想定していたことではあったが、周囲は大反対の嵐だった。
母親の反応は、芳しくないどころか「アンタに何の意味があんの」と一蹴して以後相手にもしてくれず、進路の話を嫌がる節すらあった。クラス担任も難色を示して、考え直せと繰り返し忠告してくる。自分は思った以上に期待されていない。きっと俺の状況は難破が予想される船出みたいなものなのだろう。
しかし、周りが反対したくらいで何かが変わるわけではない。そんなのはどうでも良くて、むしろ反対されればされるほど闘志を燃やした。初めてできた大切な人を前にして、『諦める』なんて悪手を誰が取れるだろうか。単純でもバカでも、周りは何とでも言えばいい。ここで引いたら、俺が生きる意味を失ってしまいそうだ。
もう漫然と時間を浪費してはいられなかった。学校にいる間は、教室を移動するほんの少しの時間も惜しんで勉学に励んだ。昼休みは静かな図書室で過ごした。
毎日通い詰めている間に、顔馴染みもできた。
テキストを数冊携えて図書室のドアを開けると、いつもの窓際の席にこの学校では珍しい、勉強をする生徒の姿があった。
「やあ、今日も来たんだね」
「うっす。この席、いいすか」
俺は軽く挨拶をしながら彼の斜向かいに座り、持っていたテキストのページを開く。額縁メガネをかけ、無造作ヘアをした大人しそうなこの人は一学年上の先輩で、苗字は清水と言うらしい。名前は知らない。
しばらくお互いの顔も碌に見ないまま、目の前の問題に向かい合った。今日図書室を利用しているのは俺と先輩の二人だけだ。この学校では滅多にいない進学志望の人間同士ということで、勝手に親近感が湧いた。
ペン先で紙を引っかく音が心地良い。
「結局君も大学目指すんだって?」
休み時間が終わる頃、先輩は内心興味津々そうに話しかけてきた。そしてペンをケースにしまいながら、仲間だね、と嬉しそうに言う。
「……はい、その方向でいければと思ってます。ただ周囲にはめちゃくちゃ反対されてますけど。先輩はどこ受けるんすか」
「教育学部がある大学をいくつかね。教員やりたくてね」
教室に戻る間も先輩と進路について話した。昔の俺だったら絶対に話す機会がなさそうなタイプの人と、大学の話なんかしている。まだ自分でも不思議な感じがするけれど、クラスには進学について話せる人間がいないから、先輩のような人と知り合いになれたことはかなり嬉しい。それに、現役受験生に話を聞けるのはありがたい。
「そういう君は行きたい大学とか見つかった?」
「……俺はまだ迷ってます。何の職業が一番その人のためになるのか決めかねてて」
「事故だっけ、その子」
「はい」
そうかぁ、と先輩は腕を組む。俺にとって大学は未知の世界で、そもそもの受験の仕方とか、勉強の科目とか、本当に基礎の基礎から教えてもらった。先輩も先輩で、こういう会話が嬉しいのか、毎回真剣に答えてくれる。
彼は首だけを前に倒してぽりぽりとでこの辺りを掻き、何かを思い出しながら話を続けた。
「……それなら、この前話してくれた中で言えばやっぱり弁護士がいいんじゃないか? 現実的な話、オレの身内が事故に遭った時は慰謝料とか大変そうだったし、直接携われなくても、『そういう人が近くにいる』って生涯の安心に繋がるんじゃないかな」
他の仕事も魅力的だけどね、と付け加えられたが、俺の脳内では先輩が第一に推してくれた職業名だけがリフレインしていた。本やインターネットで調べたくらいの知識しかないから、具体的な職業の目標という大層なものではないが、俺の望む生き方や成し遂げたいと思っている全ての事柄を内包した未来予想図の中に、求める全てがすっぽり収まった仕事が弁護士で間違いなかった。誰かを守り支えるという業務目標も、自分自身を誇れる職務内容や社会的地位も、持続的に道重さんを支えていけるだけの生活の余裕も手に入れられる。
「そっか。そうっすよね」
果てしなく遠い道のりだ。でも、どんなルートで考えても、結局その答えに辿り着いてしまうから、なんだか腑に落ちた感じがした。結局俺は、一番高い山に登ってみたいんだ。
「まぁ、言うだけは簡単だけど、夢は大きくってね」
「……ありがとうございます。勇気づけられました」
それはよかった、と会釈しながら清水先輩は手を挙げて、俺とは反対の階へと上っていった。
