あいはことばを選ばない


 あくる日、俺は放課後担任から呼び出された。
 内容は予想の通りだったが、まさかわざわざ職員室まで来いと言われるとは思ってもみなかった。進路指導とはいえ、みんなは教室のはしっこで先生と椅子を突き合わせてやっただけだったのに、まあ俺の書いた内容普通ではないからそうもいかなかったのだろう。

「おまえ、これはどういうことだ?正気か?」

 明らかに苛立った先生がドンドンと指差す先には、殴り書きに近い俺の進路希望用紙がある。希望の企業かその系統を簡単に書く程度のスペースに、俺は思いつく限りの「なりたいもの」を書いた。とても高校二年生の進路希望とは思えない、小学生の卒業アルバムみたいな書き方だと自分でも思う。

「どれもこれもそれなりに良い大学に行って必死こかなきゃなれない職業ばかりだろう。そもそも職務内容をちゃんとわかってるのか?」
 うちはお世辞にも偏差値の高い学校じゃない。進路といえば十中八九は就職、大学に進む生徒も稀にはいるが数年に一人だ。
 それがどうした。書かれているのは理学療法士、言語聴覚士、弁護士と、夢物語も甚(はなは)だしい職業ばかり。

「こういう職に就く人間はな、二年生のうちに高校の全範囲を当たり前に学び終えて、とっくに試験対策に取り掛かっているものなんだ。進路も漠然とした職業なんかじゃなく、目的に応じて最適な大学をいくつか絞って書く、そういう世界なんだよ。こんなこと言いたくはないが、自分の現状を省みたらどうだ」
 先生の指摘に反論の余地もなく、膝に手のひらを突き立てながら俺は俯いた。だいたい何を言われるかなんて覚悟の上だったが、それよりメンタルに来たのは目の前にあるシワだらけのボロい制服だ。
 思い出す道重さんや今井さんの風体。優秀な人間の服はいつも綺麗で、服をはじめとした身の周りのものを清潔に保ち、髪なんか派手に染めたりせず、行き届いた生活の中に当然のように勉強に向き合う時間を取り入れている。そういう格の人間が目指す職業を俺は書いたんだ。
 俺は本当になりたくて書いたけれど、先生に言わせれば見るからに無理に決まっている。俺がどんなに大真面目でも、頑張っても、言ってることに現実味を持たせる力を何一つ持っていない。

「……どのくらい努力したら、こういう仕事に就けますか。やるとしたら、まず何から始めたらいいですか」
「目指すのが今からという時点で話にならん。まずというなら自分自身の現実としっかり向き合うことだ」
「こういう仕事でなければ助けられない人が身近にいるんです! なんとかして努力して力になりたいんです!」
「自分の力でどうこうしようというのがそもそもの間違いだ。だったら医者は自分の車を自分で作るのか? 自分でできないことを他の人にやってもらうために金を払う。その資金を得意分野で稼ぐために誰もが真面目に就職のことを考えているんだ」

 真っ向からの正論で非情にねじ伏せられ、全く歯が立たなかった。こうなることがわかっていたつもりだったのに、その"わかる"の程度はあまりにも低く、先生にとっては吹いて飛ぶほど軽かったということだ。毎日を必死に働き沢山の生徒たちの将来への責任を全うしようとしている先生にとっては、むしろ侮辱にも等しい捉え方をされたに違いない。
 その日は結局埒が開かないまま返されて、もう一度考えてくるよう命じられた。

♦︎

『今日も、なおやのバイトで、はンバーガ、たべた』
 やっぱり道重さんはどんな場所でもA4サイズのノートを開いて書き物をしている。ジム終わりに俺のバイト先へ立ち寄って食事をしている間も、日記みたいな内容を黙々と鉛筆で書き込んでいて、その横顔を覗けば真剣そのものというよりもほんのり頬を緩ませ今を楽しんでいるようだった。
「……道重さんって、よくそれ書いてますよね」
 俺は隣で食後のコーラをストローで吸いながら、何気なく質問した。彼と出会った日からこの光景は変わらない。初めて一緒に喫茶店で食べた時も、メロンクリームソーダの綴りを何度も練習していた。

「わすれたくない」
「そうなんですね」
「じこの前、おもいだす、ないこと、いっぱいある」 
 明らかに声のトーンが低くなった。横からでも、その力ない笑みには諦めに似た苦々しさを多分に含んでいることは一目瞭然だった。
 瞬時に申し訳なさで埋め尽くされる。
「すみません。嫌なこと聞いちゃいましたか」
 地雷を踏んでしまったかと速攻で謝罪をしたが、彼は違うと大袈裟に首を横に振った。過去をあまり教えてくれない道重さんだけれど、もしかしたらまだ記憶が戻りきっていないのが理由の一つだったのかもしれない。
 彼は鉛筆をテーブルへ静かに置いて、橙色(だいだいいろ)のノートを大事そうに持ち上げた。
「わすれる、嫌」
 静かに一ページ、そのまた一ページと、ささくれ一つない指先が過去を遡っていく。取り立てて特別な仕草ではないのに、穏やかに愛おしむ表情と相反する掠れた声音の対比が胸に暗く焼きついて、一瞬たりとも目が離せなかった。
「好きな、ひと、こと、ぜんぶわ、忘れたくない」

