あいはことばを選ばない


「よし、今日もちょっくら行ってくるか」
 春が来れば思い出す。ちょうど一年前は受験のシーズンで、三月の公立高校の合格発表に自分の番号がなかったことを。
「へ……クシュッ!」
 自己採点なんてものはやらなかったけれど、何となくそんな感じはしていたから驚きはしなかったんだ。
 でもそこから二次募集試験までの間が本当に地獄だった。唯一の家族であるお袋からはこっぴどく叱られ、もう神頼みするしかないとせっせと近所のお稲荷さんへ毎日手を合わせに行ったんだ。もちろん勉強はしていたけれど手応えがなかった。もうそうすることしか思い浮かばなかったんだ。
(あれで受かったの、奇跡だよなぁ)
 ともあれ、その甲斐あってか、俺は無事に高校に通えている。今日も今日とてお稲荷さんにご挨拶に行く。何とか単位を落とさずに一年やってこられたし、無病息災、家内安全、これに勝るものは、何もなし。
 遠くに白い梅の花に埋もれた赤い鳥居が見えてきた。境内には赤地に『合格祈願』と白くくり抜かれた旗がパタパタと音を立てて靡(なび)き、その上に輝く太陽は瞳孔に直接光を浴びせてきているのではないかというくらいに眩しい。
 毎日欠かさず通うつぎはぎだらけの細道に、今日は見慣れぬ人がしゃがみこんでいた。どうやら転んで荷物がカバンからぶちまけてしまったらしくて、なんだかものすごく不器用そうな手つきで拾い集めている。

「大丈夫すか? こりゃ大変っす……」
 慌てて彼のもとに駆け寄り手伝った。
 どう見ても寝巻きで中学生……いや同い年くらいだろうか。なぜこんな早朝に、しかもやたらと沢山ノートを抱えていたことに若干の違和感を覚えながら、それらを束ねて手渡そうとした瞬間。
 息を飲んだ。少年の輪郭に閉じ込められたダイヤモンドの輝き。細い顎と真っ白な頬、ほくろ一つ無い首から繋がる端正な鎖骨を見たら、もしかしたら女の人だったのかもしれないと一瞬迷った。やっぱり男だろうとわかっていても、真っ白な馬が鼻先をかすめて走り抜けるような振動が胸を叩いた。

 ── 見惚(みと)れていて気づくのに遅れたが、切り揃えられた黒くさらさらした前髪の向こう、澄んで輝く漆黒の夜空のような瞳がこちらを切り裂くみたいにじっと睨んでいた。
(は?)
 いまにも刃向かってくる気配すら感じる表情に、思わず口があんぐり開いてしまった。整った顔立ちで、ノートを受け取る手の動きからも名家の跡取りみたいな品格があるのに、眉間に皺が寄った不釣り合いな表情はどこか不気味ささえ感じさせた。骨格からしてもやはり俺よりも年下に見えるその男は、焦りながら乱雑な手つきでノートを肩掛けカバンに押し込もうとし、その半分くらいしか入っていないというのに足早に立ち去ろうとする。
「おい、ちょっと!」
 まだ何冊もこぼれ落ちたままのノートを俺は訳もわからずかき集め、背中を丸めてぎこちない動きで逃げるように離れていく男を追いかけた。中には学生証らしきものもある。こんなに大事なものを置いていくなんて、いったいどういうつもりなんだ。
「……おい、これ学生証! とノート落ちてんぞ」
 肩を捕まえて振り向かせるも、相手の挙動不審は止まらなかった。なぜか怯えた目でこちらを一瞥し、俺の手から奪い取るために一瞬身体を近づけたかと思えば、すぐに間合いを取って慌ててカバンに詰め込む。そしてやはり全部は入らずバラバラと地面に落ちた。よく見ると、その長い指は小刻みに揺れている。
 もしかして、怖がられているのだろうか。
 俺の見た目が金髪ジャージで"チンピラ"みたいだと。
 
 ともかくそいつは一言も発せずにそそくさと去ってしまった。
「……なんだアイツ、礼も言わないのかよ」
 むしゃくしゃして、アスファルトの上に転がる石を思いっきり蹴り上げた。ヤツの学生証が入った上等な革のカードケースとペンが足の近くに無造作に忘れ去られている。異様なほど舞い上がった直後の苛立ちに、去っていく方向へ怒鳴りつけてやりたい気持ちもなかったわけではないけれど、それらを拾わずに放っておける性根はあいにく持ち合わせていなかった。

『道重友樹 20××年6月30日生』

「みち…じゅうともき? いや、『みちしげ』か。うわ、なんだよアイツあれで一個上かよ!」
 顔だけは整ってるけどお礼のひとつもできない失礼な野郎。
 それが俺がアイツに抱いた第一印象だった。


