない。
そう、妙に冷静で事実なのか感傷なのか不明瞭な惨めさを反芻する自分の背中を、まるで他人の目から俯瞰するかのように見送りながら、日々沈黙という恐怖の輪郭の支配する失意の中を震えながら歩いた。