 そしてゆっくりとこちらを振り返り、俺を両目で迷いもなく捉えると、数拍おいて照れくさそうにはにかんだ。
 ざわ、と全身の毛穴が開いたのを感じた。生まれたばかりのひよこが親鳥の足元を全力で追いかけるように、彼はいつどんな時もひたむきに好きだと伝えてくれる。でも、言葉を超えた等身大の愛情表現を惜しみなく向けられて、少しだけ戸惑いを感じたのも事実だった。
 全部覚えていたいなんて、そんなの実の母親にも言われた記憶がない。
 まだ自分の辞書に載っていない『愛』という項目は、実際に目の前で見せられても信じきるには時間がかかりそうだ。

「……それって、俺のこと最初から好きだったってことっスか」
「え」
「出会った時から道重さんそれ書いてたし、今までは文字の練習してるだけかと思ってたんスけど。……てか、めっちゃ気になってたこと聞いていいですか。お稲荷さんの前で初めて会った時って、どうして怯えてたんです?」

「それ、は、」
 彼は鳩が豆鉄砲を食ったようにしどろもどろになり、急に狼狽え始めた。思いつく言葉が少なかったのか、それともただ単純に動揺していただけなのか、ノートや辞書を手当たり次第に開き、ひっかき回すみたいな格好になっている。これまでは尊敬しているばかりだったけれど、この慌てぶりを見てしまったら、なんだか可愛いと思ってしまった。
(攻めた内容を説明してもらうだなんて俺もだいぶ意地悪だな)
 そう自覚しつつも、自分を好きと言ってくれる人の真意を確認せずにはいられない。

「ひ、ひと……ひと」
「ひとめぼれ?」
 それだ! と明るく喜ぶ次の瞬間には虚を突かれたみたいに真顔になり、慌ててみるみる紅くなる顔面をテーブルに組み伏せ隠す道重さん。普段から好きだと簡単に伝えてくるくせに、一目惚れをした事実を知られるのは堪らなく恥ずかしかったらしくて、俺が軽く肩を揺すってもしばらくは頑として動いてくれなかった。しかし、その様子は彼が俺に向けてくれるあたたかな感情が本物であると証明しているようで、グッと胸に迫るものがあった。
「ずるい」
 ようやく起き上がっても彼は耳の方まで真っ赤なままで、熱を帯びた眼で恨めしそうに見てくる。思わず自分の口に苦笑いがこぼれた。そういえば出会った時もこんな雰囲気だった。道重さんは目尻がやや上がっているから、初対面の時は睨まれたと感じたのだろうか。

「……ごめんなさい。別に嵌(は)めたくて聞いたわけじゃないです。ずっと謎だったんです。どうして初手で逃げられたんだろうって」
「おれ、しゃべれない、から」
 彼は汗が浮かんだ鼻を掻きながら訥々(とつとつ)と語り始めた。そしてもう一度ノートを手に取り、当時に書き溜めていたのだろう文字だらけのページを開いて見せてくれた。今よりもずっと大きな文字で、波打つ筆跡ながらも、俺と会った時の衝撃やうまく話せなかった悔しさが、ありのままに綴られていた。

「本当は、もっと言いたいこと、あった。でも、むくかしい、くて、次は、絶対、絶対に、好き、だけは、言いたかった」
 彼はそれをぱたんと閉じ、深い黒の瞳を伏せて自嘲気味に笑った。あの時初めて告げられた『好き』の告白は、何も知らない俺からしたら突飛な印象を受けた。しかし一度死の危機を経験し言葉を失った道重さんにとってあれは二度と訪れないかもしれないチャンスで、不自由になってしまった身体を引きずってでも、人生の全てを賭けて掴みに行った結果だったのかもしれない。
 そのように考えつくと、心臓の中央がストンと真っ直ぐに撃ち抜かれていた。

「……そう、だったんですか」
「好きだよ。全部、忘れたく、ない」
 彼は決意をまるで再確認するように、言いながらにっこり微笑んだ。俺のどこが好きなのか、そもそもどうして好きになれたのか。道重さんの性的指向も知らぬままだし、してみたい質問はたくさんある。でも、彼がこちらに向けてくる視線は言葉よりもまっすぐで、じりじりと焼かれるように胸が熱くなった。

(あ……やば)
 身体とは正直なものだ。相思関係の相手からド直球な愛情をぶつけられ、自然と肉体の中心がじんわりと熱を持ち始めていた。一途に想われる尊さと健気さに今になって打ち震えさせられている。何がひよこで親鳥だ、雛鳥は間違いなく俺じゃないか。その間、道重さんは隣で何知らぬ顔で食べ終わったトレーを重ね、立ち上がろうとしていた。
 俺はその手を音もなく捕まえていた。