♦︎


「お〜い、社長〜」
 放課後のざわついた教室に、軽やかな声が鳴り響いた。
「なんだ」
「社長、今日ヒマ? 駅前のワック行こうぜ」
「わりぃ。これからそこでバイトあんだわ」
「わ、マジか〜」
 同じクラスの本田洸(ほんだ ひかる)は茶色の頭を抱え、だいぶ派手に残念がった。まるで推しのアイドルが結婚でも発表したかのようだ。
「なんだよバイトどうせ夜までなんだろ」
「すまんな」
 ちなみに『社長』というのは俺のあだ名である。本名が『海馬直哉(かいば なおや)』とあって、苗字が某カードゲームのキャラクターと同じことから、ダチになる大抵の人間が勝手にそう呼んでいるのだ。
「じゃな」
「あ〜、わりぃそしたら帰る時ついでにオレのチャリンコ下ろしといてくんね?」
「なんで俺がやんなきゃなんねぇんだよ。俺は社長だぞ、社長」
 本田はお勤めご苦労さんどす、と白い歯を見せ、額に当てた手を挨拶がわりにチョイっと離しながら別のクラスの友達のもとへ声をかけに行った。

(あいつホント調子よすぎだろ……)

 リュックを肩に担いで階段を駆け降りる。チャリのポケットを取り出そうと学ランのポケットに手を突っ込むと、馴染みのない感触が指をかすめた。肌に吸いつく明らかに高そうな革のケース、そういや朝荷物をひっくり返していたアイツの学生証をまだ持っていたのだった。
(ホント、どいつもこいつも)
 もう一度そいつを取り出しまじまじと眺めてみる。黒髪サラサラで幼い顔立ちだけれど、気が強そうなことが窺えるまっすぐな瞳。「秀明(しゅうめい)学園」という名前からして私立の頭良さそうな高校に通っているらしい。面倒だしわざわざやってやる義理もないが、さすがにこんな大事なものを返さないわけにもいかないし、バイトがてら交番へ届けに行ってやるか。
 狭くて取り出しにくい上下二段タイプの駐輪場から自分の自転車を引っ張り出し、ついでになんやかんや本田の自転車も出してやった。俺は下だからいいが、あいつは俺より背が低いのに上の段だからなおさら大変そうだしな。
 既に何人か帰って少し空いた下段のスペースに本田のオフロードバイクを置き換えて、俺はさっさと走り始めた。しかしいくらも走らないうちに、キキーッと大袈裟な音を立ててブレーキをかける羽目になった。

「……!」
 ──本日二度目の遭遇だった。今日一日で急激に身近になってしまったおかっぱ頭のそいつは、人通りの多い交差点に荷物をぶちまけて、突き飛ばされて転んだみたいに不恰好で頼りない様子で拾っている。
 また朝の俺みたいに手伝っている三十代くらいの男の人がいて、ぎこちないあいつとは打って変わって手際よく荷物を束ねていた。そして、まとめた荷物をやつの鞄に入れ終わると、肩に手を回してさっと立ち上がらせた。随分と慣れた様子だが、もしかして家では家族の介護とかしているんだろうか。
 親切な人の流れるような動きに見入り感心しているのも束の間、またも俺の眉間には皺が寄ることになる。
 これだけしてもらっておきながら、やつはやっぱり「ありがとう」の一言も発せず何事もなかったように歩き始めたんだ。
(あんの野郎……っ)
 自分が無礼な行いを受けるのはまだいい。だが、善良な誰かが同じことをされているのを見ていたら黙ってはいられなくなって、自転車を脇に置いてずかずかと歩み寄り言ってやった。
「お前マジありえねぇだろ! 『ありがとう』くらい言えよ!」
 先に振り向いたのは短髪の男性の方だった。驚いたように目を見開き、状況を理解した数秒後にやつへ耳打ちした。遅れてこちらを向いた道重は、黒曜石のような瞳で俺を捕らえ、口を固く結んで俺と対峙した。

「……」

 改めて真正面から覗いたやつの顔は驚くほど綺麗だった──さわさわと揺れるストレートの黒髪、シャープで透明感のある瞳、色白でキメが整った肌。
 男の俺でもドキッとしてしまう容貌にしばし何も言えなくなってしまった。

「……あの、もうそろそろ信号が赤に変わるから、ひとまず道を渡ろうか」
 男性に促され、自分たちが車に囲まれていることを理解する。
「……そうっスね」
 不満そうな運転手らに軽く頭を下げ、たった今赤になってしまった信号目掛けて横断歩道の上を駆けていった。