(言うだけは簡単だけど夢は大きくか、確かにその通りだ)
俺の置かれている状況は、当然にそういう職業を視野に入れてきた人たちよりずっと悪い。道重さんの努力も、俺の進路希望も、奇跡を起こそうとするのに等しい。自分に関して言えば、勉強時間を充分に確保しなければならないのに、家計的な理由でバイトを辞める選択肢は取れない。何をするにも金が要る。俺たちはもう、出会った時から奇跡という場所を目指す旅の道連れだったのかもしれない。
でも意外なほどに不安は感じられなかった。道重さんを失うくらいなら、死に物狂いで努力して何がなんでも手に入れる。成し遂げるまで、諦めない。
──学校、バイト、勉強、道重さん。
学校、バイト、勉強、道重さん。
自分でも少し前とは別人なのではないかと思うくらいに毎日早朝から夜遅くまで予定が詰め込まれていった。大変なのは間違いないが、充実した生活でもあった。好きな人との未来を描こうとすればするほど、日々の勉強に精が出る。格好よくありたいから、日頃の態度や振る舞いに気をつける。
ついでに金髪だった俺の頭を黒に染めたら、道重さんは結構喜んでいた。見たことのない目の輝きで俺を抱いてくる様子からして、彼は黒髪がタイプだったみたいだ。
♦︎
しかし表向きは充実した生活だが、気づかない間に綻びも見え始めていた。
「──おまえフラフラだぞ、大丈夫か」
「……っ、大丈夫っす」
「バイトっていってもおまえはまだ高校生なんだから、無理してシフトに入らなくていいんだぞ」
急に襲ってきた眩暈に耐えきれず、厨房の台に手をつき数秒じっとして堪えていた。しかし隠れてやり過ごすつもりだったけれど、休憩上がりの店長に見つかってしまった。平気なふりをしようと手を慌てて台から外したけれど、身体の軸が定まらない。
「ほら、危ないぞ、今日はもう上がれ」
「……そういうわけにもいかないんです。塾代とか、学費とか、諸々貯めていかないといかないんで」
「塾? なんだ、大学にでもいくのか?」
急に店長の眼光が鋭くなった。親や担任のそれとは違い、一切の嘲笑も含まない真剣さと冷静さに満ちた軍師のような眼差しが無意識に俺を身構えさせる。声も出ず、ただ黙って頷けば、間髪入れず追い討ちをかけるよろしくたたみかけてきた。
「それなら尚更バイトどころではないだろ? 実沙子さんには話したのか」
「話しました。ただ反対されるばかりなんで、自分で出します」
「……いやいや、言うのは簡単だが、やるとなったら相当に大変だぞ。全部一人で解決できる問題じゃないし、そんなに甘い世界じゃない」
「……しょうがないです。俺がやりたいことなんで。自分でどうにかするしかないんです」
母子家庭、親の経歴と性格。店長は俺を取り巻く要素の大部分を知っているがために、俺の「しょうがない」という一言の重みを本人以上に苦しそうな顔で受け止めた。それでも、「もう少しお母さんと話してみろ」と強く促すことは忘れず、今日は早く帰れと言い放った。これ以上他のクルーたちにも迷惑をかけるわけにもいかないので、俺はおとなしく従うことにした。
更衣室でしばらく休み、着替えをして荷物をまとめていると、店長は大丈夫か、と俺の様子を伺いに来た。幾分楽になりました、と業務的な会話を交わした後、店長は椅子から立ち上がる俺の荷物を代わりに持って、思いついたようにぽつりと聞いてきた。
「きっかけはこの前一緒に来てた子か?」
なんでわかったんですかと俺は聞き返したけれど、あちらにしてみればなんでもへったくれもないらしい。俺はどこまで見透かされているか正直身構えてしまったけれど、店長はただ「見ていて安心した」と予想外の答え方をした。
俺が年齢相応の顔をしていたと言われてはっとした。後になって思えばその通り、友達と遊ぶ間もなく仕事に追われる未成年なんて大人からしたら心配でしかないに決まっている。そこで一緒に笑ってた道重さんが進路を選ぶきっかけに違いないと確信されているなんて、なんだか親以上に親みたいな人だと感じて嬉しかった。
「俺はあの人のために大学行って、少しでも役に立てるように頑張りたいんです」
「……そうか。とりあえず分かった。気をつけて帰れよ。今日もだいぶ暑いからな」
そうして冷たいペットボトルのスポーツ飲料を俺に手渡し、店長は優しく送り出してくれた。
