最初は俺からだった。二回目は道重さんの方からだった。三回目はどちらからか覚えていない。
戸惑いがあったのは初めだけで、慣れてしまえばその行為は瞬く間に当たり前の日常に溶け込んでいった。今まであんなに慎重だったのは単純に俺の心が鈍かっただけで、彼の完全なる裸体と好意を抱く側の感情を知ってしまったら、理性なんて吹っ飛んでしまった。
「んっ……」
「なや、すき」
道重さんの部屋で、ふかふかのベッドで、床で、机で、たまにクローゼットや窓際で、思い出というシミで汚すみたいにありとあらゆる場所を使った。彼が欲しがっているのもあるけれど、俺自身、男同士の良さというものに溺れていった。何よりも『愛される』気持ちよさに強烈に目覚めさせられ、したいという穏やかな気持ち以上に彼への想いが破裂しそうなほど膨らんで、馬鹿みたいに求めてしまうんだ。
「なや、だい、じょうぶ?」
「……は、い、道重さんは……」
「おれ、もっと、ほしい」
それに応えてくれる道重さんは、激しい情欲をぶつけるてくるくせに扱いは蝶の羽を指先でつまむように優しかった。嘘だろと言いたくなるくらい漫画の王子様みたいな振る舞いをしてくるおかげで、胸が張り裂けそうなほどときめいて、ますます逃れられなくなる。
「なおや、」
迸る汗を振り払い、繋がった俺の躰を背後からゆっくりと抱き上げた道重さんは、恭しく抱きしめてキスを求めてきた。肩で息をしながら上体をのけぞらせて迎えると、彼はその大きな手で俺の頬をそっと包んで持ち上げ、濡れそぼる唇で優しく喰む。
「んぅっ……うっ」
「……好きっ」
甘い時間が訪れたかと思いきや、次には切迫した声と共に二人もろとも羽毛布団へ倒れ込み、犬がマウントを取る形で野獣のように欲をぶつけ合う。道重さんを受け入れることに馴染んできたこの躰は、時折電撃に似た鋭い快感を捉えて、情けない声が漏れ出て止まらない。
「んっ、あっ、アッ、アッ」
「なや、かお、みて、みせて」
隙間がないほどにぴったりと覆い被さり、相変わらず腰を動かすことは忘れないまま甘い声で耳をくすぐってくる。気持ちよさに半泣きになりながら振り返ると、彼は長いまつ毛を重ねて満足そうに微笑んで、もう一度唇を重ねてきた。
「んっふぅ……んっ」
「す、きだ、よ」
その言葉を実感として受け取れるようになると、眩暈を起こすほどの快感と歓喜の渦へと呑み込まれていく。背後では、筋の入った瑞々しい腹筋が我慢の限界だと言わんばかりに高らかな音を鳴らして俺の奥深くまで激しく打ち込んでいる。
俺はひとかけらだけ残った理性を使って躰を反らし、道重さんの上体を支えようとした。しかし、肉体の悦びが縦横無尽に駆け巡り、陸に上げられた魚のように飛び跳ねて躰が言うことをきかない。それでも何とか彼の躰を捕まえて、最も噛み合いの良い体勢を見つけだし、屹立した欲望を敏感な内奥へと誘う。
「道重さんっ、」
すぐに苦しいくらいに快感と衝撃が押し寄せて、目の前が真っ白になった。もう自分の中にいる彼の一部と、腰を掴まれた大きな手の感覚しか感じ取れるものはない。
「イク……っ」
全身が震えるほどの恍惚が過ぎ去った後、道重さんを道連れにして重たく崩れ落ちた。
今まで、こんなに感動する気持ちに出会えたことはない。
──道重さんはよく眠る。
気がついて目を開けると、ふかふかの布団に包まれた彼がこちらを向いてすやすやと寝息を立てていた。
寝具の心配をして慌てて飛び起きれば、俺のくたびれた腰回りはすっかり綺麗にされ、ご丁寧に下着まで穿かされていた。しかし彼はそこで電池が切れたのか、そのほかの服は俺のそばに投げ出されたままだった。
(疲れてるだろうに悪いことしたな……)
道重さんはよく眠る。行為の後も、運動や勉強の後も。
本で得た知識によると、彼のように脳にハンデを負った人の多くは非常に疲れを感じやすくて、回復するまでに時間がかかるらしい。本人はいつも「少し眠いだけ」と頑なに認めないが、彼が元気に動けている時間はまだ少ない。だからこそ、起きている間は大好きな勉強を思う存分できるように、環境を整えて差し上げたいと強く願っている。
俺は二人分の着替えを済ませ、ベッドを降りた。寝ている彼を起こさないように忍び足で離れ、いくつか片づけものをして、いつもの本棚に向かった。
その途中で白いローテーブルに置いていた俺のスマホが突如着信を知らせた。眠りを妨害してはいけないと反射的に画面をタップし、相手を確認もせず耳へ押し当てた。
「……もしもし」
「ちょっとー、また外泊ぅ?」
その錆びた声はお袋だった。茶化すみたいにわざとらしく音程を上げている。
背景にはテレビの音がかすかに聞こえた。なんてタイミングが悪いんだと舌打ちしそうになるのを我慢して、小声で返す。
「またっていうほどしてないだろ。なんだよ急に」
「急もなにも心配だし、アンタ家にいる時もいつも帰ってくるのが遅いんだもん。しばらく顔見てないけどちゃんと食べてんの?」
高校生の親としてはなかなか問題のある発言をしていると思ったが、その原因は俺にあると考えに至ったら口を噤むしかなかった。普段からあまり干渉してこない母親だが、何故かそれが突然物寂しい気持ちにさせられた。