 繋いだ手を荒々しく振りほどくのは、決まって想いが昂った時だ。
 その後彼を初めて俺の家へ呼んだ。彼の家とは徒歩数分圏内という安心感で、中へ入るなり狭い玄関で彼を壁に押し付け唇を奪った。ここなら夜まで無人だし、多少汚しても罪悪感がない。
 道重さんも道重さんで、俺の後頭部を片手で鷲掴みにして幾度も角度を変え、もう片方の手は待ちきれないというように腰のあたりを弄(まさぐ)っている。お互いに乗り気であることでさらに肉体は煽られていく。

 靴なんか適当に脱ぎ散らかし、駆け込むみたいに自室である和室へ転がり込んだ。急がないと爆発しそうで、敷布団にたどり着くや否や事に及んだ。道重さんの好きな前開きの半袖シャツはボタンが多くて脱がせにくいが、上から順に適当なところまで外して中の肌着を胸までたくしあげれば、なんだかはしたなさが倍増されて最近は好きだ。

「……道重さん、ずるいですよ」
 興奮で指が震えて、自分の服がうまく脱げなかった。彼は中途半端に布がずらされた格好にさせられながらも、しなやかな筋肉がついた真っ直ぐな脚を放り投げて、ようやく下着を畳に脱ぎ捨てる俺を余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の笑みを浮かべながら見上げている。向こうも割と限界が近いはずなのに、一歳先輩だからだろうか、こういうシチュエーションは幾分慣れている気がする。
「俺、こんな無邪気に好きって言われて我慢できないっす」
 ムードなんて皆無で、重い布団に飛び込んだが最後、白くて長い腕に絡め取られてしまった。そして熱に浮かされたまま、唇が腫れるまで噛みつくようなキスを繰り返す。

 『好きになった人を忘れたくない』なんて、なんという殺し文句だろう。感情が昂るのと同時に、少し泣きそうになった。俺もこの人を愛したい。すべてを覚えていたい。吸い付くような肌を伝って、血管が透ける長い首や傷痕の残る鎖骨にキスを浴びせた。いつもリードしてくれるのは彼の方だが、今日は俺が感動に打ち震えて止まらなかった。

「なおや、いつもと反対(・・・・・・)、する?」
 ガツガツと喰らいついて離さない俺を見かねてか、彼は途中で聞いてきた。即座にそんなことは畏(おそ)れ多いと彼の臍の辺りで否定して、先ほどよりもはだけた腰回りを強く抱きしめる。

「……いや、負担かけるんで後ろを使うのは俺の方だけでいいんです。でも、俺も、道重さんを愛したい」
 目の前にあった彼自身を頬張ると、短い呻き声と共に筋肉が浮き出た躰がぴくりと跳ね、俺の頭を抱くように大きな両の手のひらが添えられた。別に道重さんのためならどっちの役を買ってもいい。確かに、俺の手で彼の白い躰が桃色に染まっていくのも、余裕をなくし熱った顔でキスをせがんでくるのも全部愛おしくて、抱いてみたい気持ちがないわけではない。一方で、彼の強い想いを受け止めて悉(ことごと)く負かされながら愛されるのは、自己を丸ごと肯定してくれているようで堪らない。
 つまるところ、俺にとって躰を重ねる本質は、彼と生きる悦びを分かち合う、ただそれだけなのだと思う。

♦︎

「アンタ、やけに頑張るね」
 湿気を吸った硬い襖(ふすま)を両手でガタガタと押し開けて、色の抜けた茶髪を後ろで纏(まと)めた母親は、数時間前まで道重さんといたこの部屋を覗いてきた。そして紙タバコを燻(くゆ)らせて、襖に肘をつき気怠(けだる)そうにこちらを眺める。

「なんかある時から人が変わったようじゃない。テストでもないのにそんなに勉強してどしたの」
「……別に」
「ま、ほどほどにしなさいね。就職したら高校の勉強なんか大して使わないんだし」
 お袋はそう言って背中を向け、食卓の椅子に重ねた洗濯物たちをパタパタと空中で伸ばして畳んだ。
 これは物心がついた頃から変わらない日常だ。母親にとって子どもは怒られないと勉強しないもので、「宿題なんて早くやっちゃいなさい」と家事をしながら促すのが日課だった。
 だけど今の俺は、まさに目の前で広げていた問題集たちを小バカにされた気がして、内心面白くなかった。親とは価値観がまるで合わないと諦めつつも、かく言う俺も数か月前まで似たようなものだった。変わったのは自分の方で、お袋が今の俺を理解できないのは当然かもしれない。

「なぁお袋」
 俺は静かにシャープペンシルを置き、縦長の隙間からリビングに目をやった。言うなら今だ。『襟を正す』とはこういう気分を指すのだろうか。一方で、なに、と相変わらず目線もくれない母親に、一言言ってやりたい気持ちもあった。

「俺が大学行きたいって言ったらどうする」
 初めてお袋の手が止まり、こちらを振り返った。