好きな食べ物、好きな色。
好きな漫画、好きな、人。
今さらながら、数ヶ月前に道重さんと二人で最初に出かけた日のことを思い出していた。
質問された時は何となく答えていたけれど、よくよく考えてみれば手近にあったものを提示していただけで、心から好きになった物を挙げてみようと振り返っても、思い当たるものがない。
よく言えば、与えられた環境をありのまま受け入れて生きてきた。だからこそ、執念を具現化したみたいな先輩が衝撃的だったんだ。現状を変えようと努力する姿や、悔しがったり好きなものを一途に追い求めたりするその鮮やかさが心に焼きついて離れない。
──サササ……、カリカリカリ
だが、彼のことは、好きかどうかというより尊敬に近いと思う。出会った人の誰よりも眩しい存在だ。頑張っている人の力になれたら嬉しいし、困っていることがあれば手助けしたい。実のところそれだけかもしれない。
静謐な空気に放たれた摩擦の音。数多の罫線の上にシャープペンシルを走らせる。想像に違わず、観葉植物がアクセントの洒落た空間。壁という壁は床から天井まで本棚で張り巡らされていて、本が縦に横に詰め込まれている。
──初めて道重さんの部屋に来ていた。
白くて丸いローテーブルを囲んだすぐ隣には、ラフなTシャツにハーフパンツ姿の彼が一心不乱に長い文章を書く練習をしている。俺がここへ到着した時からずっと同じ体勢で、その背後には大小様々な大きさをした本が彼を守る要塞のような形で重なり、一部積み上げられすぎて雪崩れていた。
(いや、『それだけ』だとしたら、全然集中出来ねぇのは一体何なんだ)
勉強をしに来たはずなのに、俺の手は止まったままだ。分厚い辞書や六法全書がずらりと並び、その隙間に電気で点くピアノや額縁に収められたバカでかいジグソーパズルが肩身を狭くしながら飾られている。その中でもやはり彼の家着姿は新鮮で、その無防備さに視線が勝手に吸い寄せられてしまう。
(なんか……)
二年前に参加したらしいどこかのマラソン大会のTシャツを肩まで捲り上げてほどよく筋が浮き出た長い腕。ジムでは二の腕までしか見たことがないけれど、胸とか背中も割と筋肉質なのだろうか。それはそうか、もともとはマラソン走れる人なんだから。
ぼんやりと見つめながら無為な時間に身を任せていると、一人でいる時に考えるのとは違う色々な具体的な想像がおのずとイメージの視界を埋めてくる。
目の前にいる道重さんの知らなかった美しさ、文字を書く程度の動きだとしても生身の肉体を動かすその個性の現れる音。
体温や素肌、普段服の下に隠されていて見えはしないきっと美しい存在たちを、自分にとって理想的な姿で思い描いている心情にふと気付いて、言葉はもちろん表情に出して察せられてしまうことも避けなければと急に焦りを感じた。毎日好きだと言われているのだから仕方ないという言い訳で隠すには無理のあるはみ出し方をした感情を、無理に無視しようとすればするほど、それが背徳的なものなんだって言われてるみたいで気恥ずかしかった。
「なや、いまなん、なんし」
空想に耽りもぬけの殻になっていたところを、彼の声でようやく現実に帰還した。
「…な、なんに、してる?」
「あ、テスト勉強してます。来週中間なんすよ」
「てす、と」
「はい。今回は頑張ってみようと思ってて」
道重さんの家に来てからは全くというほど捗っていないが、遅咲きながらようやく勉強の面白さに気づいて、時間を作ってコツコツやってみている。知識を得ることで自分の世界が広がることが何よりも楽しい。今となってはなぜこの歳になるまで本気で取り組んでこなかったのだろうかと疑問に思う。
道重さんには到底及ばないけれど、彼が歩んできた道を俺も辿ってみたくなった。
「おれも、ある」
「何がですか?」
「て、すと」
「そうなんですね。え、でも道重さんって休学中にも試験があるんですか?」
彼はシャープペンシルのノック部分を顎にトントンと当てて、しばし思考を巡らせていた。それからいくつか言いたい単語を発音し、俺と壁打ちのような会話をした後、それらをひとつに繋げた。
「がっこう、戻る、き、まるて、てすと」
聞けば、彼は言葉を失ってから一年のこのタイミングで、復学が可能かを見極める試験があるのだという。
だから最近は会うたびに勉強をしていたのだろうか。
「学校に戻れるといいですね。応援してます」
「なおや、も」
彼は軽くはにかんだ後、再び机へ向かった。
また沈黙が訪れた。
しばらくして、集中してやっていた道重さんはいったん休憩を取るようだった。俺は正直ずっと休憩と変わらなかったけれど、彼の言葉に甘えて、せっかくだし一緒にお茶することにした。
「まってて、」
いったん階段を降りて、お菓子とグラス二つと大きいペットボトルのお茶を持って戻ってきた。手伝いましょうかとは一応言ったものの、今日は俺がお客さんなわけだし、人の家のキッチンに入るのはさすがに気が引けて大人しく待っていた。
「どう、ぞ」
「ありがとうございます」
