「最近頑張ってるみたいだな」
店長はやっぱり、客席が無人になった静けさの中でだけ私語らしい私語をする。
客の動向から目が離れて窓の外の景色がやたら印象深くなるタイミングだからか、残業中に意味深な話をしているドラマのワンシーンみたいだなといつも思う。
「はい」
「実沙子さんも褒めてたぞ。テストが終わっても毎日夜まで勉強してるって。『ウチの子どうしちゃったのかしら』って言ってたけどな」
あまり無理するなよ、と検品中の品物から目を離さずに言った。またお袋は店長に変なことを吹き込んでと閉口しそうになった。しかしもとはそんな物言いにさせてしまう俺に問題がある。
道重さんのように『自慢の息子』だったなら、きっとそんな言葉は初めから出なかった。
「……しっかりしないと、って思ったんです。今さら遅いですけど」
「なあに、若いんだから遅いなんてないだろ。今だと思ったタイミングが始めどきさ」
そうだったらいいのだが。高揚と焦りを感じながらバイトから上がり、すかさずスマホをチェックした。待ち受け画面にはメッセージの受信を知らせる通知が示されていた。急いでそれをタップし、ユニフォーム姿がアイコンの送り主に返信する。
休日は、バイト終わりに彼の家で勉強をする。道重さんの試験の手伝いをする。たまに一緒に図書館へ行く。
加えて日曜日のジムも欠かさず送り迎えをする。
詰め込んでいく実直な生活が息切れもせずに続いているのは、その隙間で『友達』と言い張ることは到底できない関係があの日以来密かに続いているからかもしれない。秘密が増えれば増えるほど、他人に言えない強い絆で結ばれていく。彼を支えたい気持ちが固い地に根差し芽生えていく。
「道重さん、俺です」
急いでインターホンを鳴らした。門の鍵を遠隔で解錠してもらい、通り慣れた石畳を駆け抜けた。
ステンドグラスがはめ込まれた玄関ドアを開ければ、今日は普通そうに装っていながらもどこか元気のない顔が現れた。顔と胸がカッと熱くなるのを身体の外側で感じながらも、なるべく平静を装うことに力を注いだ。
「……上がりますよ。来る途中でこれ買ってきました」
俺は道重さんが好きな抹茶のお菓子を袋ごと手渡し、サッと広い玄関の片隅に靴を揃えた。頭上ではカシャカシャとビニール袋が擦れ合う音が鳴り、お礼の言葉が力なく呟かれたのを聞いた。
部屋に入ってもお互い無言のままだった。道重さんはいつものローテーブルで勉強をして、静かに、とても静かにページを捲る。
俺はそんな彼に一言断りを入れ、有り余るほどの興味と半ば逃げのように壁一面に立ち並ぶ本棚へと向かい合った。芥川龍之介、コナン・ドイル、ヘミングウェイ──まだ読んだことはないが名前は聞いたことがある。小説の森を抜けると小学生の頃に使っていたのだろう、ぼろぼろの国語辞典や難しそうな英英辞書などが並ぶ。どれも道重さんを知る上で大事なものだ。
それらに興味本位で手を伸ばそうとしたけれど、今日は張りつくような静謐さが俺の動きを静止させた。
……その理由は知っている。この静けさは心の叫びと同等かもしれない。
そう思ったら、今は彼の知恵と興味の結晶を眺めるのも憚られる気がした。
「道重さん、一度、外行きませんか」
ぐるぐると考えた挙句、勇気を出して彼のいる方を振り返った。
彼は俯いたまま、カンッと大きな音を立ててシャープペンシルをテーブルに打ち付けていた。
♦︎
「……なんで、きたの」
住宅街の隙間にひっそりとある小さな公園で、彼は重い口を開いた。塗料を塗られた廃タイヤの遊具に腰掛け、しぼんだ花のようにぐったりしている。
「いやっていったの、に、」
「すみません。俺馬鹿だから顔を見ないと心配で」
この後のジムはどうしますか? と尋ねても、道重さんはふるふると首を横に振るだけだった。今日は流石にお休みするらしいので、俺はすかさずジムにその旨の電話をした。
しばらく会話のない時間が訪れた。夕方だというのに、小さな子どもを連れた家族が小さなブランコできゃあきゃあと高い声を上げて遊んでいる。
俺は彼から少し離れたタイヤに座り、横目で道重さんを捕まえていた。焦点の合わない顔も、曇った表情でさえも、もう今の自分にとってはかけがえのない宝物みたいな感覚になっているのが新鮮だ。
「くやしい」
道重さんは崩れ落ちるがごとく顔を手で覆って項垂れた。その向こうで眩しいくらいに笑い合う親子がいるだけに、彼の輪郭は逆光のように暗く沈んでいる。