母親の反応は、芳しくないどころか「アンタに何の意味があんの」と一蹴して以後相手にもしてくれず、進路の話を嫌がる節すらあった。クラス担任も難色を示して、考え直せと繰り返し忠告してくる。自分は思った以上に期待されていない。きっと俺の状況は難破が予想される船出みたいなものなのだろう。
しかし、周りが反対したくらいで何かが変わるわけではない。そんなのはどうでも良くて、むしろ反対されればされるほど闘志を燃やした。初めてできた大切な人を前にして、『諦める』なんて悪手を誰が取れるだろうか。単純でもバカでも、周りは何とでも言えばいい。ここで引いたら、俺が生きる意味を失ってしまいそうだ。
もう漫然と時間を浪費してはいられなかった。学校にいる間は、教室を移動するほんの少しの時間も惜しんで勉学に励んだ。昼休みは静かな図書室で過ごした。
毎日通い詰めている間に、顔馴染みもできた。
テキストを数冊携えて図書室のドアを開けると、いつもの窓際の席にこの学校では珍しい、勉強をする生徒の姿があった。
「やあ、今日も来たんだね」
「うっす。この席、いいすか」
俺は軽く挨拶をしながら彼の斜向かいに座り、持っていたテキストのページを開く。額縁メガネをかけ、無造作ヘアをした大人しそうなこの人は一学年上の先輩で、苗字は清水と言うらしい。名前は知らない。
しばらくお互いの顔も碌に見ないまま、目の前の問題に向かい合った。今日図書室を利用しているのは俺と先輩の二人だけだ。この学校では滅多にいない進学志望の人間同士ということで、勝手に親近感が湧いた。
ペン先で紙を引っかく音が心地良い。
「結局君も大学目指すんだって?」
休み時間が終わる頃、先輩は内心興味津々そうに話しかけてきた。そしてペンをケースにしまいながら、仲間だね、と嬉しそうに言う。
「……はい、その方向でいければと思ってます。ただ周囲にはめちゃくちゃ反対されてますけど。先輩はどこ受けるんすか」
「教育学部がある大学をいくつかね。教員やりたくてね」
教室に戻る間も先輩と進路について話した。昔の俺だったら絶対に話す機会がなさそうなタイプの人と、大学の話なんかしている。まだ自分でも不思議な感じがするけれど、クラスには進学について話せる人間がいないから、先輩のような人と知り合いになれたことはかなり嬉しい。それに、現役受験生に話を聞けるのはありがたい。
「そういう君は行きたい大学とか見つかった?」
「……俺はまだ迷ってます。何の職業が一番その人のためになるのか決めかねてて」
「事故だっけ、その子」
「はい」
そうかぁ、と先輩は腕を組む。俺にとって大学は未知の世界で、そもそもの受験の仕方とか、勉強の科目とか、本当に基礎の基礎から教えてもらった。先輩も先輩で、こういう会話が嬉しいのか、毎回真剣に答えてくれる。
彼は首だけを前に倒してぽりぽりとでこの辺りを掻き、何かを思い出しながら話を続けた。
「……それなら、この前話してくれた中で言えばやっぱり弁護士がいいんじゃないか? 現実的な話、オレの身内が事故に遭った時は慰謝料とか大変そうだったし、直接携われなくても、『そういう人が近くにいる』って生涯の安心に繋がるんじゃないかな」
他の仕事も魅力的だけどね、と付け加えられたが、俺の脳内では先輩が第一に推してくれた職業名だけがリフレインしていた。本やインターネットで調べたくらいの知識しかないから、具体的な職業の目標という大層なものではないが、俺の望む生き方や成し遂げたいと思っている全ての事柄を内包した未来予想図の中に、求める全てがすっぽり収まった仕事が弁護士で間違いなかった。誰かを守り支えるという業務目標も、自分自身を誇れる職務内容や社会的地位も、持続的に道重さんを支えていけるだけの生活の余裕も手に入れられる。
「そっか。そうっすよね」
果てしなく遠い道のりだ。でも、どんなルートで考えても、結局その答えに辿り着いてしまうから、なんだか腑に落ちた感じがした。結局俺は、一番高い山に登ってみたいんだ。
「まぁ、言うだけは簡単だけど、夢は大きくってね」
「……ありがとうございます。勇気づけられました」
それはよかった、と会釈しながら清水先輩は手を挙げて、俺とは反対の階へと上っていった。