名前は知っているけれどうちのレジ袋に入ったことは一度もないお菓子。差し出されればそりゃあお礼を言って素直にもらうけれど、そのちょっと高級なお菓子を受け取るだけでもどきどきしてる自分がいて、ましてギザギザした包装の端を破く瞬間なんて悪いことをしてるみたいな緊張と高揚感が混沌と胸を熱くした。
自分とは違う人生、自分とは違う環境。本当は誰もがみんな違う人生を生きているのに、無関心ではいられない誰かの人生とほんの少しでも同じ轍を共にすることはこんなに特別な気持ちになるものなんだなと感慨深い気持ちにさえさせられる。
──ぴちょん
冷たいお茶を注がれたグラスが汗をかいている。
──はた
時々急に側面を走る水滴は、悶々としている時間の単位を数えられているみたいで落ち着かない。
(なんか俺、変かも……)
この家に呼ばれてからずっと、動悸のようなものに悩まされている。
「なや、筋肉、がすきの?」
「へ?」
いきなり脈絡のない質問をされて、口に含んだクッキーがこぼれ落ちないよう手で押さえながら情け無い返事をしてしまった。
脈拍が一段と速くなったことを自覚しながら彼に目を向けると、瞼とまつ毛に遮られ見えないはずの瞳に睨まれ動けなくなった。浮かぶ艶は汗ではなさそうだ。ほんの少しの照れ笑いがかえって昏く深く明るい部屋に染み付くようだった。
「さっき、みてた」
「えっ、いやまあ、ジムで頑張ってる成果が出てるなぁ〜とか? 考えてはいましたけど、」
「さわる?」
「へっ? えっ」
返事を待たずに伸ばされた手が、俺の右手をひやりとつかむ。道重さんの左手の袖へ近づけられる俺の右手、触れたら二の腕は手のひらよりずっと温かかった。
二つの瞳は俺の手に近い方向を向いているだけでどこにも焦点は合わされていなかった。俺の手は引かれ、肩まで進む。親指なんか胸と肩を繋ぐ筋が筋肉のあたりに触れていて、たくしあげられたTシャツの肩の皺がいかがわしい。続けて胸の方へと導かれるけれど、なんでわざわざ袖の隙間から入れさせようとしてるんだろうと考えるくらいには逆に冷静になっている自分もいた。冷静か? いや思考が停止しただけだ。対して、適当に投げ出していた視線を俺の双眸に定めた彼の思考は変に冴えているみたいだった。
片方の手がシャツの裾を握る。俺の右手はそちらへ引き寄せられる。思考はますます遅くなる。──もうすぐ禁忌の扉を押し開けてしまうことは避けられないのだと、わかってしまった。
「ちょ、ちょっと道重さんっ!」
まさに腹筋の溝に触れる寸前で我に返り、慌てて呼び止めた。
「それ以上はやばいっすっ、」
「よーばーい?」
「とにかくマズイっす、やばい!」
直感的に危機を察知し、少しだけ後ずさった。どくん、どくんと緊急事態だと言わんばかりに頻脈を起こし、全身の筋肉が引き攣るみたいに熱を持つ。心臓と肺が忙しく収縮して、とりわけ腰より下のとある部分は今までにないほど膨らみ、膝を抱えて隠すことで必死だった。
(こんなの、道重さんに知られたら死ぬ……)
生々しい肌の質感。指の腹を押し返すほどのハリのある皮膚と隆起した肉の感触を思い出したら、ますます収拾がつかなくなりそうで怖かった。顔が熱っていることも知られたくなくて、俯いてじっと耐えた。
「なや、おれ、いや?」
声から悲しそうな色を察して、間髪入れずに頭を横に振った。嫌なわけじゃない。自分の人生を変えてしまうほど偉大な人に秘められた熱を初めて知って、胸が張り裂けそうだった。そして自分がこんなウブな反応をしてしまうことに苦痛なくらい恥じて、目を見て会話なんてできなかった。
「道重さんっ……違うんです、」
何か返事をしようと動かぬ頭を必死に回してみたけれど、やり場のない想いが消化できないほど大きく膨らむだけだった。それでもせめて否定しているわけではないことを伝えたくて、今度は自分から縋るみたいに抱きついた。
困惑する道重さんは一瞬身体を硬くした。その白い肌が汗ばみほんのり朱が差す様子を目にしてしまえば、目眩に襲われて苦しくなった。
(どうしよう……、俺このままどうにかなってしまいそうだ)
生まれてから一度も感じたことのない激しい情動が、俺自身を揺り動かし目覚めさせている。
もうこれ以上はどう対処すればいいのか分からなかった。新たな感情との出会いはまるで嵐そのものだった。
「なや、なおや、」
しばらく固まって動けないでいると、彼はぽんぽんと俺の背中を叩いて宥めてきた。恥ずかしさ負けそうになりながらも顔を上げると、慈愛に満ちた表情の道重さんがじっくりと見つめてきていた。
「おれ、なおや、好き」
「道重さん……」
「なおやは、おれ、すき?」
答えを言おうとする前に、体勢が崩れたのか意図的に倒されたのか。同じくらいの身長がのしかかってきたと感じた次の瞬間には、毛の長いラグマットに背中をつけて天を仰ぐ格好になっていた。
耳元でみしっと音がして、床から生えた腕伝いに見上げれば、情欲に熱を湛えた二つの瞳に捕まえられてしまった。
「俺は……、」
息が熱くて苦しくて、相変わらず心臓の音がうるさい。
何と答えればいいのか今も考えが及ばない。しかし考えるより前に、俺の両手は熟れた桃色の頬へと伸びていた。
そしてどこか不安が見え隠れする彼の顔を、取り憑かれるが如く引き寄せていた。
