あいはことばを選ばない


 安心していたのも束の間、数日後不意打ちのように事が荒立った。珍しくバイトも道重さんの送迎もなく家に直帰した途端、カンカンに怒ったお袋が喚き散らしていた。店長が疲弊しきった俺を案じてお袋に一報入れ、それがどうにも癇に障ったらしい。
「何を言われてもあたしは学費なんて出せないからね! いきなり大学だとか言い出してこっちは用意できてるわけないんだから! どうしても行きたいなら一度就職してからでいいじゃない!」
 みんなあたしが悪いみたいに言って、と台所に立つお袋はぶつくさと小言を言い、南瓜(カボチャ)のような野菜に刃を当て荒々しく体重をかけ、ドンドンと大きな音を立てながら真っ二つにかち割っていた。確かに、進学の件はお袋からしたら青天の霹靂だったのかもしれない。昔の俺ならすぐ謝ってしょげていた。

 しかし、今回ははっきりとした隔絶に気付き別の意味で胸が冷えた。確かに思っても見ない急カーブで行き先が変わる事態に立腹するのはごもっともだと思う。しかし、他人様に自分の子供を心配してもらったにも関わらず感謝より先に思い通りにならない事への癇癪を起こし、努力してもっと豊かで人の役に立つ人生を目指す努力を無意味と決めつけてしまうのはいかがなものだろうか。それとも、俺が親不孝者で世間知らずなだけだろうか。
 今まで、夢というものを一度も持たせてくれなかった。そのほとんどが「お金がない」という理由で、行きたいところも欲しいものも叶うものがなかった。だから夢への正規ルートなんて正直今も分からない。
 もうこの小さな鳥籠から飛び出したい。お袋を悪く言いたいわけではないが、ここは世界が小さすぎる。もっと学んで自分に挑戦したいし、色々な景色を見てみたい。 

 それから相次ぐように、軽犯罪を犯した者への誘導尋問と見紛う三者面談が実施された。担任もお袋も要約すると「お前には無理だ」「親の負担を考えろ」などの集中砲火を浴びせかけ、俺からなんとかして就職というワードを引き出そうとした。俺は逆に意地になって、どんなにボロボロになっても負けないよう必死に抵抗する。その場は何とか耐えたが、二人からの言葉による攻撃はいくら決意が固まっているとはいえ相当メンタルに応えた。
 挙げ句の果てには、担任からの「勉強するならまずバイトをやめろ」、お袋からの「学費なんてうちにはないし就職しないなら生活はどうするの」の二律背反の十字砲火。心が折れそうだった。貧しさの中に生まれた子供は貧しい世界に閉じ込められ、抜け出す術は与えられない。親は子を現状維持の道具として目先の生活費の回収に駆り出し、そんな人間が集まりやすい学校で教員を務める担任は生徒の未来に期待しない。
 教員になれるだけの学があるからこそ蛙の子は蛙なのだと信じて疑わず、まして無教養で口汚い親たちへの対処で精神をすり減らしてゆく。同情こそすれど気分は悪い。指導者ともある人間から暗に「生まれた時点で手詰まりだ」と宣告されているのだから。

 自分の無力さと出自に嫌気がさす。同時に、肝心なのは就職や稼ぎの先にある"抜け出して自立し独立すること"なんだと拳を握り締めた。

 解散後はお袋とは口を聞かず、別々に校門を出た。心なしかたった今公道に出て行ったお袋の車のアクセル音が荒く聞こえた。俺はカバンを前に掛け、その中に匿(かくま)ったスマホもパソコンもない時代から先人たちが積み上げてきた、知性と努力の結晶である『参考書』という数少ない味方を抱きしめる。
 ちょうどこの後がバイトでよかった、上手くすればお袋と明日まで顔を合わせずに済むと安堵し、気持ちを切り替えて店長のいる店まで自転車を走らせた。

♦︎

「どうだった、三者面談」
「まあ想像通りです」

 店に到着して制服に着替えると、店長は珍しく客がいるのに話しかけてきた。よほど心配だったのか、例の電話をしたことを若干後悔しているのか、または両方だろう。変に悩む顔もせずに「そうか」と相槌を打つと、満ち潮のように雪崩れ込んでくる学生や退勤時間のサラリーマンたちへの接客に切り替えた。学校、バイト、勉強。全ては切り替えが肝心だ。道重さんだってこんなの比じゃないくらい落ち込んだだろうに、切り替えて日々のリハビリを頑張っているんだから。
 やがてシフトの終わりが近付き、例によって客足が陰っていった。どうにもスマイル全開とはいかない俺は、おのずと頼るように店長に話しかけた。

「すごく厳しいっていうのはわかってるんです。無理という方が正しいとは思います。でも、どうしても諦められないんです」

 仕事の手を止めずに話すので、店長の表情は伺えない。ただ、食洗機から出てきた調理器具の水を払う音一つを聞いただけでも、しっかりと一言一言を受け止めてくれているのがなんとなく伝わった。
 