(言うだけは簡単だけど夢は大きくか、確かにその通りだ)
俺の置かれている状況は、当然にそういう職業を視野に入れてきた人たちよりずっと悪い。道重さんの努力も、俺の進路希望も、奇跡を起こそうとするのに等しい。自分に関して言えば、勉強時間を充分に確保しなければならないのに、家計的な理由でバイトを辞める選択肢は取れない。何をするにも金が要る。俺たちはもう、出会った時から奇跡という場所を目指す旅の道連れだったのかもしれない。
でも意外なほどに不安は感じられなかった。道重さんを失うくらいなら、死に物狂いで努力して何がなんでも手に入れる。成し遂げるまで、諦めない。
──学校、バイト、勉強、道重さん。
学校、バイト、勉強、道重さん。
自分でも少し前とは別人なのではないかと思うくらいに毎日早朝から夜遅くまで予定が詰め込まれていった。大変なのは間違いないが、充実した生活でもあった。好きな人との未来を描こうとすればするほど、日々の勉強に精が出る。格好よくありたいから、日頃の態度や振る舞いに気をつける。
ついでに金髪だった俺の頭を黒に染めたら、道重さんは結構喜んでいた。見たことのない目の輝きで俺を抱いてくる様子からして、彼は黒髪がタイプだったみたいだ。
♦︎
しかし表向きは充実した生活だが、気づかない間に綻びも見え始めていた。
「──おまえフラフラだぞ、大丈夫か」
「……っ、大丈夫っす」
「バイトっていってもおまえはまだ高校生なんだから、無理してシフトに入らなくていいんだぞ」
急に襲ってきた眩暈に耐えきれず、厨房の台に手をつき数秒じっとして堪えていた。しかし隠れてやり過ごすつもりだったけれど、休憩上がりの店長に見つかってしまった。平気なふりをしようと手を慌てて台から外したけれど、身体の軸が定まらない。
「ほら、危ないぞ、今日はもう上がれ」
「……そういうわけにもいかないんです。塾代とか、学費とか、諸々貯めていかないといかないんで」
「塾? なんだ、大学にでもいくのか?」
急に店長の眼光が鋭くなった。親や担任のそれとは違い、一切の嘲笑も含まない真剣さと冷静さに満ちた軍師のような眼差しが無意識に俺を身構えさせる。声も出ず、ただ黙って頷けば、間髪入れず追い討ちをかけるよろしくたたみかけてきた。
「それなら尚更バイトどころではないだろ? 実沙子さんには話したのか」
「話しました。ただ反対されるばかりなんで、自分で出します」
「……いやいや、言うのは簡単だが、やるとなったら相当に大変だぞ。全部一人で解決できる問題じゃないし、そんなに甘い世界じゃない」
「……しょうがないです。俺がやりたいことなんで。自分でどうにかするしかないんです」
母子家庭、親の経歴と性格。店長は俺を取り巻く要素の大部分を知っているがために、俺の「しょうがない」という一言の重みを本人以上に苦しそうな顔で受け止めた。それでも、「もう少しお母さんと話してみろ」と強く促すことは忘れず、今日は早く帰れと言い放った。これ以上他のクルーたちにも迷惑をかけるわけにもいかないので、俺はおとなしく従うことにした。
更衣室でしばらく休み、着替えをして荷物をまとめていると、店長は大丈夫か、と俺の様子を伺いに来た。幾分楽になりました、と業務的な会話を交わした後、店長は椅子から立ち上がる俺の荷物を代わりに持って、思いついたようにぽつりと聞いてきた。
「きっかけはこの前一緒に来てた子か?」
なんでわかったんですかと俺は聞き返したけれど、あちらにしてみればなんでもへったくれもないらしい。俺はどこまで見透かされているか正直身構えてしまったけれど、店長はただ「見ていて安心した」と予想外の答え方をした。
俺が年齢相応の顔をしていたと言われてはっとした。後になって思えばその通り、友達と遊ぶ間もなく仕事に追われる未成年なんて大人からしたら心配でしかないに決まっている。そこで一緒に笑ってた道重さんが進路を選ぶきっかけに違いないと確信されているなんて、なんだか親以上に親みたいな人だと感じて嬉しかった。
「俺はあの人のために大学行って、少しでも役に立てるように頑張りたいんです」
「……そうか。とりあえず分かった。気をつけて帰れよ。今日もだいぶ暑いからな」
そうして冷たいペットボトルのスポーツ飲料を俺に手渡し、店長は優しく送り出してくれた。