秀明高校から通知が届いたのが昨日だった。道重さんが頑張っていた復学のための試験が先週にあった。試験が終わってしばらくして、本人から「学校の、もどれない」とだけ連絡があった。言葉の数は少なかったけれど、さすがの俺でも何のことかすぐに理解した。
「……道重さん」
「がんばっても、もどれなかった。からだが、前みたいに、ならない」
それ以上は語らなかった。道重さんは顔を隠して肩を揺らす。俺は何も言えなかった。しかし何かはしなきゃと泣いている彼の隣に座り直して、そっと肩を寄せた。こういう時に俺はできることが少ない。せめて涙を拭くものをと考えをめぐらせて、でもタオルやハンカチみたいな気を利かせたものは持っていないと気づいて、悩むより先に着ている薄手のフーディを急いで脱いで差し出した。
「……え、」
「それ、使ってください。別に返さなくてもいいんで」
半ば押し付けられた灰色の服を前に道重さんは赤くなった目をぱちくりさせて、まるで意味が分からないと言うかのように動きを止めた。そりゃ洋服だもんな。しかし数秒後には状況を把握したのか、されるがまま服を受け取り、軽く頭を下げた後雪崩れ込むみたいに咽び泣いた。
「あのときの、事故が、なければ……っ!」
「……」
「おれ、わるいことした? なで、こんな目にあった、?」
悲痛に漏れ出た嗚咽が胸を切り刻んでいく。ここへ来て、数ヶ月前に今井さんが言っていた『友樹は完全には戻れない』残酷な現実をまざまざと見せつけられたみたいだった。
あんなに優秀で前向きで、手強い苦難に立ち向かっている人でも、叶わないことがある。
「おれ、こ、から、どうすれば……、」
道重さんなら失語症なんて乗り越えるんじゃないかとどこかで信じてさえいたのに。
けれど、現実はそう甘くなかった。この世にはそんな都合の良い夢小説なんて存在しない。失った機能は戻らないし、無常にも時は進んでいく。
(道重さん……)
なぜ罪もない人がこんな不条理に苦しまなければならないんだろう。どうしたら納得のいく答えを導き出せるだろう。気持ちを完全に理解することは難しいが、言葉が分からなくなるなんて改めて考えると恐ろしいことだ。自分の言いたいことも人に伝えられず、誰かが手を差し伸べていてもどんな言葉をかけられているのか理解できず、生きたまま肉の箱に閉じ込められている感覚なのではないだろうか。
その中で必死に努力して生きていても、外から見ればただ無情な現実があるだけで、本人の感情や望んでいた未来は置いてけぼりだ。
(──やっぱり俺は、道重さんの助けになりたい)
気づけば膝の上で両手が自然と拳を作っていた。事故を起こした人間は、被害者である彼の現状を知っているのだろうか。知らないとしたら見せてやりたい。一時は同情する気持ちもあったが、身体を完全に戻せないのなら、せめて心からの償いが欲しいと強く感じる。
自分事のように沸々と悲しみと怒りが沸き、未だ泣き止まぬ道重さんの冷えた手を片方取って、祈るみたいに固く握った。
俺に何ができるだろう。今は身の回りの手助けをすることしか自分に能力がない。
それも大事だが、広い意味で彼を守るには、今のままで本当にいいのだろうか。
こうして手が届く範囲の向こうに、もっと勉強しなければならないことがたくさんあるのではないだろうか。
「……道重さん」
いつの間にか遊んでいた親子はいなくなり、空は暗闇に侵され、光の届かない山奥に捨てられたみたいなひどく恐ろしい気持ちになった。
しかしここで立ち止まってはいられない。どんな苦難の中でも折れずに進み続けていたひたむきなこの尊さを守りたい。恐怖心を凌駕するほどの闘志に似た焔が、心の中を明るく照らす。
「腹減ってません?」
道重さんは泣き腫らした顔を上げた。切り揃えられた前髪がグシャグシャになるほど俺の服で涙を拭った後、二度頷いた。
「ラーメン、食いに行きませんか」
♦︎
うまい。麺をすすり、スープをかっくらい、底に沈んだもやしの一本まで探り出す時間。それは人に何もかもを脱ぎ捨てさせ、ひたすらにラーメンという宇宙の中に没頭させてくれる。
隣では道重さんも湯気に巻かれて夢中でラーメンと対話している。やっぱり男同士で食べるのは気持ちがいい。道重さんは賢いけど、それでも頭を空っぽにしてラーメンのかける魔法のグルーヴに飛び乗っていける男だけの特権を彼も持っているみたいだ。