 シフトが終わり、タイムカードを切った直後だった。
「……今度食事に行かないか、時間を取って全部話を聞こう。もしおまえの話が納得いくものなら、いろいろ考えてやらないこともない」

 この件は実沙子さんには言わなくていいからさ、と店長は付け加えた。やりたいこととやるべき事案を具体的にして、プレゼンしてみろという趣旨で間違いなさそうだった。
 人生で初めて、向こうから俺の話を親身になって聞いてくれる、本当に信じられそうな大人に出会えた。俺が心のどこかで願っていても言い出せなかったことを、忙しいかな、きっと迷惑だろうなと気が引けてしまっていたことを、向こうから言ってくれた。その事実がただ嬉しくて、少し目元が潤み、でも同じ男として気張っていたくてどうにか堪える。いいんですか、ぜひお願いしますとか、そんなことを言った気がするが高揚していたしはっきりとは思い出せない。蒸し暑い七月の夜が苦しくもなんともなかった。ずっと欲しかった関係性の人が一人できた、それだけで何もかもをなんとかできそうな勇気が満ち満ちてくる。
 ただ、何の賭け金もなく勝負はできないと覚悟の重みを推し量るように最後に加えた。

「まずは学内で一番を獲ってみろ。そのこと一つだけのために、自分にできる全てのことをやってみろ」

 話はそれからだ、と念を押される。どんなに大きな目標を持つ人も、まずは目の前の課題に全力を尽くす。そうした堅実な努力の積み重ねが他の人にもはっきり見える大きな形になったとき、初めて結果として評価されるんだ。
 諭し導こうとする重心の低い声色に、確実な説得力と、それを裏付ける店長自身の人生に根ざす揺るぎないバックボーンともいえる何かを感じる。

 力強い眼光を直視して、俺はただ「やります」とだけ返事をした。

♦︎

「直哉、これ」
 図書館の学習室で勉強していると、その時間別行動をしていた道重さんが、冷たいペットボトルの飲み物を渡しに来てくれた。館内にある自販機で買ってくれたらしく、ボトルの外側は汗をかくみたいに凝結している。俺はありがとうございますと礼を言いながら受け取り、お金は、と言いかけたところで彼が手のひらをかざした。
「いらない。直哉、がんばってるし、あげる」
「……そんな、悪いですよ」
「おれも、お金のれんしゅう、なったから」
 そう言って本革の小さなコインケースを手のひらにのせ、彼は口角を三日月の先端のように引き上げて満足そうに微笑んだ。その笑顔はここ数日の親との喧騒を忘れさせ、ほっと緊張した身体をほぐし、幸せな気持ちで包んでくれた。

 プシュッと赤いボトルキャップを捻ると、黒い炭酸飲料が容器の中で一瞬沸き立つように泡がはじけた。勉強から少し離れて、いただいた飲み物を片手に道重さんとの時間を楽しむ。道重さんは濃い緑茶みたいな飲み物を好んで飲む。何気ない会話も、道重さんが俺の前でくつろいでくれている風景も、今の俺には心のオアシスか、もしくは救いのようなものだ。喉の内側に張りつく焦燥や苦味からいっとき解放されて、心の平安が取り戻される。
 ふと窓の外に目をやると、行き交う通りには浴衣姿の人が大勢歩いていることに気づいた。

「あれ、今日ってお祭りとかありましたっけ」
「たぶん、あれ、はなび」

 道重さんは外の何かを指さして答えた。日常に忙殺されて忘れていたけれど、そういえばもうそんな時期だ。彼と並んでちょっと外へ確認してみると、逆にどうして今まで気づかなかったのか不思議なほど目立つ場所に花火大会の告知看板が立っていた。本日十九時〜二十時、場所はここからほど近い湖畔と書いてある。
 大昔はお袋と二人で見に行った記憶がある。俺がある程度大きくなってからは友人たちと夜遅くまで騒ぎ、去年はバイトでそれどころではなかった。
 もしかしたら今年は特別な年になるのかもしれない。

「せっかくなら行ってみますか? 混むんで目の前じゃなくても、静かで見やすいところまで」
「直哉、今日、バイトない?」
「今日はないっす。しばらくシフト減らすんで、大丈夫っす」

 すると道重さんは表情をせわしなく二度三度巡らせ、最終的にはこれまでに見たことのない名状し難い表情で肯定の意思を示してくれた。喜んでくれていることには間違いないと思う。
 小休憩を挟んだのち、俺たちはまた涼しい館内に戻って勉強した。

 浴衣、浴衣、甚平、浴衣。
 それから図書館の閉館時刻まで粘って退館すれば、もう開始時間が近いことを示すように、装いの華やかな若者たちに囲まれた。道端を見回すと、折り畳まれた屋外用テーブルと椅子を自宅の前やベランダに並べ、冷えたビールを片手に談笑する大人たちの姿も多くみられる。ここは住宅街ではあるけれど、ロケーションによっては家から花火を鑑賞することができるから、わざわざお祭りの会場に出向かない人も多い。
 いつもより賑やかな通りを数分ほど歩いたところで、ドーン、と一発目の花火が熱気のこもる大空に打ち上がった。キラキラとまばゆい閃光を散らしていく花火が、彼の黒くて艶めく二つの夜空にも咲き誇っている。しかしその表情はどこか苦しそうでもあって、相反する要素を兼ね備えた景色が俺の目には妙に印象的に映った。