「大丈夫。家に入れる分を抜いてもまあまあ持ってるし」
「……ふーん。ま、別にいいけど。とにかく相手の子には迷惑かけないようにしなさいね。それよりさっき担任の江東先生から電話があったんだけど、アンタ、進路希望票まだ出してないの? 早く出しなさいよっ」
「あー……」
「クラスではアンタだけだって出してないの。もー、しっかりしてよね、頼むから」
「はいはい」
「母さんは就職って書いてくれれば何でもいいからね」
進学って言われても無理だからね、と念には念を押されてほとんど一方的に通話が終わった。やかましい鶏みたいな口調に時折嫌な気持ちになったが、言われていることはすべて正論なのでぐっと呑み込んでやり過ごす。
(進路か……)
俺は寝ている道重さんをちらりと確認して、部屋の隅に寄せていた黒いリュックから白紙の進路希望票を取り出してローテーブルに置いた。
忘れていたわけではない。でも何となく出したくなかった。
お袋は前々から俺が高校を出たら働きに出ると信じて疑わない。母子家庭だし、確かに金銭的な余裕はない。道重さんと出会う前の漫然と過ごしていた俺だったら、特に考えるきっかけもなく受け入れていたかもしれない。
しかし普段は働かない勘というものが、眉間のあたりで強い違和感を知らせている。
(俺、やっぱりまだ場違いな感じが否めないんだよな)
最初から知っていたけれど、道重さんと俺ではあまりにも格が違いすぎるのが今の悩みだ。比較したいわけではないが、階級の高いもので揃えられたモデルルームのような洋室にいると、雑多な物で溢れ返った狭い集合住宅に住まう身としては、嫌でもそう感じずにはいられない。
別にどちらが良い悪いと言うつもりはないし、親のせいにするつもりもない。しかし今の自分のままでは確実に道重さんと釣り合わないのは明白だ。住まう環境も、持っている物も、学も精神性も、すべて。
店長は以前俺に『理想とする姿でその人の隣に立つことだけはできる』と言ったが、それをそのまま当てはめるとすれば、今の理想はもっと人としての格を上げて誰にも恥じられない人間になることだ。
道重さんの隣にいても見劣りしない人間になることだ。
(うわ、そんなこと考えてんだ俺……)
急に脈拍が慌ただしくなって、熱くなる顔を手で押さえた。自分はきっと、どんな苦労をしてでも道重さんといる未来を選びたいと思い始めている。
一度考えるのをやめて、壁一面の本棚に近づいた。これは道重さんの一部でもあり、あまり語りたがらない彼の過去を記憶した媒体だ。個人的には道重さん本人と同じくらい大事な存在でもある。印象深いボロボロの国語辞典を手に取ってみると、付箋だらけで厚みが増してうまく閉じてくれない。それなのに破れたページはなくて、きれいな外箱もちゃんととってある。物持ちと性格の良さが表れていて、こういう些細なことでますます好きになる。
(これを使っていた小さい頃の道重さんにも会ってみたかったな)
微笑ましく思いながらそれらを本棚に戻した。最近、この環境を初めから与えられていた彼を少し羨ましくも感じる自分がいる。
進路について迷っているのは単なる体裁についてだけではない。道重さんに影響されて、困ったことに勉学への憧れを抱いてしまった。中学の内容もまだあやふやなのが懸念だが、とにかく人生で初めて『やりたいこと』を見つけた。道重さんが負った『失語』というものについて詳しく知りたい。彼の力になれることを探せないだろうか。
日々そればかりを考えている。
(国語辞典の並びに六法全書って振り幅エグ)
かの有名な国民的キャラクターがあしらわれたポップな辞書から、漆黒に金の文字で威圧感をも放つ法律の書物たち。よく分からないが数年前に刊行されたものから最新版まで揃えられているようで、同じような見た目の本が棚の多くを占めている。
かつては彼の夢であり、日常だったもの。軽々しく引っ張り出すのはだいぶ躊躇ったけれど、この時の俺はどうも気になって、気づけば指が吸い寄せられるみたいに伸びていた。
(やっぱり道重さんってすげぇよな……)
ぱらぱらとページを捲ってみても、難しい語句と言い回しの連続で、俺が理解するには何周か読み直さないといけない。こんなのを普段から"趣味で何周も"読んでいたって言うのだから、間違いなく頭ひとつ抜けている。
道重さんの身体が自由なままだったら、今頃この本を手に取っていたのは俺ではなかった。何かの被害に遭った人を法の上で救済するのも、本来であれば彼自身だったかもしれない。
(いや、まさかな)
一瞬文字の海の上に煌めきを見た気がしたが、俺は首を横に振って否定した。『それ』はあまりにも無謀すぎる。道重さんの夢を俺も追えるだろうかなんて、世間知らずで場違いな自分には言葉にする権利もない。
愚かな考えだと心の中で言い聞かせながら、本をそっと棚に戻した。それでも、突然訪れた閃きの影を無視できなくて、しばらくの間その黒い背表紙の前で縫い付けられたように動けなくなった。