食べている間も、店を出る瞬間も、余計な会話はなかった。塩と油と炭水化物の背徳的な余韻を感じながら、見やればその顔はいくらかすっきりした様子に見えた。
「……あ、道重さん、ちょっと一件連絡してもいいですか?」
その隙を見て、割と早いうちに直接連絡先を教えて貰った彼のお袋さんに電話をする。夕飯を食べて帰る旨を説明すると、『いつも本当に悪いわね』と弱々しい返答があった。空気がほんのり固くなったのを感じて隣をちらりと確認すると、若干きまりの悪そうな視線を送られた。
「なや」
通話が終わり、人通りの少ない暗い路地に差し掛かるや否や、甘える声とともに彼から手を繋いできた。何を遠慮しているのか手のひらだけしか握って来なかったそれを、俺が五本の指を絡ませ繋ぎ変える。
横を向くと、すかさず暗い照れ笑いが返ってきた。
「きょうは、見づ、見づらいの、ごめん」
「いーえ、とんでもないっす。泣ける時に泣いてください。俺、そばにいますから」
何気なく放った言葉だったが、握る手や絡み合う腕の体温が高くなったのを感じた。道重さんは気持ちが昂るとよく身体が熱くなる。
言葉はなくても、喜んでくれていると肌を通して伝わってきて俺も俺で嬉しくなる。
「……なおや、きて良かった、今日」
「安心しました。俺余計なことしちゃったかなって少し心配でしたよ」
「さいしょ、思った」
「ですよね」
「だって、情けない、のに」
彼は表面上では笑顔を貼り付けながらも、しゅんと影を落とした。同性同士だからかもしれないが、情けなく思う気持ちも、落ち込んでいる姿を誰かに見られたくない気持ちも痛いほど分かる。
ただ、それを理解しても声をかけずにはいられなかった。
「……格好悪いとは思ってないですよ。俺、道重さんのことを尊敬してます」
「……」
「むしろ初めから引いてるくらいっすよ。こんなに根性と信念のある人、周りにいなかったんで」
もちろんいい意味でですよ、と付け加え、握った手にぐっと力を込めた。
……絶対に報われてほしい。こんなに頑張っているのだから。
俺は彼のためにはなんだってする。
そう、心に決めた瞬間だった。
「……また一緒にメシでも食いましょう。俺、道重さんと開拓したい店いっぱいあるんで……って、おわっ」
言い終わる前に道重さんは勢い良く抱きついてきた。後ろ向きに吹き飛ばされそうになるのを体幹でどうにか堪えて、密度の高い上半身を両手で抱き止める。
「ちょっ、道重さん?」
「……っ、」
「だ、大丈夫っすか? どこか調子悪くなりました?」
彼は顔を上げてふるふると首を横に振った。暗い中目を凝らしてみると、嬉しいような照れくさいような、はたまたほんのり不甲斐なさも感じられる複雑な色をしていた。
「なおや、ありがと」
吐息混じりのあたたかな音色で放たれた。泣いて腫れぼったくなったとはいえ、感謝の言葉を口にした表情は晴れやかだった。青白い月明かりに照らされて、涙の跡もシャープな輪郭もシルクのような髪もキラキラと輝いて見える。
その顔を見て、ストンと何かが胸に収まった音がした。
(あれ……)
こんな至近距離でありのままの道重さんを見られるのは俺だけに与えてくれた特権なのかもしれない。
心を開け渡してくれている喜びが、つむじ風の如く全身を震わせ突き抜けていった。
(──好き、かも)
今日この瞬間まで自分にも見えることのなかった心の輪郭が、あっけなく像を結んだ。真円のように単純で最も整った簡素な形。矛盾のない、生まれた時からこういう形をしていたんじゃないかとすら思えてくる不思議な説得力に満ちていた。
しばらく無言で見つめ合っていたが、突然道重さんは真顔になって心なしかソワソワし始めた。瞼を半分閉じて本能に染まる匂いを滲ませ、腕を前に突き出し慌てて俺を引き剥がそうとしている。しかし勝手に離れて行こうするくせに、あの獲物を狩る豹のような目はこちらを追いかける。
その様子を見て俺は察した。
求められて嫌厭するどころか、彼の下半身にふくらんだ心の貌に興奮を覚えた。
もう、すべてを差し出しても構わなかった。
これが、『好き』という気持ちの正体なのかもしれない。
「……いいっすよ。……多分俺も、同じ気持ちです」
雲間に浮かぶ月明かりの下で、彼の見開いた瞳が濡れるように揺れていた。あまりにも明るすぎる月光から早く逃れたくて、俺は道重さんの胸元を手で引き寄せて身を隠す。
近くにあった神社の生垣に横たわる暗い影に背中まで埋めてしまったら、お互いの吐息が混ざるまでひたすら唇を貪り続けた。