「道重さん、こっち」
 俺は息が詰まるほどの人混みのなか、道重さんの無防備に垂らされた手を引いた。そして、人通りの少ない道に外れ、とある場所へ向かう。もうそれは、混雑による疲弊を回避するためだとか、安全に鑑賞したいからだからだとか、そういう理由だけではなかった。ただ、道重さんを独り占めしたかった。

 ひっそりと佇むいつもの稲荷神社の前まで来ると、先ほどよりも花火が遠くに見えた。黒く塗りつぶされた家のシルエットに隠れてしまう時もあるが、それよりも特別な日まで一緒にいる高揚感と、こんな時間まで王子を連れ歩いているみたいな背徳感が胸を熱くした。
「……ここで大丈夫っすか。あんまり見えないかもしれないすけど」
「うん」
「俺が道重さんと二人になりたくて、……ごめんなさい、ここしか思いつかなくて」
 いいよ、の返事とともに、俺たちはどちらからともなく石階段の隅に腰掛けた。その間も手は離さず、固く握り合っていた。しばらくは会話もなく、ただ身体を寄せ合いながら時々見える花火を眺める。夜闇の中でも、街灯の明るさのせいか蝉の騒がしいサウンドがジワジワと鳴り響いていた。

「直哉、勉強、がんばってるね」
 道重さんは相変わらず目線を花火に向けたまま、優しい声で言った。その横顔は何よりも尊かった。
「……はい。ちょっと目標ができたんで。進学目指してるんで、今はそれに集中してます」
 おうえんする、ととても穏やかに返ってきた言葉に、進学に対して硬くなっていた心が一瞬で解き放たれた気がした。この人の隣にいると、もちろん向上心を刺激されることも多いけれど、本質的には心が穏やかに保たれ、一緒にいてポジティブな心持ちにさせてくれる。

「道重さん、」
 俺は彼に向き直り、体勢を改めた。ふと、率直な思いを伝えたいと思った。
「……俺、道重さんのことが好きです。道重さんと一緒に生きていきたいです」
 初めてこんなことを自分から口にした。自分でも驚くほどに、照れ臭さよりも昂る心から溢(あふ)れ出る言葉の爽快さを感じた。道重さんは俺を正面から見つめた後、恥ずかしそうに目を伏せて頬をかき、数秒遅れて紅潮した顔を頷かせていた。

「……ありがと」
「自分、今はこんなですけど必ず立派な大人になるまで努力します。こう思えるようになったのも道重さんのおかげなんです。今は道重さんが好きで好きでたまりません」
 迫るみたいに躙(にじ)り寄って両腕で彼の身体を包み込むと、胸の中で花火のような明るい笑顔が咲いていた。それはこの人生において初めて見る鮮やかな景色で、戸惑いも些か感じた。でも、好きな人が自分の行いで嬉しそうにしている様子はぐっと熱く込み上げるものがあって、この先何度でも拝みたいと強く思う自分がいた。

「ふはっ、ははは!」
 道重さんは俺の腕の中から飛び出して、軽やかに笑った。次に何をするのかと身構えれば、今度は彼の方から飛びかかるように抱きついてきた。しばし階段の上で浮かれて戯(じゃ)れ合っているうちに、花火などとうに忘れてお互いのことで視界と思考が埋め尽くされていった。

「なおやに、すきって、は、初めていわれたっ」
「遅くなりました」
「おれも、頑張る。まだ、ぜんぶ、あきらめてない」
 満面の笑みが頬の表面を撫でて、抱き合った格好のまま見つめ合う。瞼を伏せればそれとなく甘い雰囲気が訪れて、顔を傾けながらそっと唇を重ねる。遠くの花火は祭典の終わりを告げるかの如く、高らかな破裂音を立て続けに打ち鳴らしていた。
 まるで世界が二人きりになったみたいだ。幻想的な錯覚の中で、日々の喧騒を忘れ、お互いの熱量を奥深くまで思う存分に探る。腕に触れる指先も、顎を持ち上げる手も、どちらのものか分からなくなるまで、何度も顔の角度を変えて恍惚に身を委ねていた。
 稲光に似た閃光が体内を駆け巡る。それは花火よりもさらに眩しく感じられた。

 ──ぱんっ、ぱんっ、ぱん

 終演の花火が爆ぜた。心なしか、空気が涼しくなった気がした。美しく愛しい人は悪戯をする子どものようにニヤッと笑い、立ち上がって俺の手を引っ張った。花火は消えたけれど、俺たちが持つ破裂寸前の熱(・・・・・・)は全く冷めそうになかった。
 もう言葉にしなくても分かる感情の行方を追うべく、俺たちは少々急ぎ足で古い社を後にした。