夏と冬が重なれば。


窓際の席で春風に吹かれながら、咲夏の意識は二年前の、あの忘れられない一日へとタイムスリップしていた。

 すべてのきっかけは、本当に些細なことだった。

 朝凪高等学園の一般入試。

張り詰めた筆記試験を終えた帰り道、咲夏は張り裂けそうな緊張を少しでもほぐしたくて、校庭の隅にある木製のベンチへと立ち寄った。

けれど、そこには先客がいた。
 見上げるような大きな木の下。ベンチにゆっくりと仰向けになり、無防備に寝そべる一人の男子生徒。
それが、観月冬弥だった。
 制服のブレザーの胸元、ちょうどお腹の上あたりに、一冊の小説を開いたまま載せて静かに眠っている。

 咲夏はなぜか、目に見えない力に吸い寄せられるように、一歩、また一歩とベンチへ近づいていった。

(私と同じ、受験生……なのかな?)

 地味な黒髪を揺らしながら、恐る恐るその顔を覗き込む。

その瞬間、咲夏の心臓がドクリと激しく脈打った。
 整った眉、長い睫毛、すっと通った鼻筋。

木漏れ日に照らされた彼のあまりに綺麗な寝顔に、咲夏は息を呑み、心から『綺麗……』と見惚れてしまった。

 すると、悪戯な春の風がふわりと吹き抜けた。
梢から離れた小さな葉っぱが一枚、ひらひらと舞い落ちて、あろうことか彼の鼻の上にピトッと着地したのだ。

(えっ、うそ、どうしよう……!)

 咲夏は内心で大パニックに陥る。

(取ってあげたほうがいいのかな?いやでも、全然知らない人だし!いきなり顔を触られたら、さすがに驚くよね……?あー、でも、めちゃくちゃ気になる……っ!)

 脳内で激しい葛藤を繰り広げた末、咲夏は「やっぱり気になる!」と意を決した。

 恐る恐る、足音を立てないように寝ている彼ににじり寄る。

そっと手を伸ばし、指先で彼の鼻の上の小さな葉っぱを、そーっと慎重につまみ上げた。

(よし、とれたっ……!)

 ミッション成功に胸をなでおろし、小さくガッツポーズを作った、そのときだった。

 閉じていた彼の睫毛が、かすかに震えてゆっくりと持ち上がった。

「あっ……」

 咲夏は驚きのあまり、喉の奥から小さな悲鳴を漏らしてしまう。

 視線が、至近距離で真っ正面からぶつかり合った。

「え、……誰?」

 寝起きの少し低い声で、彼がゆっくりと上体を起こす。 

あまりの気まずさに目をパチクリとさせていた咲夏は、顔から火が出るほどの羞恥心に襲われ、勢いよく言い訳をまくし立てた。

「ご、ごめんっ!あの、顔に葉っぱがついてたの!ずっと気になっちゃって!あぁ、でも、勝手に触ってしまってその、ごめんなさい……っ!」

 必死に頭を下げる咲夏を、彼はポカンとした表情で見つめていたが――次の瞬間、ふっと肩を揺らしてクスクスと笑い出した。

咲夏は呆気にとられて固まってしまう。

「あはっ、あはは!超必死じゃん」

 それまでの眠たげな表情が一変し、目元を細めて爽快に笑う。

 その眩しすぎる笑顔に、咲夏の胸の奥はぎゅっと、今までにない強さで掴まれた。

「俺、観月冬弥。君は?」

 心臓の音がうるさすぎて倒れそうな中、咲夏は消え入りそうな声で、けれど必死に答えた。

「私っ……安達、咲夏……!」

「じゃあ、安達さん。起こしてくれてありがと。また学校で!」

 冬弥は二カッと太陽のように笑うと、足元に置いてあったカバンをひょいと肩にかけ、ゆっくりと校門の方へ去っていった。

 ――また学校で。

 その言葉が、地味で暗い青春を送っていた咲夏の毎日に、どれほどの光をくれただろう。

 これが、安達咲夏の生涯で初めての『一目惚れ』であり、二年間お小遣いを貯めてまで「完璧なギャル」へと垢抜けるための、すべての原動力となった瞬間だった。